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1786年

30歳

1786年1月






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1月

4日、ザルツブルクのレオポルトはザンクト・ギルゲンの娘ナンネルにピアノ協奏曲第20番ニ短調(K.466)を送った。 これはウィーンのモーツァルトが父の求めに応じて、前年の12月2日に郵送した筆写譜であり、このときもう1曲のピアノ協奏曲第21番ハ長調(K.467)の筆写譜も郵送していた。 ハ長調の方はニ短調との交換で、やはりナンネルに送られた。

10日、弟子シャルロッテ・ヴュルベンのために?

を作曲。

14日、ウィーンでフリーメーソンの新しい支部の集会があり、昨年末に作った2つの合唱曲が歌われた。 開会で「親しき友よ、今日こそ」(K.483)が、閉会で「汝ら、われらが新しき指導者よ」(K.484)が歌われたという。
ただし、この2曲の合唱曲と、さらに10日に作曲されたというピアノのためのロンド(K.485)の3曲を、なぜかモーツァルトは「自作目録」に記載しなかった。

ピアノ協奏曲第20番ニ短調(K.466)との交換で、レオポルトはナンネルに第21番ハ長調(K.467)を送っていたが、その楽譜全部を(カデンツァも含め)送り返してくれるよう求めている。

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2月

3日、「自作目録」 を書き込んだ。 これは、オランダ総督(ザクセン・テッシェン大公アルベルト夫妻)がウィーンへ来るので、ヨーゼフ2世は祝典を催すことになり、その余興としてモーツァルトとサリエリの競演が企画されたことによるもの。 シュテファニー詞によるこの劇作品はオペラというより田舎芝居であり、モーツァルトは腕をふるうことができなかった。

7日、ウイーンのシェーンブルン宮のオランジュリー(果樹園)で、オランダ総督を迎えた演奏会があり、モーツァルトの『劇場支配人』とサリエリのオペラ・ブッファ『まずは音楽、お次がせりふ』が初演された。 後者の台本は非常に機知に富んで面白く、『支配人』に人気はあまり集まらなかったという。
その後、この2つのオペラは毎土曜日、11日・18日・25日の3回、ケルントナートーア劇場で再演された。

11日から3月4日まで、父レオポルト(67歳)はミュンヘンの親友マルシャン(45歳)のもとに滞在。

19日、宮廷の仮面舞踏会にモーツァルトはインド人の哲学者に扮して出た。 そして自作の8つの謎と14の格言「ゾロアスターの抜粋」が書かれたビラを配ったという。 フリーメーソンの教義を意識したものか。 モーツァルトの自由なコスモポリタンぶりは貴族たちに警戒心を抱かせ、うとましい人物として見なされただろう。 それに乗じてサリエリがうまく自分を売り込んだかもしれない。 この謎と格言について、メイナード・ソロモン著「モーツァルト」(石井宏訳、新書館)の第22章「ゾロアスターのリドル」(pp.524-547)が詳しい。

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3月

2日、 を作曲。 これは少なくとも1年前に既に作られていたらしいが、第1楽章の下書きではオーボエが指定されていたところをクラリネットに変更して完成した。 その調性と楽想において、後の「クラリネット五重奏曲」や「クラリネット協奏曲」を先取りしているといわれる。
同じ日、ミュンヘンでは大愛好家音楽会があり、モーツァルトのピアノ協奏曲第12番イ長調(K.414)が演奏され、滞在中のレオポルトが聴いていた。 ピアノを弾いたのは11歳の少女マリア・ヨハンナ・ブローハルト(Maria Johanna Josepha Brochard, 1775-1824)で、彼女はレオポルトの弟子だった。

10日、1781年にミュンヘンで初演されたオペラ『イドメネオ』が3月13日にウィーンでアマチュアの貴族たちによって(アウエルスベルク侯爵邸で)演じられることになったので、技量に合わせて書き直し、

を作曲。

13日、『イドメネオ』(K.366)がアウエルスベルク侯爵邸で上演された。 そのときハッツフェルト伯爵がシェーナ「もういいの、私は全てを聞いた」(K.490)のヴァイオリン独奏パートを受け持ち、また彼の義妹マリア・アンナ・ホルテンジアがエレットラを歌ったという。

14日ドゥシェク夫妻がプラハをたち、ウィーンを訪問。 4月12日に帰郷するまでの間、ブルク劇場などでコンサートを開いた。 モーツァルトがピアノ伴奏したという。

24日、

を作曲。 ピアノ協奏曲の中では最大の構成になっている、この曲には謎がある。 それは余白に人物の横顔が書かれてあることで、この最高傑作を作る際に彼は何を思っていたのだろう。 なお、彼のピアノ協奏曲の中で短調作品はこれと第20番ニ短調(K.466)の2曲だけ。

1786年4月





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4月

7日、ブルク劇場で予約演奏会。 このとき新作のピアノ協奏曲第24番ハ短調(K.491)を演奏。

12日、ウィーンを離れたドゥーシェク夫妻がザルツブルクに到着。 夫人の祖父イグナーツ・ヴァイザー(1785年12月26日没)の遺産相続を済ませ、4月25日にザルツブルクをたち、プラハに帰った。 滞在中に自慢の喉を披露。

29日、前年10月末から作り始めていた

が完成。 この原作のボーマルシェの喜劇はパリを始めヨーロッパ各地で人気があったが、ウィーンでは上演禁止となっていた。 それをダ・ポンテは原作から政治色を除き、オーストリア皇帝から上演許可をもらった。

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5月

1日、ウイーンのブルク劇場で『フィガロの結婚』の初演。 4月28日に上演予定だったが、延期されていた。 モーツァルト自身の指揮による。 劇場は満員で、ほとんど全部の曲がアンコールされた。 上演時間があまりにも長くなったので、皇帝から「今後、一声以上の声部からなる曲はアンコール禁止」という通達が出された。 ブルク劇場で年内に9回上演されたという。

3日の再演では5曲がアンコールされ、また8日の再々演では7曲がアンコールされたという。

6月

3日、ピアノ四重奏曲第1番K.478に対して、出版契約していたホフマイスターは、むずかし過ぎると文句をつけたため、モーツァルトはその後2曲書く契約を破棄し、2月にできあがっていた をライバルのアルタリアから出版した。 そして第3曲は作曲されなかった。

10日、

を作曲。 2年後に、曲の終りに26小節を付け加え、3楽章から成るピアノ・ソナタ(K.533)にした。

26日、ロイトゲープのために

を作曲。 自筆譜は青、赤、緑、黒のインクで書かれているという。

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7月

8日、 を作曲。 この自筆譜も赤とセピア色の2色で書かれてあるという。

27日、たぶんホルン奏者ロイトゲープのために、「九柱戯」に興じながら

を作曲。 ただし第1、3、6曲の自筆譜のみ残り、楽器編成は不明。

1786年8月

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8月

1日、二重対位法も用いたこの大作 を作曲。 1787年アルタリア社から出された初版は自筆譜と多少異なる部分があるという。 第2楽章の主題がホルン協奏曲 K.495 第2楽章のそれとよく似ていることが指摘されている。 この曲との関連で、 がある。 その自筆譜は1938年以来行方不明。

5日、友人ジャカンたちと九柱戯の遊びに興じながら

を作った。 彼の家で、モーツァルトがヴィオラ、クラリネットは名手シュタトラー、ピアノはジャカンの妹フランチェスカという受持ちで演奏したのだろう。 「クラリネット三重奏曲」とも呼ばれる。

8日、ドナウエシンゲンのフォン・フュルステンブルク公の侍従セバスチャン・ヴィンターに「自分を宮廷作曲家として採用して欲しい」旨の手紙を送り、見本として次の曲の冒頭主題を書き添えた。 これにも父レオポルトの事前の根回しがあった。

17日、プロシア王フリードリヒ2世没、74歳。 フリードリヒ・ウィルヘルム2世が即位、42歳。 のちにモーツァルトはウィルヘルム2世の求めに応じて弦楽四重奏曲を作ることになる。

この頃、フランスはイギリスとの通商航海条約により深刻な産業危機にみまわれていた。 そしてこれが1789年7月14日の革命へとつながる。

19日、

を作曲。 その目的は不明だが、親しかった出版者ホフマイスターへの債務を果たすために作曲したらしい。

1786年9月




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9月

12日、 を作曲。
新全集では、この頃 を作ったとしている。 第1楽章はホフマイスターの歌曲「自然に寄す」を主題とする変奏曲。

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10月

18日、三男ヨハン・トーマス・レオポルト誕生。翌月死亡。

11月

4日、 を作曲。 おそらく借金返済のためにホフマイスター社の依頼に応じて作られたらしい。

15日、三男レオポルト死亡。

17日、父(ザルツブルク)から娘へ

レオポルトは元気でいる! そして私は? 誕生日に下剤を一杯呑んで67歳という年齢を放り出してしまってから少し良くなった。 そして15日にザンクト・ギルゲンへ行きたいという強い誘惑を覚えたが、人間には時には何が薬になるか、分からないものだね。 しかし私だって楽しいことも必要だ。 さもないと、悲しい気持ちに沈んでしまう。 今日、お前の弟に返事を非常にキッパリと書かなければならなかった。 二人の子供を預かって欲しいと申し入れてきたのだ。 謝肉祭にイギリスへ旅行したいためだなどと言う。 ひょっとするとあれの女房が、うまいことを思い付いたという訳だ。 私の断わりははっきりしたもので、教訓に富むものだ。
冒頭のレオポルトとはナンネルの息子。 その赤子を父レオポルトが引き取って育てていた。 それはヴォルフガングに知らされていなかった。 父の誕生日は11月14日。ヴォルフガングは、3歳のカール・トーマスと、生まれて間もないヨハン・トーマス・レオポルトを父に預けて、イギリス旅行を考えていた。ただし実現しなかった。

二人の子供たちが小さかった頃、父レオポルトは弟ヴォルフガングの方にすべてを注ぎ込み、姉ナンネルの方は二の次だった。 しかし成人してヴォルフガンガは父の手の届かない所に行ってしまった。 過去の穴埋めのためもあってか、寂しい父は娘に優しかった。

18日、

を作曲。 第3番(K.496)の4ヶ月後のこの作品で、弦はピアノと対話する本格的な三重奏曲となって完成。

1786年12月




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12月

4日、冬のシーズンに演奏するために を作曲。 これは6曲の連作(第20〜25番)を閉じるにふさわしい大曲。

6日、同じ目的で

を作曲。 しかし演奏する機会はなく、プラハへの旅行にもって行き、1787年1月19日に初演された。 モーツァルトのシンフォニーが、オペラの添え物でなく、初めて独立した。この曲にはメヌエットがないため「メヌエットなし交響曲」とも呼ばれる。

27日、ナンシー・ストレース嬢に送った恋文といわれる

を作曲。 彼の自作目録には「ストレース嬢と私のために」と記された。 1787年2月23日イギリスに帰る彼女の告別演奏会で、彼女が歌い、モーツァルトがオーケストラと協奏するピアノを弾いた。


1785年8月から1786年8月の間に

を作った。 アトウッドはイギリスのセント・ポール寺院のオルガニストで、1785年8月から1787年2月までモーツァルトの弟子。 モーツァルトにロンドンへの演奏旅行を勧めていた。

1786年6月3日以降、以下のカノンを作ったとされている。


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2013/11/03
Mozart con grazia