Mozart con grazia > 年代記 > 1767年
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1767年

11歳
1767年1月



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1月

1月27日、満11歳の誕生日。

この年の初め、バイエルンのゼーオンにあるベネディクト修道院を訪れたとき、院長から3月21日のベネディクト祭用の奉献歌を依頼され、モーツァルトはさっそく窓に寄りかかって

を鉛筆で書き上げたという。
1767年3月






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3月

前年12月からこの年の3月12日の間、ザルツブルク大司教ジギスムントの依頼で を作曲。 当時、復活祭前40日間の四旬節には、オペラの上演が禁じられ、その代りに宗教音楽や宗教劇が演奏されていた。 ザルツブルクでは大学の学校劇が伝統的に盛んだった。 この曲もこうした状況の中から生まれた。 内容は単純な宗教的たとえ話で、全体は3部に分かれる。 その当時のやり方で、3人の音楽家が1部づつ担当して作曲し、その第1部をモーツァルトが作曲した。 第2部はミハエル・ハイドン、第3部は宮廷オルガン奏者アードルガッサー

3月12日、ザルツブルク大学付属ギムナジウムでオラトリオ「第一戒律の責務」第1部が男性2人、女性3人の歌手で上演された。 女性歌手のうちの一人マリア・マグダレーナは後にミハエル・ハイドン夫人となる。

この頃、大司教や大学や町の金持ちなどからの注文殺到。 また、ミハエル・ハイドンエーベルリンの作品に親しみ、フックの教本から対位法を学ぶ。
1767年4月


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4月

復活祭に、教会の礼拝堂などにキリストの埋葬を型どった「聖墓」が作られ、そこでキリストの受難と復活の宗教劇(パッション・カンタータ)が演じられるので、そのために が作られたらしい。 たぶん、17日の聖金曜日に上演されたと思われる。 大司教は11歳の子供がこのようなカンタータを本当に一人で作曲できるものか怪しみ、僧院の一室に閉じこめて作らせたという逸話がある。

かつて7歳のときに訪れて神童としてもてはやされたウィーンを再び訪れるにあたり、神童ピアニストをより印象づけるための作品として

を作った。 ただし、どれも他作曲家の作品を編曲したもの。 残されている草稿には父親の筆跡が多いため、原曲の選択や編曲の作業などにどの程度モーツァルト自身の仕事があるのか疑問。
1767年5月




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5月

ザルツブルク大学の依頼で を作った。 前作のオラトリオ「第一戒律の責務」上演の後、すぐこの大作(総譜は162ページ)に取り組んだ。 テキストはラテン語。 その扱いの不慣れが指摘されている。

5月13日、大学講堂で学生達により初演。 R.ヴィドルのラテン語劇「リディア王の慈悲」の幕間に上演されたという。
1767年6月
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6月〜7月

ザルツブルクで、第1作に続いて、他作曲家の作品を編曲して を作った。

この頃ザルツブルクで

を作ったらしいが、すべて紛失。
1767年8月





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9月

9月11日、皇女マリア・ヨゼファ(マリア・テレジア女帝の9番めの皇女)とナポリ・シチリア王フェルディナント1世の婚儀のために催される祭典をめざして、一家はウィーンへ旅立つ。

9月15日、ウィーン着。 この頃ウィーンでは天然痘が大流行していた。

ウィーンで

を作曲したかもしれない。
1767年10月



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10月

10月15日、皇女ヨゼファが天然痘で死亡。

10月15日以降、ウィーンで、王女ヨゼファのために

を作ろうとした。

天然痘を避けて一家はウィーンを出発。

10月23日、チェコのブリュノ着。 ザルツブルク大司教の兄弟フランツ・アントン・シュラッテンバッハ伯爵を訪問。

10月26日、病気療養のためオルミュッツに行くが、まずヴォルフガングが、次に姉ナンネルも天然痘にかかった。 このときヴォルフガングは一時的に失明し、危険な状態にまでいったらしい。

12月15日までの間に、ウィーンかオルミュッツで

を作曲。 その自筆譜の表紙に「1767年ウィーンにて」とあり、そのうえに父の手で「オルミュツにて」と書かれた。 天然痘から回復してから作曲したものか。
1767年12月

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12月

12月23日、オルミュッツを出発。

12月24日、ブリュノに到着。 そこの音楽家たちとの共演で公開演奏会を開く。


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2009/07/26
Mozart con grazia