Mozart con grazia > 年代記 > 1791年 |
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1791年35歳 |
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14日、子供用の歌曲集の依頼を受けて3つの歌曲
を作曲。 モーツァルトは悲惨な窮迫のどん底にあったが、どれも軽やかで快活な子供の世界を生き生きと表現している。 最後の「子供の遊び」のオーヴァベック詩ああ、もう沈んじゃうの、太陽よ、こんなに早く? 僕たちはまだ疲れてなんかいない、を聞くとき、それは作曲者自身の生への叫びと感じてしまうのは編者ばかりでないと思う。
ああ、太陽よ、もっとここにおいでよ! じゃ、みんな、また明日、
ぐっすりおやすみ、さようなら! 明日になったら、また、楽しく遊ぼうね!
23日、
29日、
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12日、さらに、
を作曲。28日、さらに、
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4日、クラリネット奏者ヨーゼフ・ベーアの演奏会がヤーン邸であり、このときモーツァルトは最後のピアノ協奏曲K.595を新作として発表した。 そしてこれが彼の演奏する最後の姿となった。
6日、
を作曲。8日、フランツ・ゲールとピシュルベルガーのために
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13日、プフベルクへ「7日後に俸給を受けるので、それまで20グルテンと少々お貸し下さい」と借金を願っている。 その俸給とは帝室王室付作曲家としてのもの。それに対して、プフベルクは30フローリン送金。
16、17日、ウィーン音楽芸術家協会のコンサートがあり、そのためにモーツァルトは「交響曲第40番ト短調 K.550」にクラリネットを書き加え、オーボエのパートを変更したらしい。 そしてサリエリの指揮によりで演奏されたという。 そのときクラリネット奏者はシュタードラーだった。 さらにアロイジアがアリア(K.418またはK.419)を歌った。
20日、
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9日、ウィーンの聖シュテファン教会の楽長レオポルト・ホフマンが病気になったため、モーツァルトは副楽長に任命される。
ただし無給。経済的には何の意味もなかった。
この頃、シカネーダーの注文を受けて「魔笛」の作曲にとりかかっていた。
妻コンスタンツェは保養でバーデンに行き、モーツァルトは金の工面に悩まされながらも作曲を続けていた。
このとき誰が彼の死を予感していただろうか。
なお、聖シュテファン教会は、1782年8月4日にコンスタンツェと結婚式を挙げたところであり、さらにこの1791年12月6日には自らの葬儀も行うところでもある。
23日、盲目のグラス・ハーモニカの名演奏家マリアンネ・キルヒゲスナー嬢のために
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僕の悲運を一緒に泣いてくれ。 キルヒゲスナー嬢は月曜の発表会をやらないんだ! だから日曜には一日中お前を抱いていられたはずだった。 水曜にはきっと行くよ。 今日は退屈しのぎにオペラのアリアを一つ作った。 今日はプフベルクの家にお呼ばれだ。お前に1000回キスをして、一緒に心の中で言おう、「死と絶望がその人の報いだった」と。
身重のコンスタンツェは3年続けてバーデンへ療養に行っていた。 13日の月曜に行われるはずだったキルヒゲスナー嬢(1772−1808)の発表会が10日に終っていた。 オペラとは「魔笛」のこと。 そして最後の言葉はその第11曲の二重唱から。 彼はこの晩、軽歌劇「ファゴット吹きのカスパル一名魔法のツィター」を見に行った。 ペリネ作詞、ミュラー作曲のこの作品は「魔笛」と同じくヴィーラント作「ジンニステン一名妖精物語萃」に題材を求めたもので、「魔笛」に影響を与えたとも言われている。
17日、バーデンの合唱指揮者A.シュトルの求めに応じて、御聖体の祝日のミサのために
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7日、妻へ
僕は自分の気持ちをうまく説明できない。 それは僕をひどく苦しめる一種の空虚であり、また決して満たされることのない、そして決して止むことのない一種の憧れだ。 この憧れは永久に続き、日増しに大きくなってゆく。妻コンスタンツェのいないウィーンでモーツァルトは、シカネーダーや弟子ジュスマイヤーなどの家で食事をさせてもらいながら仕事を続けていた。 シカネーダーは孤独な彼のために邸中の小屋を使わせた。 その小屋は1897年にザルツブルクへ移され、「魔笛の家」と名付けられた。
この頃、レーゲンスブルクの結社員F.H.ツィーゲンハーゲンの著作の付録にと依頼され
26日、四男フランツ・クサヴァー誕生。 彼は成人し、音楽家となり、後に「モーツァルト2世」を名乗る。 弟子フランツ・クサヴァー・ジュスマイヤーの子ではないかという説がある。
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25日、モーツァルトは皇帝レオポルト2世のボヘミヤ王即位戴冠式を目指して、コンスタンツェとジュスマイヤーを伴い、プラハへ向かってウィーンを出発した。 これは3度目のそして最後のプラハ旅行だった。相次いで到着した皇帝皇妃には、サリエリが7人の宮廷楽士(20人に増えた)を連れて随伴した。
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2日、国立劇場で皇帝皇妃の臨席のもと、「ドン・ジョヴァンニ」が上演された。モーツァルトは指揮せず、満員の聴衆に交じり大満足だった。
3日、フランスで新憲法が公布。 人権、法の前での平等などが保証された立憲君主制となった。 この頃、プロイセンとオーストリアはフランス革命に干渉していた。 そして翌年2月に対仏同盟を結び、戦争となるが、両国の連合軍はフランス軍に敗れる。
4日、戴冠式に先立つ式典「王冠への忠誠の誓い」が聖ヴィートゥス大聖堂で行われ、サリエリの指揮によりコジェルフ作「戴冠式ミサ」が演奏され、さらにモーツァルトの「主の御憐れみを K.222」も演奏されたらしい。 (ベートーヴェンの言葉によれば)浅ましいコジェルフは宮廷好みの音楽で1792年6月12日に(モーツァルトの2倍の俸給で)ウィーン宮廷作曲家になる。
6日、プラハ大司教による戴冠の儀式。サリエリは「戴冠式ミサ K.317」(または K.337)を指揮した。
その日の夜、皇帝皇妃の臨席のもとに、モーツァルトの指揮で
さらに、プラハでは
20日、ウィーンに戻った。
日付がはっきりしないが、この頃、ダ・ポンテへ
おすすめに従いたいのは山々ですが、どうしたらうまく行くでしょうか? 頭は混乱し、話すのもやっとのことで、あの見知らぬ人の姿を、自分の目から追い払うこともできません。 じりじりしながら私の仕事をせきたてるあの人の姿が、たえず私の目から離れないのです。 作曲している方が休んでいるより疲れないので、私は続けています。 もう最期の時が告げているのを感じます。自分の才能を楽しむ前に終ったのです。 しかし自分の運命は変えられません。何びとも自分の命数を数えられるものではなく、諦めが肝心です。 何ごとも摂理の欲する通りになりましょう。これで筆をおきます。 これは私の葬送の歌です。完成せずにおくわけにはまいりません。という内容の手紙を送ったらしい。 「すすめ」とはロンドン行きのこと。 6月にその勧誘をうけていたが、「魔笛」作曲中なので承諾を半年先にのばして欲しいと返事していた。 「見知らぬ姿」とは「レクイエム」作曲の依頼人のこと。 全文イタリア語で書かれたこの手紙はベルリンの旧プロシャ国立図書館にあったという写しによって知られているだけ。 さらにモーツァルトが書いたものの写しであるという証拠もない。
28日
30日、ウイーンで、完成したばかりの「魔笛」が初演された。モーツァルトがピアノを弾きながら指揮をし、ジュスマイヤーが譜めくりをした。 この初演は、あまり成功とは言えなかったが、10月2日に再演され、人気は次第に上昇した。
30日パリでは、フランス国民議会が解散し、10月1日に立法議会が招集された。
9月には、成立のはっきりしない作品に、
29日〜10月7日、ウィーン宮廷楽団のクラリネット奏者シュタドラーのために
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14、15日、妻へ
昨日6時にサリエリとカヴァリエリを馬車で迎えに行き、ボックスに案内した。 2人ともどんなに愛想がよかったか、お前には信じられないだろう。 僕の音楽だけでなく、台本も、何もかもひっくるめて、2人には大いに気に入った。 「これこそオペラというものだ。どんなに大きな祝祭にでも、どんなに偉い君主の前でも上演される値打ちがある。 こんなに美しい、こんなに気持ちのいい出し物は見たことがないから、これからもきっと何度も何度も観に来るだろう」などと言っていた。 サリエリはシンフオニアから最後の合唱まで、とても熱心に聴き、観ていたが、あの人の口から「ブラヴォー」とか「きれいだ」とかいう言葉を誘い出さない部分はひとつもなかった。 劇場がはねてから、2人を家まで馬車で送らせ、僕はカールと一緒にホーファーのところで食事をした。 それからカールと家へ帰って、2人ともぐっすり眠った。これは現存する最後の手紙といわれる。 この後モーツァルトはバーデンに妻を迎えに行くが、そのときコンスタンツェは衰弱した夫の姿を見て驚いたという。
24日、ワイマールで、ゲーテがチマローザのオペラ「貧乏な興行師 L'impresario in angustie」をドイツ語に翻訳し、モーツァルトの「劇場支配人」の音楽をつけて上演した。 モーツァルトの「興行師」の方はすっかり忘れ去られていたが、そちらの方はかなり人気があったという。
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18日、ロッジ「Zur neugekrunten Hoffnung」の新しい礼拝堂の落成式で上の曲を指揮し初演。 後にロッジはモーツァルト未亡人と2人の遺児のためにこの作品を出版したという。
この曲の付録としてつけ加えられていた
20日、とうとうモーツァルトは病床につき、もう二度と起き上がれなくなった。
フォン・ヴァルゼック伯爵が自分の妻の命日に演奏するために、モーツァルトに作曲依頼していた
なお、ケッヘル番号では、最後の作品である「レクイエム」の後に、モーツァル トが生涯に残した32曲の協奏曲作品のために書いたカデンツァをまとめた
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妻コンスタンツェの妹ゾフィー・ハイベルの手紙
私は台所に立ち、ずっとモーツァルトのことを考えていました。 ランプは赤々と燃えていました。 私が灯りを見つめていると、突然その灯りが消えました。 まるで最初から燃えていなかったかのように。 私はしっかりしようと心に決め、モーツァルトの枕もとに行きました。 彼は『ゾフィー、来てくれてありがとう、ここにいて僕が死ぬのを見届けてくれ。もう舌先で死を味わっているところだよ』と言いました。 姉が、聖ペーター寺院の坊さんをよこしてほしいと頼みました。 私は言われた通りにしましたが、悪たれ坊主たちを行かせるのに骨を折りました。 日はすでに暮れていました。 ジュスマイヤーが枕もとにいました。 レクイエムの譜がふとんの上に置いてあり、モーツァルトが、自分が死んだらどうして仕上げるかを説明していました。 医者のグロセット先生は劇場で見つかりましたが、芝居がはねるまで来れないということでした。 ようやく来た先生がモーツァルトの火のような額に冷たい湿布をのせると、彼の意識が遠くなりました。 最後にしていたことは、レクイエムのティンパニーのパッセージを口ずさもうとすることでした。5日、0時55分、モーツァルト死。 彼は35年10ヶ月と9日間この世にいて、そのうち約三分の一の10年2ヶ月余り旅していた。 あるいは一生のすべてが旅であったと言う人もある。
この日、彼と最後まで親しく、葬儀のすべてを取り仕切ったフリーメーソンの同志ヴァン・スヴィーテン男爵は宮廷の要職から解任された。
フォン・シュトリテッツ伯爵はデスマスクの型どりにかけつけ、自邸の蝋人形陳列室に置いて、人々を驚かせたという。
6日、ウィーン、オットー・ヤーンの手記
スヴィーテン男爵は葬儀の面倒をみることにし、未亡人のとぼしい懐具合いも考慮して、できるだけ簡単に安く上げようとした。 葬儀費用は(3等で計算して)8フロリンと36クロイツェル、それに霊柩車代が3フロリン。 6日午後3時、モーツァルトの遺体は聖シュテファン教会で最後の祝福を受けた。 激しいみぞれまじりの雨がたたきつけていたが、数少ない参列者(スヴィーテン、サリエリ、ジュスマイヤー、カペルム、ローザー、オルスラーなど)は傘をさして棺のまわりに立った。 やがて柩は馬に引かれ、シューラー・シュトラッセを通って、聖マルクス墓地に運ばれた。 モーツァルトの遺体が墓に下ろされたとき、誰も立会人はいなかった。
しかし最近の研究では、6日の天気は「弱い東風が吹く穏やかな一日」だったという。そして翌7日は嵐だった。 また、当時の葬礼規定によれば死者の埋葬は死後48時間以上経過していなければならず、早すぎる埋葬も謎である。 なお、聖シュテファン大聖堂の死者名簿には次のように記されているという。
1791年12月6日、第3等、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト氏。 オーストリア皇王室楽長にして宮廷室内作曲家。ラウエンシュタイン通り小カイザー館、970番地。そして遺体は、棺が15から20収容できる共同埋葬の穴に入れられた。 この日、モーツァルトと同じメーソンのロッジの会員であったホーフデーメルは、妊娠中の美貌の妻マグダレーナにカミソリで重傷を負わせ、自殺した。 夫人はモーツァルトと親しい師弟関係にあった。
死因所見は急性粟粒疹熱。36歳。
聖マルクス墓地。料金8フローリン56クロイツァー支払い済み。馬車3フローリン。
10日、ウィーンの聖ミハエル教会で友人たちにより追悼ミサが行われた。 その費用の一部をシカネーダーが負担したという。 このとき「レクイエム」の一部が弟子フライシュテットラーの補筆によって歌われた。
14日、プラハでモーツァルト追悼ミサが行われ、町中の人が教会前の広場に集まった。
20日、ハイドンからフォン・ゲンツィンガー夫人への手紙
偉大なモーツァルトが死んでしまったことがもし本当なら(そんなことは望みもしませんが)彼を胸に抱けないのが残念でたまりません。 後世は100年たっても、これほどの才能を再び得ることはないでしょう。
「人類の歴史の中で、おそらく最大の天才だったモーツァルトはこうして死んだ。彼の燃えつきた肉体が粗末な墓の中におろされたとき、想像もつかないような偉大な魂の遺骸がいま眠りにつくのだ、と考えた者は誰もいなかった」 (ヒルデスハイマー)
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