Mozart con grazia > 年代記 > 1778年 |
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1778年22歳 |
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マンハイムで知り合った写譜家ウェーバー氏と彼の一家と親しく交際するうちに、次女のアロイジア(17歳)にひかれていく。
17日、父へ
非常に歌が上手で、きれいな澄んだ声をした娘さんがいます。 欠けているのは演技だけで、それさえあれば、どんな劇場でもプリマ・ドンナがつとまります。フォーグラーが初見で弾いたのはK.246。 彼はマンハイムの副楽長で、作曲と理論の当時の大家。 ただし、モーツァルトにとっては何も学ぶべきものを持たない、単なるうぬぼれ家。
フォーグラー氏が訪問してきて、僕の協奏曲を初見で弾きまくりました。 時にはまったく違う和声や旋律などもつけます。何のつもりでしょうか。 初見で弾く、それは僕にはウンコをするのと同じことです。 速く弾くのは、ゆっくり弾くのより、ずっとやさしいことです。間違えても誰も気がつきません。 初見で楽譜を読むとは、すべての音符やその他のことを書かれてある通りの適切な表情と味わいをもって表現し、 それを作曲した人自身が弾いているかのように思わせることです。
この頃、ウィーンで皇帝ヨーゼフ2世がドイツ・コミック・オペラを設立しようとしていたことを知り、モーツァルトは父にウィーンで就職できるよう推薦状を書いてほしいと頼んでいる。 それを受けて父は積極的に知人に働きかけたが、うまくいかなかった。
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4日、父へ
宮廷でウェーバー嬢はアリアを3曲歌いました。 その歌い方は、ただひと言「見事」とだけ言っておきましょう。 翌月曜日にも、火曜日も水曜日も、ウェーバー嬢は全部で13回歌い、2回ピアノを弾きました。 ピアノも決して下手じゃないです。 僕が一番感心するのは、楽譜をとてもよく読むということです。 僕の難しいソナタを、ゆっくりですが音符を一つも落とさずに弾いたのです。 僕は自分のソナタを、フォーグラーが弾くより、この子が弾くのを聞く方が嬉しいです。
(同じ手紙に書かれた母の手紙)
この手紙でお分かりのことと思いますが、ヴォルフガングは新しい知合いができると、もうすぐその人達のために、ありったけ打ち込んでしまおうとするのです。 あの娘が比類のない歌い手だということは本当です。 でも、息子は自分の利害をほったらかしてはいけません。 ところが息子は、ウェーバーさんの家族と知り合ったとたんに、考え方が変ってしまいました。 息子が今、食事をしていますから、私はこれを内緒で大急ぎで書いています。
6日、新大陸でのアメリカ独立戦争に対して、フランスはアメリカの独立を承認し同盟を締結し、イギリスと開戦。翌年にはスペインもフランスと同盟し、イギリスと戦うことになる。
7日、マンハイムから父へ
僕は妻を幸福にしようと思うけれど、妻によって自分の幸運を作ろうとは思いません。 フォン・シーデンホーフェン氏には、金持ちの奥さんを選ぶ必要があったのです。それで貴族になれます。 しかし僕達は高貴でも名門でも貴族でもなく、また金持ちでもなく、身分が低く貧しいので、富は死ぬと同時になくなってしまいます。 金持ちの妻は必要ないのです。 僕達の富は頭の中にあり、そしてその富は、僕達の頭を切り落とさないかぎり、誰も奪うことができません。
12日、父から息子へ
4日付けのお前の手紙を読んで、驚きもし、恐ろしくもなった。 さっそく返事を書き始めたところだ。 ひと晩中まんじりともせず、一語一語ゆっくり書いて、朝までかかってどうにか書き終えなければならない状態だ。 お前の手紙にはただ欠点だけが現れている。 実際お前は誰でも最初のひと言で信じてしまう。 お世辞や体裁のいい言葉を聞くと、お人好しの心をむき出しにする。 お前はその娘をプリマ・ドンナとしてイタリアへ連れて行こうとしている。 ドイツですでに何度もプリマ・ドンナとして歌ったこともなしに、いきなりイタリアの舞台を踏んだプリマ・ドンナを、一人でも知っているかね。 まだ一度も舞台に立ったことのない16、7の小娘を推薦されたら、どんな興業主だって笑い出すだろう! パリへ立て! 今すぐに。
1月か2月、マンハイムで、ドゥ・ジャンの依頼により
14日、父へ
96フローリンが200フローリンの半額であると思っているなら、ドゥ・ジャンは4フローリンも計算を間違ったことになる。 しかし私はヴェントリングとも約束したように全額を支払ってもらわねばなりません。 もちろん残りの曲は届けます。
21日、父レオポルトはパリのグリムに「ヴォルフガングがパリにいるので、援助してほしい」と頼んでいたのに対して、この日、返事を書いて、「会えれば何かしてあげれる」と言いながらも、「誰も本当の父親の代りはできないこと。 もし彼が自由主義に染まっていれば間違いなく危険な目にあうこと」を伝えた。
「マンハイム・ソナタ」と呼ばれる
23日以前、クリスチャン・バッハのアリアのために作ったカデンツァをウェーバー嬢の練習に役立てようとして
24日、さらに、アロイジアのために
27日、前曲をアロイジアに回してしまったので、その代わりに
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マンハイムで、ヴェントリングの娘アウグステのために
11日、ピアノの生徒テレーゼ・ピエロン(15歳)のために、マンハイムをたってパリに向かうに前に
この頃、テオドール選挙侯のためにミサ曲を作りかけたらしい。 その断片とみられる曲がある。
11日、雇い御者と契約が成立。 モーツァルト母子の馬車を御者が40フローリンで買い取り、その馬車で御者は母子を11ルイドールでマンハイムからパリへ運ぶことになった。
14日、モーツァルトはアロイジアへの恋心を押さえて、母とともにようやくパリへ旅立った。
23日、午後4時、9日半の旅を終えて約12年ぶりにパリの土を踏んだ。
しかしそこは、かつて神童をもてはやしてくれたパリではなかった。
父レオポルトが当てにしていたグリムもすでに個人秘書ではなく、宮廷に仕える外交官であり、時流を鋭く読み抜く彼の目に映ったのは技量に優れた一青年音楽家に過ぎなく、商品価値はなかった。
さらにパリの音楽界は、グルックとピッチーニの論争に明け暮れしていて、上流階級は二分され、かつての神童を思い出す余裕などなかった。グリムはピッチーニ派であったが、そんな事情に疎いモーツァルトにとって、パリでの就職活動は最初から無理な相談といってもよかった。
もちろん機会がある限り作曲したが、紛失したり、演奏する機会がなかったり、辛いことが続き、そして母を失うことになる。
28日、マンハイムで作ったアリアK.295をラーフのところに持っていったら、大変気に入られたが、「お願いだが短くして下さい。今じゃもうそんなに息が長く続かないからです」と言われ、
父への手紙に「僕はこのアリアを喜んで歌ってくれるように直してみると約束しました。
僕はアリアが歌い手に、よくできた服のようにピッタリと寸法が合っているのが好きなのです。」と書き送った。
なお、西ベルリンの国立図書館に自筆譜があり、その手紙を裏付けるように、多くの訂正や書き直しの跡があるという。
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3月か4月、コンセール・スピリチュエルで上演されるホルツバウアーの「ミゼレーレ」に加えるためにル・グロの懇願に応じて
5日、パリから父へ
ホルツバウアー楽長が『ミゼレーレ』を送ってきました。マンハイムの聖歌隊は貧弱なので、彼の合唱曲は何の効果も出せないのです。 それでル・グロ氏から別の曲を書いてくれと依頼されました。冒頭の合唱だけはホルツバウアーのものを残しました。
5〜20日、コンセール・スピリチュエルの監督ル・グロの依頼により
パリで、グリムがくれた紹介状を持って捜し歩いていた頃、わずかな金を稼ぐために、ド・ギーヌ公爵とその令嬢のために
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1日、父へ
協奏交響曲についても事件がありました。 邪魔する者がいるのだと思います。 ル・グロは写譜するのに4日の余裕がありました。 ところが、一昨日になってそれが見あたりません。 楽譜の間を探してみると、それが隠してありました。 何気ない顔をしてル・グロに尋ねると、忘れていたと言います。 2日後の演奏日にコンセールへ行くと、ラムとプントが真赤になって僕に、何故あの協奏交響曲が演奏されないのかと、 カンカンに怒って、ル・グロを罵っていました。
中旬、宮廷のヴァルトホルン奏者ヨハン・ヨーゼフ・ルドルフが、年俸2000リーヴルのヴェルサイユのオルガン奏者の職をモーツァルトに紹介してくれたが、いろいろ理屈をつけて断わった。 母の臨終の手紙(7月3日)で、オルガン奏者なんかイヤだ、高い俸給の楽長でなければイヤだ、と書いて父に伝えている。自分の才能についての絶対的な自信のせいだけでなく、 パリでの生活がうまくいかないことや、マンハイムにいるアロイジアが恋しいことや、最愛の母の病気があったりして、気がすすまなかった。
春か夏、ボーマルシェの「セビリヤの理髪師」の「私はランドール」を主題に
5月から6月にかけて、オペラ座のノヴェールのためにバレー音楽とそれに関連する曲
29日、パリで、モーツァルトは父の「ヴァイオリン奏法」のフランス語訳を見つけた。 ショーベルトのソナタ集を買うために行って見かけたという。 異郷の地で母と二人で辛い毎日を送っていたモーツァルトにとって、これは懐かしい出来事だった。 母はすでに病気で衰弱していた。
30日、パリ、啓蒙思想の長老ヴォルテール没、83歳。
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ル・グロの依頼で
12日、パリ、書き上げたばかりの交響曲を持参して、ラーフと一緒にズィッキンゲン伯爵邸を訪問。 聖体節にコンセール・スピリチュエルがこの曲で始まることになっていると父へ報告。 モーツァルトはコンセール・スピリチュエルの常連作曲家に任命され、以後1781年までそのための作曲を行った。
18日、チュイルリーのコンセール・スピリチュエルで初演。 大喝采を受けたが、病弱した母は会場に行けなかった。
この頃、新大陸では、昨年9月にフィラデルフィア市を占領したイギリス軍が撤退。
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この月から79年1月8日(ミュンヘン)にかけて、アロイジアのために
さらに、この頃、母の死の予感してか短調作品が作られた。
2日、パリ、啓蒙思想のルソー没、66歳。
3日、母の死。 葬儀はパリのサン・トゥスタシュ教会(右の写真)で行われ、遺体は教会付属の墓地に埋葬されたが、その墓地は7年後に廃棄されたため、墓は残っていない。
母の死の数時間後にザルツブルクにいる父とブリンガー神父に手紙を書いている。 父への長い手紙では、モーツァルトは父への思いやりをみせている。 突然に妻の死を聞く父の苦しみを考えて、交響曲 K.297 がパリでヒットしたことや父の喜びそうな話題を次々と並べた。
パリから父へ
悲しいお知らせを申し上げなければなりません。 11日付けの最近のお手紙にもっと早くご返事できなかったのも、そのためです。 お母さんの具合いが非常に悪いのです。 寒気がしたと思うと、すぐまた熱いと訴え、下痢と頭痛が起こりました。 だんだんひどくなるばかりで、話すのがやっとになり、耳も大声で叫ばなければ聞こえないようになったので、グリム男爵が自分の医者をよこしてくれました。 とても弱っていて、熱があり、うわ言をいいます。 みんなはまだ望みがあると言ってくれますが、僕はあまり当てにしていません。 僕は神の御心にすっかりお委せしました。 何ごとにも、たとえそれが我々にはどんなにひどい事のように思われても、我々に一番善いように取り計らって下さる神様の思召しだということを知っているからです。 お母さんは万能の神の御手の中にあります。ヨーゼフ・ブリンガー神父へ
今日は私の生涯で一番悲しい日でした。 これを書いているのは夜中の2時ですが、どうしてもあなたに言わなければなりません。 母は、私の愛する母はもういないのです! 神がお召しになりました。神が母をお望みになったのです。
9日、父へようやく母の死を事実として伝えた。 しかし、父レオポルトは3日の手紙ですべてが分かっていた。
この上もなく悲しく痛ましいお知らせを辛抱強くお聞きになる心構えがおできになっていることと存じます。 3日付けの前便で、もはや良い便りは聞かれないという気持ちになっているものと思います。 その3日夜10時21分、母は安らかに永眠しました。僕が前便を書いたときは、母はもう天上の喜びに浸っていました。 すべてはもう終った後でした。自分自身の苦痛と悲しみから推して、お父さんとお姉さんの苦痛と悲しみを考えたとき、どうしてもこの恐ろしい知らせでお二人を不意打ちする気持ちになれなかったのです。
13日、父(ザルツブルク)から息子へ
3日付の悲しい手紙を受け取った。 私たちは涙で手紙が読めなかった。 お前の姉のかわいそうなこと。 私はすべてを神にお委せしているが、私が涙でろくに字も書けないことを、人間的で自然なことだと思ってくれるだろう。 お前が母にできるだけのことをしてくれたものと信じている。 この手紙は、私の祝福の言葉で始めて、ナンネルが結ぶつもりだったが、あの子は一字も書くことはできない。 私たちは食事ものどに通らなかった。 ブリンガーが来て、みじめな状態の私たちを見つけた。 私は黙ってお前の手紙を見せた。 彼はなかなかうまく演技して、さりげなく私の意中を聞いた。 私は『妻はすでに天国の人になった。息子があの手紙を書いた時にはすでに死んでいたと思う』と答えた。 するとブリンガーは『そう、亡くなりました』と言った。 それを聞いたとたん、私の眼鏡が落ちた。
27日、グリムはレオポルトに手紙を送り、ヴォルフガングについて、「彼は人が好すぎる。だまされ易く、成功の可能性のある手段を知らない。才能は半分でいいから、倍の要領の良さが必要だ」と書き、「人々はピッチーニ派とグルック派に分かれていて、この間で成功を収めることはできない」と伝えた。
30日、パリからアロイジアに手紙を書き、アリア「テッサリアの人々よ」K.316 (300b)を送ると伝えた。 これはモーツァルトがアロイジアに宛てた中で唯一現存している手紙だという。
父レオポルトがよく知っていたように、こんなときにあっても、モーツァルトは1日のほとんどを音楽の中にのめり込んで、研究と楽想にふけっていた。そしてその時間が妨げられることを嫌っていた。
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7日、父へ
真実の友人とは貧しい人たちです。 金持ちは友情というものをまったく知りません。 ところで、わがザルツブルクの話ですが、僕がどんなに嫌っているかご存じでしょう! その理由のいくつかは、もう書きました。 さしあたり、ザルツブルクは僕の才能に合わない土地だという理由で、勘弁して下さい。ザルツブルクに対してだけでなく、パリに対しても嫌悪をあからさまに父に伝えている。 さらにグリムの方でもモーツァルトがパリにいても何も得るものはないと言い始め、帰郷することを勧めていた。 母の死後、モーツァルトはデピネ侯爵夫人の家に下宿していた。彼女はグリムと同棲中だった。
8月、ロンドンからクリスチャン・バッハが来て再開。 束の間の喜び。
19日から約1週間、サン・ジェルマン・アン・レー滞在。 そこで、カストラート歌手テンドウッチのために
またパリに戻り、月末頃、4つのパリ変奏曲の最後として、ドゥゼードの音楽劇「ジュリー」の「眠れるリゾン Lison dormait.」を主題にした
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8日、パリでの最後の演奏会。コンセール・スピリチュエルで。
11日、父へ長い手紙を書いている。
そこには、ザルツブルクに帰りたくないこと、パリで交響曲が大成功したこと、グリムに対する不満、デピネ夫人が親切にしてくれてること、ピッチーニと同じ仕事ができることを見せつける機会が得られないこと、そして自分の作品について、細かく書き記している。
さらに、アロイジアに対する恋心も。
母が危篤状態にあったとき、グリムは15ルイドール(165フローリン)を、返却されないかもしれないことを心配して、嫌々ながら貸してくれた。
そのことにモーツァルトは激怒していた。
そして別れのときに丁寧な言葉を添えて返すつもりだと書いている。
ただし、その借金の返済は実行されなかった。
また、旅行を認めてくれないザルツブルクの大司教に対しては、「旅をしない人間は(少なくとも芸術や学問をする者は)みじめな人間だ!」と不満をぶつけている。
年末か翌年初、ル・グロの依頼により
同じ頃、
26日、就職がなく、そして母を失い、パリを離れる。
グリムはストラスブールまでの旅費を払ったという。
体よく追い出されたのに等しい。
その馬車はグリムの言うように5日間で目的地に着けるものでなく、10月3日の手紙で父に苦情を伝え、別の馬車に乗り換えて旅を続けた。
同じ手紙で、パリでの作品としては唯一「ピアノとヴァイオリンのためのソナタ ホ短調 K.300c (304) とニ長調 K.300l (306)」だけしか持って帰れないと伝えている。
ただし、ル・グロに取られた「管楽器のための協奏交響曲 K.297B (Anh.9)」など(紛失してしまった)は「頭の中に入れてあるので、家に着いたらもう一度書き上げる」と言っている。
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15日、ストラスブールから父へ
僕にはミュンヘンほどいい所はありません。 ザルツブルクに近いので、ときどき訪ねて来れますよ。 僕の愛するウェーバー嬢が(ミュンヘンの)宮廷で働くことになりました。 僕がザルツブルクに行くのは、ただ最愛のお父さんのためだけです。
モーツァルトは愛するアロイジアがザルツブルクで職を見つけ、そこで一緒になれることを夢見ていた。
彼女がミュンヘンに働き口を見つけたことを知り、自分もバイエルン選帝侯に雇われてミュンヘンに行きたいと考えていたが、父からの帰郷命令に不本意ながら従わざるを得なかった。
ストラスブールでは有名なジルバーマン製作のオルガンを知る。
17日、演奏会。
24日、演奏会。
26日、ストラスブールから父へ
ごらんの通り、まだここにいます。 それもフランク氏やその他偉い人たちの勧めによってです。 でも明日出発します。
31日、演奏会。
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3日、ようやくストラスブールを出発。 ところが、まっすぐザルツブルクへは向わず、アロイジアに会いたくて、父の反対に背いてマンハイムに向った。
6日、マンハイムに到着したが、ウェーバー家はミュンヘンに引越した後だったので肝心のアロイジアと再会できなかった。 それでも11月12日マンハイムから父へ手紙で「また、なつかしいマンハイムに来たのです!」と伝えている。
マンハイムでは、メーソンの会員ゲミンゲン作のメロドラマ
12日、父への手紙で
16日、マンハイム天文台を見物し、自分を「聖歌隊長」と名乗っている。
19日、父から息子へ
私は何を書けばいいのか本当に分からない。 それどころか、気が狂うか、やつれて死んでしまいそうだ。 どれもこれも単なる提案、からっぽな言葉、そして結局は無に終った。 就職だなんて、なんのつもりだ?父は無駄に終った旅行の経費を計算して見せ、息子が速く帰って来ることを促した。
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9日、父の命令にしぶしぶ従ってマンハイムをたった。 アロイジアのいないマンハイムだが、それでもザルツブルクには帰りたくなくて、帰郷を延ばしていた。
13日、カイスハイムに到着。
23日、アウクスブルクに住む例のベーズレに駄洒落と語呂合せでいっぱいの手紙を書き、ミュンヘンへ出て来るように求めている。 そして手紙の中で「ひょっとしたら重大な役割を演じてもらうかもしれない」と言っているが、アロイジアに会いに行くためにミュンヘンへたつのに、なぜベーズレを呼び出して会いたいのか、また、重大な役割とは何か謎である。 ベーズレは年を越して1月、モーツァルトの帰郷に合わせてザルツブルクへ行く。
24日、ミュンヘンに向かって出発。
25日、ミュンヘンに到着。 ウェーバー家は、職が決まらないでパリから帰ってきたモーツァルトに用はなかった。 アロイジアと会うが、もちろん失恋する。 彼女はモーツァルトを歌の先生としか見ていなかった。 要するに「片思い」でしかなかった。 父はさらに帰郷を強く求めていた。 モーツァルトは、この地のフルート奏者ヨハン・ベッケに慰めを求め、そしてベッケはレオポルトに「息子さんを優しく迎え入れてやってほしい」と手紙を送った。
29日、ミュンヘンから父へ
今日は泣く以外のことはできません。 僕は字を習ったことがないので、ご承知のように字は下手ですが、この手紙よりもっとひどい字は書けないでしょう。 ほんとうに字が書けないのです。心が涙でいっぱいです。就職が決まらず、母を失い、そして最後の希望であったアロイジアにもふられて、モーツァルトは負け犬となってザルツブルクへ帰らなければならない。 そして、あの退屈な田舎町に閉じ込められ、大司教の言いなりにならなければならない。みじめな敗北だった。 今や父の帰郷の命令に従うしかなかった。
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