Mozart con grazia > 年代記 > 1764年
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1764年

8歳

1月

1日、ヴェルサイユでルイ15世に拝謁。

8日、パリに戻る。
パリで、ド・テッセ伯夫人のための作品2の第2曲

を作曲。

2月

1日、父レオポルトからハーゲナウアー夫人マリア・テレジアへの手紙
今、ヴォルフガング・モーツァルト氏の4曲のソナタが出版されつつあります。 表紙にこれが7歳の作品だと書いてあったとき、これらのソナタが世間で引き起こすに違いない大騒ぎをご想像下さい。
<参考> ソナタ K.6 と K.7 は「作品1」として出版。 フランス国王ルイ15世の第2王女ヴィクトワールに献呈。 「ヴァイオリンの伴奏で演奏できるクラヴサンのためのソナタ。 7歳のJ.G.ヴォルフガング・モーツァルト、ザルツブルクの出身、マダム・ヴィクトワール・ドゥ・フランスに捧げる。 作品1。4ルイ・ドール4ソル。旧サン・ジャック街、現サン・トノレ街、パレ・ロワイヤルの向い、ヴァンドーム夫人版刻。国王により充許」
このときヴォルフガングは既に誕生日を過ぎ、8歳になっていたが、父は宣伝効果を考え、7歳とした。 献呈文の起草はグリムであり、彼にはヴェルサイユ宮殿でルイ15世の前で演奏する機会も作ってもらったり世話になった。 この頃の親子三人を描いた絵がある。

中旬、二人の御前演奏によって父レオポルトは1200リーブル(約550グルテン)を手に入れた。 ここでもヴォルフガングは奇跡的な見世物で人々を驚嘆させた。

4月

10日、パリを出発。 港町カレに自家用馬車を置き、特別に借りた船でドーヴァー海峡を渡る。 イギリスへの旅を終えて、再びカレに戻るのは翌1765年8月。

23日、ロンドン到着。 バッキンガム宮殿で国王ジョージ3世と王妃に謁見。 ヨハン・クリスチャン・バッハと知り合う。
この当時、ロンドンは人口約100万の大都会、パリは70万人、ウィーンは20万人だった。 また、レオポルトはどこで誰と出会ったか子細に記録している。

5月

20日、ヴォルフガングが病気のため演奏をキャンセル。 ロンドン市内のあちこちのホールでしょっちゅう演奏会が開かれ、奇跡を見るために人々が集まった。 幼い二人には酷なスケジュールだったに違いない。

6月

5日、3時間のコンサートで父レオポルトの年俸の8年分に相当する収入があったという。 まさにヴォルフガングは「金のなる木」であり、レオポルトが自分の全生涯を息子のために費やそうと考えたことは不思議でも何でもない。

7月

父レオポルトが重病となる。

8月

療養のため一家はチェルシーに行く。その間、 が生まれる。

8月から11月にかけて、翌年1月に英王妃シャーロットに「作品3」として贈ることになる6曲のソナタ

を作曲。 これら6曲は「ロンドン・ソナタ」と呼ばれる。 ほとんどピアノ曲。幼い頃の創作を知る貴重な資料。

12月

翌年1月にかけて、産業革命を迎えつつあった豊かな都会ロンドンで活躍するクリスチャン・バッハやアーベルたちの公開演奏会に刺激を受け、病気のためピアノを弾くことを許されていなかったヴォルフガングはあらゆる楽器の作曲を試み、最初の交響曲 を作った。 翌年2月21日の演奏会で発表。
ケッヘルによって整理されたモーツァルトの最初の作品 は1764年作と考えられている。
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2000/12/24
Mozart con grazia