Mozart con grazia > 年代記 > 1782年 |
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1782年26歳 |
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9日、父へ
どうして手紙を書いてくれないのか僕には分かりません。そんなに怒っているのですか。 まさか僕の結婚に腹をたてているのではないでしょうね。
16日、父へ手紙で「後見人はフォン・トーアヴァルトという劇場衣裳室の監督者だ」ということと、「前年12月24日のクレメンティとの競演のこと」を伝えている。
30日、父へ
「イドメネオ」の台本を送って下さい。僕の発表会の準備に必要なのです。発表会は四旬節の第3日曜にはもう行われるので、すぐ送っていただきたいのです。 オペラは眠っているわけでなく、グルックの大きなオペラのためと、歌詞にどうしても直さなければならない所が沢山あるために遅れているのです。 ・・・僕の愛するコンスタンツェはそんなひどい考え方をするなんて思わないで下さい。眠っているオペラとは「後宮からの誘拐」、グルックのオペラとは「タウリスのイフィゲーニェ」のこと。
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13日、姉へ
毎朝6時に理髪師がきて僕を起こします。7時まで髪の手入れをして、9時まで作曲します。 9時から1時まではレッスンをします。昼食はふつう2時にとります。 いろいろ演奏会があったり、あちこちに招待されたりして不定なので、夜の作曲は当てになりません。 それで寝る前にしばらく作曲するのを習慣にしています。時には1時までも起きて作曲していることがありますが、それでも朝6時には起きます。この頃、父レオポルトはミュンヘンのマルシャン家を訪問。テオバルト・マルシャンはレオポルトの唯一と言ってもよい友人であった。 ミュンヘンからの帰り、彼の娘マルガレーテ(当時14歳)を連れてザルツブルクに戻った。
ここに3曲の個性的なピアノ・ソナタ群が誕生していたかもしれない。
さらに関連すると思われる2曲
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1773年のピアノ協奏曲K.175のフィナーレをウィーンの趣味に合わせて書き換え、
23日、この曲を父に送り、「これは自分のために作ったものなので、姉さん以外は誰にも弾かせないように」と伝え、宝のように大事にして欲しいと言っている。 10月2日の手紙も参照。
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10日、父へ
無事に全部が届き、お父さんには時計の紐と煙草入れが、お姉さんには2つの帽子が気に入ったということで嬉しく思います。 コンスタンツェはお父さんのお手にキスを、お姉さんには心からの抱擁を送り、仲良しになっていただきたいと願っています。 僕は日曜の12時にスヴィーテン男爵の所へ通っています。そこではヘンデルとバッハ以外は演奏されません。 僕はバッハのフーガを集めています。セバスティアンだけでなくエマヌエルやフリーデマン・バッハのも。 イギリスのバッハが亡くなったことはご存じでしょうね。音楽界にとって惜しいことです。イギリスのバッハとはクリスチアン・バッハ。
スヴィーテン男爵を通して知ったJ.S.バッハの影響を受け、コンスタンツェのために
20日、姉へ
僕の愛するコンスタンツェがとうとう優しい心から、僕の愛するお姉さんに手紙を書く勇気を出しました。 どうか返事を書いてやって下さい。 お姉さんに「プレリュードと3声のフーガ」を送ります。この作品は妙な方法でできあがりました。 というのは、プレリュードが先にきて、フーガはあとに続くべきだったのですが、僕はまずフーガを先に作曲しました。そしてプレリュードを考えている間にそれを書き写しました。
(コンスタンツェの添え書き)
まだ存じてはいませんが、せめてお手紙でお話ししたいという私のあまりにも大きな願いから、こうして敢えてペンをとることを悪くお取りにならないはずだと、 弟さんが保証して下さいました。こちらからお友だちになりたいと申し出ましてもいいでしょうか。本当にいいのでしょうね。それを望みつつ。
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26日、フィリップ・ヤコブ・マルティンが開いた第1回アウガルテン演奏会に出演した。
そのとき、モーツァルトはアウエルンハンマー嬢と「2台のピアノのための協奏曲K.316a」を共演した。
さらに、ヴァン・スヴィーテン男爵の作になるシンフォニーが披露されたり、アマチュア演奏家たちも登場したという。
アウガルテンとは宮廷の庭園だった所で、ヨーゼフ2世はウィーン市民に開放し、庭園中央にある宮殿内で、あるいは野外でコンサートを催した。
現在その宮殿は陶器工房になっている。
この頃、
19日、ヨーゼフ2世の依頼による
後宮からの逃走でベルモンテとペドリロの二重唱として
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16日、ウィーンのブルク劇場でオペラ「後宮からの誘拐」が初演された。
20日、父へ
僕のオペラは好評で、昨日2度目の上演がありましたが、初演のとき以上にひどい陰謀がめぐらされていたなんて想像できますか? 第1幕は終始まぜっかえされましたが、それでもアリアの間の大声の「ブラヴォー」までは邪魔することはできませんでした。 今は仕事を沢山かかえています。新しいシンフォニーも1曲書かなければなりません。さて、大事な仕事ばかりです。 今度の日曜日までの一週間で僕のオペラをハルモニーに編曲しなければなりません。さもないと、ほかの人に儲けられてしまいます。シンフォニーとはK.385「ハフナー」。 この夏、ザルツブルクのハフナー家が貴族に列せられることになり、その祝祭用セレナードとして作曲。 その後、楽譜をウィーンへ送り返してもらい、1783年3月に K.385 交響曲第35番(ニ長調、通称「ハフナー」、4楽章)に改作し、その形で残っている。 編曲するオペラとは「後宮からの誘拐」で、それを管楽8重奏曲にしようとした。 なお、当日のオペラの総譜にはトランペット、ティンパニ、フルート、クラリネットなどのパートが抜けていた。 理由は、それらを書ける五線紙がなかったので、別紙に書いたところ、写譜屋がそれをなくしたからだという。
26日、オペラ「後宮からの誘拐」の3回目の上演。劇場は大変な熱気に包まれ、モーツァルトは「こんなに喝采されるのは気持ちいい」と父に伝えている。 そして、この頃の手紙では、コンスタンツェとの結婚に同意してくれることを求めている。
ハフナー交響曲を、父からの催促に、出来るそばから書き送った。 7月27日にアレグロを、8月初めに2つのメヌエットとアンダンテと終曲を、そして8月7日に行進曲(たぶんK.385a)を送った。 同時に、急いで「ハ短調セレナーデK.388」を書いている。
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7日、父への手紙で
コンスタンツェのために
31日、父へ
どうすれば僕が公女の先生になるとうぬぼれることができるか分からないと言うのですか。 サリエリには公女にピアノを教える力はありません。せいぜい僕の邪魔をするだけです。公女とは、皇帝ヨーゼフ2世の甥の婚約者だったヴュルテンベルク公の娘のこと。
この頃、コンスタンツェのためにソナタ集を作るつもりだったが、すべて未完成に終った。
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28日、ヴァルトシュテッテン男爵夫人へ
私の心をひどく悩ましているあの美しい赤いフロックコートのことですが、どこで手に入り、いくらするのか教えて下さい。 実は美しさに見とれて、値段をすっかり忘れていたのです。どうしても欲しいのです。
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最愛、最良、最も美しく、金をかぶせ、銀をかぶせ、砂糖をふりかけた、最も親愛な、最も尊敬する、恵み深い奥方さまである男爵夫人よ。 ここに恭しく先に申し上げたロンドと喜劇2部と物語の小冊子をお送りいたします。 昨日は、奥方さまが美しいフロックコートを私に1着お約束して下さいましたことにお礼を申し上げるのを、私の馬鹿な頭がどうしても思い出そうとしませんでした。 私は音楽でなく建築を学べばよかったと後悔することがあります。 頭に何も落ちてこないような人が最高の建築家だと、よく聞いたことがあるからです。お礼に送ったロンドとは、K.382。
19日、
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28日、父へ
僕の予約演奏会にあと2曲のピアノ協奏曲を書かなくてはなりません。 これらは、やさし過ぎもせず、むつかし過ぎもせず、その中間で、とても輝かしく、耳に快いけど空虚でもなく、音楽通だけが満足するところでありながら、通でない人たちにも何故かきっと満足するように書かれています。 予約券は6ドゥカーテンです。 そのほか出版されるはずのオペラの抜粋も仕上がっているし、同時にジブラルタルに取材した賛歌の作曲という実に厄介なものも手がけています。 その詩は大袈裟で熱っぽく聞こえます。 今の人たちはあらゆるものについて、中庸、つまり本当のものを知らないし、尊重もしません。 喝采を得るには、町の馭者でも歌えるほどやさしいか、常識家には理解できないほど難しいということで気に入られるか、といったものを書かねばなりません。2曲のピアノ協奏曲とは、下にある第11番と第13番。 厄介なものとは、ハンガリーのある婦人の依頼による
ハイドン・セット第1番となる
翌年3月の宮廷での予約演奏会のために、
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