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1768年12歳 |
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10日、猛吹雪のなかウィーン着。
16日、ウィーンで
この頃
19日、宮殿で女帝マリア・テレージアに謁見。 1月末、皇帝ヨーゼフ2世の勧めでオペラ『見てくれのばか娘(ラ・フィンタ・センプリーチェ)』(K.51)を作曲し始める。 しかし同時に帝室劇場請負人ジュゼッペ・アフリジョ(Giuseppe Afflisio [Affligio]、本名 Marcati, 1719-87)を中心する陰謀、妨害がモーツァルト父子を苦しめ、結局のところオペラは完成するがウィーンで上演されずに終ってしまうことになるのだが。
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3月18日モーツァルト一家がザルツブルクに戻るのは翌1769年1月5日になり、結局のところ3月から12月までの俸給が支払われなかった。
慈悲深き御許しにより目下当地に留まらざる宮廷音楽家達、即ち楽長モーツァルト、マイスナー、キュッフルが来たる4月に再び当地に現われざる場合、向後彼等には給料支払われざるものなり。 宮廷会計局にはこの件に関し万々遺漏なきこと。[ドイッチュ&アイブル] p.68
はっきりとした日付はわからないが、21日の週にロシア大使フォン・ガリツィン侯の邸宅で音楽会が催された。 モーツァルト姉弟の演奏があったであろうが、何を演奏したかは不明。
月末、ドナウ川の氷が割れ、春の訪れを喜ぶとともに、レオポルトはウィーン宮廷のさまざまな妨害に打ち克ったことを郷里に伝えている。 しかしその勝利宣言とは裏腹に、むしろ多くの敵を作ってしまう結果となり、不幸なことにレオポルトはそのことまで思いが至らなかったようである。
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ザルツブルク宮廷からの警告(給料差し止め)を無視するかのようにモーツァルト一家がウィーンに長期滞在する裏には、レオポルトのウィーン移住作戦があったようである。 パリ社交界の中心人物で「サロンの女王」と呼ばれていたジョフラン夫人(Marie Thérèse Geoffrin, 1699-1777)からウィーンのカウニッツ侯爵宛に「モーツァルトを雇ってほしい」という手紙(27日)が届けられた。 侯爵はその手紙の裏にレオポルトの影をちらりと見たかもしれない。
4月から6月にかけて、ウィーンで、ヨーゼフ2世の依頼による
1763年6月から1766年11月までの3年半に及ぶ西方への大旅行は大成功だったが、このウィーン旅行の方は実りがなかった。 オペラ『見てくれのばか娘』に対してもウィーンの音楽界の妨害があり、父レオポルトは皇帝に訴えたほどだった。 結局このオペラのウィーン上演はならず、初演は翌1769年ザルツブルクにおいてとなる。
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この頃ウィーンで
21日、レオポルトはオペラ「見てくれのばか娘」に対する妨害について、皇帝に「供述書」を書いて訴えた。 このとき今までにヴォルフガングが作曲した作品目録を作ったという。 この最初の「モーツァルト作品目録」は姉ナンネルが1799年にライプツィヒのブライトコップ&ヘルテル社に送られ、現在はパリ国立図書館にある。
この頃、パールハマー氏の依頼により
同じ頃
13日、ウィーンで
12月末、モーツァルト一家はウィーンを離れ、メルク、リンツを通り帰郷の途に着いた。 ザルツブルクに戻るのは翌1769年1月5日。
〔参考文献〕
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