Mozart con grazia > 年代記 > 1773年 |
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1773年17歳 |
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前年末からこの年の初めにかけて、滞在中のミラノで、通称「ミラノ四重奏曲」の残り第3番から第6番が作曲された。
16日
「ルチオ・シラ」のチェチーリ役を努めたカストラートのラウツィーニのために、
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13日、ザルツブルクに帰郷。 父レオポルトはミラノで自分の病気を口実にして帰郷を延ばし、息子の就職先を探したが失敗に終った。
24日、ザルツブルクで
を作曲。 自筆譜に日付が書かれているが、ただしザルツブルクの宮廷楽団には、1777年までクラリネットもイングリッシュ・ホルンもなかったので、オペラ「ルチオ・シラ」初演のためのミラノ滞在中に作曲されたかもしれない。30日
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14日、自分自身またはブルネッティのために
19日か29日
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14日、父と二人で3回目のウイーン旅行に出る。
16日、ウィーン到着。 ザルツブルクのアントレッター家の依頼で
ザルツブルクのアントレッター夫人のために
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女王さま、たいそうお元気でお過ごしのことと存じます。 それにしましても時折は、あるいはむしろ時々は、いやそれよりもしばしば、 さらによく申せば南蛮人の言葉を借りてクアルケ・ヴォルタ(いくたびか)あなたさまの大事な、そして切なるお考えを、それはあなたさまが、 その見目麗しさに加えてお持ちになる世にも美しく確かな理性から生じますもので、そのうら若いお年とかよわい婦人の身にはおおよそ望むことかなわぬもの、 世の男の子たちも、いや、年老いた人たちさえ恥入るほどのものでありますが、私も幾分たりともお分かち下さいますように。
ヴォルフガングの就職がうまく決まるように、事態を好転させようとして父レオポルトが命じて作らせたいわゆる「ウィーン四重奏曲」と呼ばれる6曲の弦楽四重奏曲シリーズが生まれる。
21日(ウィーン)、姉へ
時間の恩恵を考え、それでいて太陽のありがたさをまったく忘れてしまうことがないならば、僕はありがたいことに健康であることは確かです。 でも第2の命題はすっかり違ったものになります。 太陽の代わりに月を、恩恵(グンスト)の代わりに芸術(クンスト)を置くとしましょう。 すると、少しでも生まれながらの理性を備えた人は誰でも、あなたが僕の姉さんだから僕は馬鹿だと推論するでしょう。ミス・ビンベスはどうしていますか。 僕からいろいろとよろしく言って下さい。ミス・ビンベスとは、モーツァルト家の飼犬ビンバールのこと。
らなうよさ、トルァツーモ・グンガフルォヴ
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ヴォルフガングは手紙を書く暇がありません。 何もすることがないからです。 蚤を取っている犬のように、部屋の中でぐるぐる歩き回っています。
ウィーンで、「ウィーン四重奏曲集」の残り2曲
この頃、ウィーンで、サリエリのオペラ「ヴェネチアの市」のアリア「わが愛しきアドニス」の主題による
を作曲したらしい。26日、父子はザルツブルクに帰った。
下旬、モーツァルト一家はヴォルフガングが生まれたゲトライデガッセ(家主ハーゲナウアー)からハンニバル(現在のマカルト)広場にあるもっと大きな住居に引越した。
24歳まで住むことになる。以前の住人から「舞踏教師の家(タンツマイスターハウス)」と呼ばれていた。
現在はモーツァルト博物館となっている。
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5日、続けて
を作曲。 レオポルト合本第6番。 これは以前の交響曲と異質。 ウィーン滞在中に知った新しい傾向による。
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モーツァルト自身の手になる最初のクラヴィア協奏曲
この年のザルツブルクのカーニヴァル・シーズンのために
を作曲。 これは少年期の終りを飾る傑作の一つ。年末に
を作曲。
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