マンハイムにゆかりのある人物 |
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Christian Cannabich1731 - 1798 |
1731年12月28日マンハイムに生れ、1798年1月20日フランクフルト・アム・マインで没した。 妻マリー・エリーザベト Marie Elisabeth (旧姓ドラモット de la Motte)、娘ロジーナ・ペトロネッラ Rosina Theresia Petronella (愛称ローザ Rosa)1764年生れ。
すぐれたヴァイオリニスト、作曲家。 マンハイム宮廷楽団のコンサート・マスターや音楽監督を務めた。 1777年10月30日マンハイムに到着したモーツァルトと母を暖かくもてなしてくれた。
その頃のマンハイムでは選帝侯カール・テオドール(1724 - 99)は文化活動を奨励し、ドイツにおける文化全般の中心地を作り上げていた。
彼はライデン大学などで学んだのち、選帝侯カール・フィリップ・フォン・プファルツ・ノイブルクが死去した1742年にその跡を継いでプファルツ選帝侯となった。
音楽界ではシュターミツの弟子カンナビヒがオーケストラの指揮法や演奏技術を高め完成させていた。
そこでモーツァルトは、歌手のアントン・ラーフ、フルート奏者ヨハン・バプティスト・ヴェンドリング、オーボエ奏者フリードリヒ・ラムなどと親しくなった。
そしてマンハイムは、21才の青年モーツァルトがアロイジア・ウェーバー(17才頃)に恋した忘れられない土地である。
バイエルン選帝侯(マクシミリアン3世ヨーゼフ)が死去したことにより、その任を兼ねることになったテオドール侯が1778年にミュンヘンに引越し、カンナビヒ家は宮廷楽団と共に移住。 そしてアロイジアも。 それを追うように(パリで母を亡くした)モーツァルトは父の警告を振り切って再び訪問する。
関連する曲
CD [DENON COCQ-83287] t=11'12 ●オーボエ四重奏曲 変ロ長調 本間正史 (ob), 高田あずみ (vn), 森田芳子 (va), 松岡陽平 (vc) 1998 |
Ignaz Jakob Holzbauer1711 - 1783 |
1711年9月17日、ウィーンに生まれた。
1753年、マンハイム宮廷楽長になり、交響曲、室内楽曲、オペラを作曲した。 1763年7月、西方への大旅行に出発したばかりのモーツァルト一家がマンハイムに滞在したときに知り合った。 1776年に作ったオペラ「ギュンター・フォン・シュヴァルツブルク」はドイツのジングシュピールにとって重要な位置を占める。
モーツァルトは1777年11月にそのオペラを聴き、賞賛したという。 また同じく、ミサ曲(それは26年前にホルツバウアーが書いた作品)を聴いている。 それに対して「たいへん見事だ。声楽部も器楽部も立派な作りだ。フーガもいい曲を書く」とほめている。
1778年モーツァルトは、ホルツバウアーの「ミゼレーレ」を改作K.297a (Anh.1)し、パリのコンセール・スピリチュエルで発表したが、ル・グロに利用されただけに終り、その作品と元のホルツバウアーの「ミゼレーレ」も失われてしまった。
マンハイム宮廷と楽団がミュンヘンに移っても、ホルツバウアーは残り、マンハイムで作曲と教育を行ったという。
そして、1783年4月7日、その地で没した。
Anton Raaff1714 - 1797 |
1714年5月6日ボン生れ、1797年ミュンヘン没。 テノール歌手。1770年からマンハイム宮廷楽団で働く。 モーツァルトより40才以上も年齢が離れているが、親しく交際していた。
1778年6月頃パリで、モーツァルトと再会。 この頃彼の声は既に頂点を過ぎていたが、深い友情に変わりはなかった。 1780年、モーツァルトはミュンヘンの選帝侯カール・テオドールから、1781年の謝肉祭のためのオペラ「クレタ王イドメネオ」の作曲を依頼されるが、そのときラーフの助けがあったという。 なおその年の10月31日、アロイジアがウィーン宮廷俳優ヨーゼフ・ランゲと結婚。
Johann Baptist Wendling1723 - 1797 |
フルート奏者。 モーツァルトは彼の奔放な人柄にすぐ意気投合した。 彼の一家はみな音楽家だった。
妻ドロテーア Dorothea Spurni 1736-1811
娘アウグスタ Elisabeth Augusta (愛称 グストゥル Gustl) 1752-94
弟フランツ・アントン Franz Anton 1729-86
弟の妻エリザベト Elisabeth Augusta 旧姓 Sarselli, 愛称 リズル Lisl, 1746-86
弟の娘ドロテーア Dorothea 1767-1839
Ignaz Franz Joseph Fränzl1736 - 1811 |
ヴァイオリン奏者。 マンハイム宮廷楽団で1774年からコンサート・マスターを務めていた。 カンナビヒの義妹アントニア・デ・ラ・モットと結婚。宮廷と楽団がミュンヘンに移ったのちもマンハイムに残り、市民コンサート(愛好家演奏会)を創始した。
Theobald Hilarius Marchand1741 - 1800 |
ストラスブルク生れ。 同郷人セバスティアーニの劇場仲間で、マンハイムで1771年から彼らと活動するうちにプファルツ選帝侯カール・テオドールにみとめられるようになった。 そして1777年にカール・テオドールが設立した「ドイツ劇場」の運営を任された。 宮廷と楽団がミュンヘンに移ったとき、テオバルトも(1778〜1793年まで)この劇場の支配人を務めた。
レオポルト・モーツァルトの1777年12月6日付けの手紙から登場し、彼の生涯の親友となる。 晩年には孤独な存在となったレオポルトにとってマルシャン家との親密な交際は(ナンネルは例外として)世間との唯一の絆と言ってよい。 マルシャンはメーソンの同志だった。その家族的な付き合いはメーソンの同志関係からきているかもしれない。
息子ハインリヒ(Heinrich Wilhelm Philipp, 1769-1812?)
1781年から1784年までザルツブルクのレオポルトの家に住み込み、弟子となった。 ザルツブルク宮廷楽団のヴァイオリン奏者およびピアニストとして採用され、1786年にはモーツァルトのピアノ協奏曲ニ短調K.466を演奏した。
関連する曲
娘マルガレーテ(Maria Margarethe, 1768-1800)
1782年にザルツブルクのレオポルトの家に遊びに行っている。
彼女は成長して歌手になり、1790年に作曲家でチェロ奏者フランツ・ダンツィ(Franz Ignaz Danzi, 1763-1826)と結婚する。
Friedrich Ramm1744 - 1811 |
オーボエ奏者。 1777年以降モーツァルトの親友となる。 彼の演奏は柔らかく、表情豊かで、特にアダージョがうまかったという。 14歳で既に宮廷楽団に入り、名手として知られていた。
Martin Alexander Lang1755 - 1819 |
ホルン奏者。 1782年ミュンヘンでマリアンネ・ブーデト(Marianne Boudet, 1765-1835)と結婚。 [書簡全集]によると、彼女はマンハイムのバレエマイスターで主席舞踏手ブーデト(Johann Jacob Boudet)の娘で、のちに優れた女優になった。 ウィーン滞在中のレオポルトが娘ナンネルに宛てた手紙には次のような記述がある。
1785年4月8日彼女(20才)は4月3日から19日の間に、4日間ブルク劇場に客演し、出演するごとに25ドゥカーテンの収入があったほかに、ミュンヘンからの旅費50ドゥカーテン支給されたという。
ブーデト夫人はもう三度も演じました。 ゾフィー役、それから『三人姉妹』で陽気な娘、きのうは『善良な娘たち』の、これも快活で無邪気な娘を。 彼女は受けています。 前に演じた女優がまことに見事に演じたので、誰もがそれ以上素晴らしく、それ以上自然なのは想像できないほどだったにもかかわらずです。 でも、その女優は突然耳が聞こえなくなったため、ブーデトをミュンヘンから呼び寄せたのです。 というのは、アーダムベルガー夫人(彼女のところで私は食事をしました)が療養に行っているからです。 とにかく好ましい、丁寧なひとです![書簡全集 VI] p.80
関連する曲
Carl Stamitz1745 - 1801 |
モーツァルトによれば「下手な作曲家」であり、当時かなり評判だったことについては、「ひどくやかましいから」と評している。
シュターミッツの作品の演奏
CD [30DC-5189] t=16'16 ●2本のフルートのための協奏曲ト長調 ランパル (fl), 工藤重典 (fl), ザルツブルク・モーツァルテウム 1988 |
CD [EMI classics CDC 5 55155 2] t= ●クラリネット協奏曲 第10番 マイヤー (cl), フォンク指揮シュターツカペレ・ドレスデン 1990 |
CD [UCCG-9143] t= ●クラリネット、ホルンとファゴットのための四重奏曲 変ホ長調 作品8の2 ベルリン・フィル管楽アンサンブル 1970 |
CD [TKCC-15268] t=12'23 ●協奏的四重奏曲 ト長調 ストラーカ指揮カメラータ・ムジカ 1986 |
Giovanni Punto1746 - 1803 |
ホルン奏者。 ヤン・ヴァツラフ・シュティヒ Jan Václav Stich(ドイツ名ヨハン・ヴェンツェル Johann Wenzel Stich)が本名であるが、通称プント(Giovanni Punto)と呼ばれていた。 開口部(朝顔)の中に右手を入れて自然倍音以外の音を出すなどの技法にも優れ、ホルンの名手だった。 モーツァルトも彼の腕前を賞賛していた。
Georg Joseph Vogler1749 - 1814 |
マンハイム宮廷副楽長。 作曲家であり理論家として通っていたが、モーツァルトにとっては何も学ぶべきものを持たない、単なるうぬぼれ家。 歴史に名前が残ることになったのは気の毒としか言いようがない。 詳しい人物像については、モーツァルトが的確に書き残している。 →[書簡全集 III] pp.244-245
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