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弦楽四重奏曲 第20番 ニ長調 K.499
〔作曲〕 1786年8月19日 ウィーン |
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上記の日付で自作目録に記載された。 通称「ホフマイスター Hoffmeister」とも呼ばれる。 第4楽章の速度記号は自筆譜に「モルト・アレグロ」と書かれてあるという。 ただし「モルト」はあとで書き加えられたものであり、本人の手によるものかどうかは不明であることから、その部分はカッコ書きになっている。
作曲の目的は不明であり、ハイドン・セットと後のプロシャ王セットの間に孤立するのが謎である。 親しかった出版者ホフマイスター(当時32歳)への債務を果たすために作曲したとも言われている。 アインシュタインによれば
ニ長調(K.499)は孤独で立つに価するものである。 モーツァルトはこの作曲によって、彼の友人にして出版者であるホフマイスターへの債務を果たそうと思ったにしても、少なくとも気軽にやった仕事ではなかった。 わたしはこの作品を、作品10番の《いっそう厳格な》三曲と《いっそう軽い》三曲との総合と呼び、その冒頭を作品全体の曲相の象徴と言いたい。ここで「作品10番」とは「ハイドン・セット」のことである。 さらに彼はその「厳粛であると同時に軽やかな」楽想の背後に潜む影を指摘している。[アインシュタイン] p.257
(第2楽章の)トリオは最高級の危険な芸当である。 アダージョは未聞の深みで昔の悩みを語る。 そしてフィナーレはまたしても、ニ長調がその本性を転倒しているように見えるぶきみな楽章の一つである。 それは晴れやかではなく、絶望的である。 あるいはむしろ、晴れやかさの仮面をかぶった絶望である。この作品にそのような深い苦悩が隠されていることをオカールも強調している。同書 p.258
この四重奏曲はその精神によってハイドン・セットとは大きくかけはなれている。 実に明澄にされた音楽言語で書かれているとはいえ、そこには深い苦悩が刻まれているのである。 実をいえば、その沈滞の前触れとみられる兆しが『ピアノ四重奏曲』(K493)の、沈黙だらけのラルゲットや、クラリネットを伴う『ピアノ三重奏曲』(K498)のメヌエットとト短調のトリオのなかに読みとることができた。 だが、それらのどこにもこの弦楽四重奏曲にみられる恐ろしい孤独感に達しているところはない。なぜモーツァルトはそうした作品を書いたのかについては、「1785年の危機は完全には解消されなかったのであり、1787年には新たな危機が準備されているのかもしれないことを予感させる」ことの例としてこの作品を説明している。 また、井上も次のように解説している。[オカール] p.122
この弦楽四重奏曲の素晴らしさは、そういう表現形式が完璧な姿をとって現れているところにある。 ユニゾンの深みにはじまって、対位法的な語法、フォルテとピアノのダイナミズム、第一ヴァイオリンとチェロに見られるような二つの楽器の対話的な語法、あるいはオーケストラのようなトゥッティのダイナミズム、そして何より優美な旋律、あらゆるものが、その穏やかな律動の中で展開されていく。ここで「そういう表現形式」とあるのは「ソナタ形式」のことであるが、とにかく、「絶望、深い苦悩、孤独」とはいったい何なのか。 この作品が書かれた頃、何がモーツァルトを絶望させていたのだろうか。 1786年の出来事をたどってみても、これといったものはない。 だからと言って「昔の悩み」を(それが何であれ)なぜここで思い出す必要があったのか。 さまざまな疑問が浮かぶ。 30歳という年齢はモーツァルトにとって晩年に入ることから、
にもかかわらず、この透明で穏やかな律動の中には、これまでとちがったものがある。 思い切って言ってしまえば、それは孤独の影とでも言えようか。[井上] pp.237-238
この弦楽四重奏曲全体の印象は、モーツァルトが晩年にさしかかった心情を告白しているように感じられる。 しかしそれと同時に、この第4楽章は、芸術家としてのモーツァルトが、それまで獲得した最高の技術を駆使しながら、新たな造形を試みている。 それは必ずしもモーツァルトらしい心地よさではない。 しかしそこにこそ、モーツァルトが依然として新たな世界を開拓していく姿を僕は感じている。と解説している。 説得力のある説明であるが、それでもまだ完全には納得できないものを感じる。 モーツァルトはいつも現実の相手を考えて作曲していたからである。 スットーニによれば、この作品がホフマイスターのために書かれたことを前提に、[井上] p.244
モーツァルトに3曲のピアノ四重奏曲を委嘱した。 モーツァルトは実際1785年11月に感情の緊張した《ピアノ四重奏曲 ト短調》K.478 を作曲したが、ホフマイスターはのちに「愛好者たちはこの作品があまりに難しすぎると思い、買おうとしない」と不満を述べている。 1786年に《フィガロの結婚》を送り出してのち、モーツァルトは彼の2番目の、そして最後の《ピアノ四重奏曲》(K.493)を書いた。 それは最初の作品より演奏がいくぶんやさしいにもかかわらず、ホフマイスターはそれを出版しなかった。 そして、1786年8月、モーツァルトは《弦楽四重奏曲》K.499 を作曲した。 すぐに出版されたことから見ると、これはホフマイスターを喜ばせたに違いない。作曲者は出版者が気にいるような明るく軽やかな作品を書いたように見せかけ、一泡吹かせるために、実は一筋縄ではいかない作品に仕上げたと推測することもできる。 それとは気づかず、出版者がすぐ採用した(ひと月も経ない9月頃に出版された)とき、作曲者はしてやったりと胸のうちで喝采したかもしれない。[全作品事典] pp.336-337
〔演奏〕
CD [WPCC-4122] t=25'13 バリリ四重奏団(Walter Barylli, Otto Strasser, Rudolf Streng, Emanuel Brabec) 1956年頃、ウィーン |
CD [TELDEC 20P2-2795] t=23'40 アルバン・ベルク四重奏団(Günter Pichler, Klaus Maetzl, Hatto Beyerle, Valentin Erben) 1975年6月、ウィーン |
CD [TELDEC 72P2-2803/6] t=23'40 ※上と同じ |
CD [ALCD-3029] t=29'27 古典四重奏団(川原千真、花崎淳生、高岡真樹、田崎瑞博) 1992年1月、つくば、ノヴァ・ホール |
〔動画〕
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