Mozart con grazia > 年代記 > 1789年 |
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1789年33歳 |
25日、ドレスデンでオペラ「ドン・ジョヴァンニ」の管楽編曲版が演奏され、聴衆に強い印象を与えた。
31日、マインツの国民劇場で「偽りの女庭師」(ドイツ語版)が上演されたが、失敗。 聴衆には難しく技巧的で、「普通の愛好家の理解力を越えている」と受取られた。
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21日(ウィーン)、宮廷での舞踏会のためにトルコ風の舞曲を作るように注文を受け
13日、マインツで「ドン・ジョヴァンニ」の改作版が上演されたが、失敗。 大規模な音楽は華美で、騒音のようだったという。 「モーツァルトの音楽は難しい」という先入観が定着していた。
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8日、ホーフデーメルに借りた資金で、リヒノフスキー侯爵(1756〜1814)と一緒に、プラハ、ドレスデン、ライプツィヒ、ポツダムへ旅立つ。
10日、プラハ着。
12日、ドレスデン着。 ドゥーシェク夫人ヨゼファと再会し、翌13日コンサートを開いた。
14日、選帝侯フリードリヒ・ザクセン3世邸でピアノ協奏曲「戴冠式」を演奏。 クラヴィーア、フォルテピアノ、そしてオルガンの演奏について、「腕前は筆舌に尽くし難い。 初見演奏の能力は並外れていて、神業だ」と絶賛された。
16日、ドレスデンから妻へ手紙。 それには「健康に留意し、特に春の風に気を付けること。一人で出歩かないこと。行動や身なりをきちんとするように」などの願いが書かれている。
ドレスデンで、モーツァルトはドーラ・シュトックに肖像画(横顔)を描いてもらった。
18日、ドレスデンを出発。
20日、ライプツィヒ着。
22日、ライプツィヒの聖トーマス教会でオルガンを演奏。 ライプツィヒの楽長ドーレスは「大バッハの再来」と感激したという。
22日?、ロホリッツの記録によれば、ドーレス宅で食事したとき、夫人の求めに応じて
をその場で作ったというが、紛失。23日、ライプツィヒ発。
25日、ポツダム着。
29日(ポツダム)、デュポールのメヌエットを主題に
30日、フランクフルト・アム・マインで「偽りの女庭師」(イタリア語)が上演されたが、失敗。 またもや「聴衆には理解しにくく、能力ある識者向きである」と受取られた。
30日、新大陸のアメリカで、ワシントンが初代大統領に就任。
8日、ウィルヘルム2世に謁見できなかったため、再びライプツィヒに戻った。
12日、ライプツィヒのゲヴァントハウスで演奏会を開く。 ドゥーシェク夫人が共演。 そこで演奏されたものは
16日(ライプツィヒ)、大バッハゆかりの聖トーマス教会オルガニストのエンゲルの求めに応え
を作曲。 その教会でオルガンをモーツァルトが弾いたとき「バッハの再来」と讃えられたという。17日、リヒノフスキー侯爵と別れてひとりベルリンに向けて出発。
19日、ベルリン到着。
宮廷で演奏。
チェロを得意としていたウィルヘルム2世から弦楽四重奏曲を6曲と、ピアノ・ソナタを6曲依頼された。
そのうち、前者は3曲(いわゆる「プロシャ王」と呼ばれているもの)と、後者はK.576とだけが作曲される。
23日ベルリンで、モーツァルトも出席した演奏会で11才のフンメルがピアノ変奏曲K.264を弾いた。
帰郷後、プロシャ王ウィルヘルム2世のために
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コンスタンツェが病気療養に入り、経済状態がさらに悪化した。
7月12日、プフベルクに借金の申込み(500フローリン)をし、150フローリンもらった。
14日、フランス革命。バスティーユにパリ市民が押し寄せ、フランス全土で農民の反乱が起きた。
陸軍は解散。
新しい憲法はモーツァルトの死の年(91年9月3日)に公布される。
フランス革命は隣のベルギーにも飛び火して、8月には革命軍がリエージュ市庁を占拠した。オーストリアは革命に干渉する。
17日、プフベルクに借金の申込みをし、150フローリン送ってもらった。 そしてさらに7月後半、借金の申込みをしている。
アドリアーナ・ガブリエリ(フェラレーゼ・デル・ベーネ夫人)に
を作曲。「フィガロ」追加曲。
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26日、フランスで人権宣言と「自由・平等・博愛」の布告がなされた。
29日、ウイーンのブルク劇場で「フィガロの結婚」が上演された。 スザンナ役のデル・ベーネ夫人のために新しく2曲が追加されている。 この上演がきっかけとなり、10月にヨーゼフ2世からオペラの作曲を依頼され、それが「コシ・ファン・トゥッテ」となる。
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29日、親友のシュタドラーのバセット・クラリネットを想定して
31日、モーツァルト宅を訪れた医学博士アントン・シュミット(ヴァイオリン奏者でもあった)は「ラウドンにおいてはパラスが、モーツァルトにおいてはアポロが支配し、両天才はその才能により後世まで名を残すだろう」と記念帳に記した。
フランチェスコ・ベヌッチのために
を作曲。 これは「コシ・ファン・トゥッテ」第2幕グリエルモのアリアとして作ったが、長すぎるので書き換えたもの。22日、音楽芸術家協会が未亡人と遺児のために開いた大演奏会でモーツァルトのクラリネット五重奏曲K.581がシュタドラーにより演奏された。
宮廷のために
を作曲。 このK.587は、コーブルク・ザールフェルト元帥が9月22日ルーマニアでオーストリアとロシアの連合軍を率いてトルコ軍を打ち破った賛歌として、その進軍歌のメロディーを取り入れたという。
この年のものかもしれない作品。
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