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ジングシュピール「劇場支配人」 K.486Der Schauspieldirektor 序曲と4曲
〔作曲〕 1786年1〜2月初 ウィーン |
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シュテファニー(当時45才)詞による「序曲、2曲のアリア、1曲の三重唱およびヴォードヴィルからなる音楽つきコメディー eine Komödie mit Musik, bestehende aus Ouverture, zwei Arien, einem Terzett und Vaudeville」であり、1786年2月3日にモーツァルトは自作目録に「ランゲ夫人、カヴァリエーリ嬢、アダムベルガー氏のために」と記入した。 ウィーンを訪問したオランダ総督のザクセン・テッシェン大公アルベルト(Kasimir Albert, 1738-1822)と大公妃マリア・クリスティーナ(Marie Christine)を招いた祝宴のためにヨーゼフ2世が作曲を依頼した。 大公妃はマリア・テレジア女帝の娘すなわちヨーゼフ2世の妹であり、アルベルトがテッシェン大公となったとき(1766年に)結婚していた。 その二人を招いた饗宴のためにヨーゼフ2世は同時にサリエリ(36歳)にも作曲を依頼していたが、そちらのカスティ作の台本『初めに音楽、次に台詞 Prima la Musica e poi le Parole』は非常に機知に富んで面白く、シュテファニーの『劇場支配人』よりも「適切なオペラ風刺として、雲泥の差のある傑作である」(アインシュタイン)ものであった。 しかしそれは、モーツァルトは宮廷作曲家になる前であるのに対し、サリエリは既に宮廷作曲家であったので当然の差別である。 ついでながら、モーツァルトが宮廷作曲家になるのは1788年であるが、そのときサリエリは宮廷楽長となり、モーツァルトは常に後塵を拝する立場にあった。 この時期モーツァルトは『フィガロの結婚』(K.492)の作曲で忙しかったが、宮廷からの依頼を断ることはできず、台本を1月18日に受け取り、2週間後の2月3日には総譜が完成したという。
音楽的な才能の面で劣るサリエリが天才モーツァルトの活躍を邪魔するという話は後世の過剰な脚色(作り話)のようである。 ヴォルフは「モーツァルトとサリエーリの関係は、相互の尊敬によって結ばれていたように感じられる」と言い、1786年の謝肉祭期間中に、ヨーゼフ2世が二人にそれぞれドイツ・オペラとイタリア・オペラを委嘱し競演させたことは「二人の音楽家が協力関係を発展させてゆくきっかけになる決定的な出来事である。 このイベントは、両者の関係が職業レベルで深められてゆく一助となったように思われる」と分析している。 悲運の主人公を際立たせるには相応の悪役が必要であり、気の毒にもサリエリがその悪役の筆頭にされて今日に至っているようである。
そもそもモーツァルトが目指したのは、名人ピアニストとしての尊敬と器楽作曲家としての名声を高めるだけ高めることにより、魑魅魍魎のウィーン・オペラ界に足がかりを築くことであった。 おりしも彼は『フィガロの結婚』に集中的に取り組んでいて、その初演は同年5月1日に予定されていた。 サリエーリの方は、グルックが病気になったためオペラ活動の中心を1784年初めから1787年秋までパリに移しており、ウィーンへは散発的に帰ってくるだけであった。2つの作品は2月7日にウイーンのシェーンブルン宮で初演されたが、上述の感情をもって眺めると、そもそも『劇場支配人』の方はオペラというより田舎芝居であったということになる。 しかも1幕10場から成る劇の第6場まではただの芝居であり、第7場でようやく音楽が登場するというものなので、モーツァルトは存分に腕をふるうことができなかったであろう。 登場するのは擬人化された名前の人物で、Madame Herz(心)、Mademoiselle Silberklang(銀の響き)、Monsieur Vogelsang(鳥の声)、Buff(buffo 滑稽)である。 劇の内容は「或る劇場支配人がまともなレパートリーを上演して失敗したあげく、ザルツブルク行きの新しい旅一座を組織する」というもので、その支配人の前で2人のソプラノ歌手がオーディションを行う。[ヴォルフ] p.47
一人の女性歌手(ヘルツ嬢=アーロイージア・ランゲ)は《多感な》アリアを、もう一人の女性歌手(ジルバークラング嬢=カテリーナ・カヴァリエリ)は素朴なロンドを歌う。 それから彼女らは、互いに相手よりも良い給料をもらう値打があると信じているので、つかみあいの喧嘩をはじめ、次に三重唱になって、テノール歌手(フォーゲルザング氏=モーツァルトのベルモンテであるアーダムベルガー)が仲に入って宥めようと試みるが、二人の女性歌手は歌いすぎて喉をつぶす。 とどのつまりは、『後宮からの逃走』(K.384)のフィナーレに似た《ヴォードヴィル》のうちに、和解ができるのである。 それまで哀れな劇場支配人に適切な助言を与えてきたブッフォ俳優も、この場面で小さな独唱曲をもらうのだが、それは彼が歌えないことを証明するばかりである。2月7日ウイーンのシェーンブルン宮のオランジェリー(オレンジなどの柑橘類を冬の寒さから守るために建築された装飾的な温室)で初演されたことが当時の新聞で報じられている。[アインシュタイン] pp.632-633
ヴィーン新聞、1786年2月8日初演のときの配役は以下の通りであった。
火曜日、皇帝陛下は帝室王室オランダ総督閣下と当地の貴族社交界のためにシェーンブルンで饗宴を催された。
(中略)
贅をつくした食事の後オランジェリーの端に設けられた舞台でこの饗宴のために新たに作曲された『劇場支配人』と題するアリア付きの芝居が帝室王室国民劇場の俳優によって上演された。 その後、オランジェリーのもう一方の端に設けられたバロック風の舞台でやはりこの日のために新たに作られた『まずは音楽、おつぎが言葉』と題するオペラ・ブッファが宮廷オペラ劇団によって上演された。 この間オランジェリーは多くのシャンデリアの灯りで輝かしく照らし出された。[ドイッチュ&アイブル] p.188
このときヨーゼフ2世はサリエリのオペラとモーツァルトの演劇に対して千ドゥカーテンの報酬を与えるよう劇場総監督オルシニ・ローゼンベルク伯爵(Philipp Joseph Graf Orsini-Rosenberg, 1723-96)に命じているが、その配分額は以下の通りである。
サリエリのオペラは1幕もので、その登場人物は次の4人だった。ブッサーニ(43歳)はローマ生まれのオペラ歌手(バス)であるが、1783年にウィーンの宮廷劇場におけるイタリア・オペラ劇団の再結成以来、皇帝の近くで陰に陽に活躍した多才な人物であったらしく「書き割りやクロークの検査官」と呼ばれていたという。 一方でまた彼は劇作家としても成功する野望を持っていたが、それはうまくゆかず、ダ・ポンテの作品を批判することに専念したといわれる。 時流は、ドイツ語ジングシュピールに(モーツァルトの『後宮からの誘拐』K.384を唯一の例外として)観るべきものがなく、イタリア語オペラに戻ろうとしていた。
それで皇帝は1782年の年頭にイタリア・オペラ劇団の新たな設立を決意し、ブルク劇場を再度託せる誰か適切な人材はいないか、イタリアの文化に造詣の深いオルシニ・ローゼンベルクとヴェネツィア生まれの宮廷楽長アントーニオ・サリエーリの配下で働いてくれる者はいないか、と探し始めた。このような状況のもと、偉大なメタスタージョの後継者となる宮廷詩人の座をめぐってさまざまな駆け引きがあり、カスティ(62歳)とダ・ポンテ(37歳)が争っていたが、ローゼンベルク伯爵は(かつてトスカーナで勤務していた頃からの)旧知のカスティを強く押していたので、2月7日のシェーンブルン宮での饗宴の場をうまく利用しようと考えてもおかしくない。 自分は目立たぬように、かわりに誰がそれを実行してくれるか、ブッサーニが適任だとなったのであろう。 サリエリのオペラ『初めに音楽、次に台詞』の台本はカスティであるが、内容は「ダ・ポンテが揶揄嘲笑の的となっている」という。 ただしブッサーニは、モーツァルトの作品では、「せめて言っておくれ、どんな過ちをしたのか」(K.479)でビアッジョ役、『フィガロの結婚』(K.492)でドン・バルトロ役、『ドン・ジョヴァンニ』(K.527)で騎士長とマゼット役、『コシ・ファン・トゥッティ』(K.588)でドン・アルフォンソ役を演じているので、モーツァルトとの関係は決して悪くはないと思われる。 『フィガロ』から『コシ』までの3作はダ・ポンテの台本がもとになっているのは改めて言うまでもない。 ブッサーニは劇場総監督のローゼンベルク伯爵とともに自分の権限を利用して『フィガロの結婚』初演を妨害しようと画策したともいわれている。[ブレッチャッハー] p.53
以上の状況からすると、ヨーゼフ2世(右の写真)が饗宴を催し、そこで2つの劇を上演することに決めた背後にはブッサーニがそれなりの役割を(絶好のチャンスとばかりに)はたした(暗躍した?)のであろう。 すなわち、サリエリとモーツァルトの二人に劇を作らせるよう企画立案し、ダ・ポンテの競争相手だったカスティを抱き込み、サリエリと手を組んで2月7日の饗宴を(ローゼンベルク伯爵の望む方向で)成功させること、それならばその報酬が与えられたことは当然であろう。 なお、モーツァルトの死後、ブッサーニは妻ドロテーアとともにウィーンを離れたといわれている。
ウィーンの宮廷劇場からダ・ポンテを追っ払う陰謀に加担したことで、ダ・ポンテの恨みを買っているが、そうなったのは、ダ・ポンテの愛人のフェッラレーゼに役を奪われて、妻のドロテーアのキャリアが伸ばせなかったという理由が多分にある。 1794年までウィーンの歌劇団のメンバーであったが、その後の消息は不明である。[ブレッチャッハー] p.326
余談であるが、これらサリエリとモーツァルトの2つの作品は機会音楽であったため、1786年2月7日の初演後は、11日、18日、25日の3回ケルントナートーア劇場で上演されただけで、なかなか好評だったようだが、その後は忘れ去られた。 ただしモーツァルトは序曲をクラヴィーア演奏用(28クロイツァー)にして、3月25日に新聞広告を出している。 さらにモーツァルトの死の直前、1791年10月24日、ワイマールでゲーテがチマローザのオペラ『貧乏な興行師 L'impresario in angustie』をドイツ語に翻訳し、この『劇場支配人』の音楽をつけて上演した。 そちらの方はかなり人気があったという。ただし、それはモーツァルトには知らないことであった。 また、ついでながら、メタスタージョの後継者となる宮廷詩人の座はモーツァルトの死の年にカスティが得ることになった。 しかしその地位は長く続かなかったのである。
ヨーゼフ2世の死後、そして、ダ・ポンテがレーオポルト2世によって解雇されたのち、カスティは1791年、ついに目指していた目標に到達した。 メタスタージオの死後、長期間空席になっていた宮廷詩人の職に就くことができたのである。 しかしやがて生じた宮廷劇場にかかわる再度の政争により、トスカーナ時代からのローゼンベルクとの長く親密な結びつきは終わりを迎えた。 オルシニ・ローゼンベルクは更迭され、カスティは不名誉なことに叛逆的活動をしたという理由で1798年にウィーンを追放されてしまったのである。ちなみに、ダ・ポンテはカスティとの争いで勝つには勝っていたが、ただし得たのは宮廷詩人の座ではなく宮廷劇場付詩人のポストであった。 しかし啓蒙君主とも呼ばれていたヨーゼフ2世の死(1790年2月20日、50才)後、レオポルト2世(ヨーゼフ2世の弟で、1790年までトスカーナ公国を統治していた)の時代になって宮廷劇場をとりまく風向きが変化し、1791年になって事態が大きく動く。 ローゼンベルク(68才)は更迭され、ダ・ポンテ(42才)は解雇され、さらにサリエリ(41才)さえも宮廷楽長の職を失うことになった。 そしてその年の暮れ、モーツァルトがこの世を去る。 その死を待っていたかのようにスヴィーテン男爵は宮廷教育委員会の委員長という役職を解かれた。 レオポルト2世の人事一新は広範囲にわたって行われたが、皇帝自身も短命で、その翌年1792年に死去。 その後を継いだフランツ(レオポルト2世の長男)は暗愚の皇帝とも呼ばれ、オーストリア(ハプスブルク帝国)は非啓蒙的絶対主義の時代に入り、その体制は19世紀中葉まで続くことになる。 ブッサーニにとっては何かとやりにくい世の中になったと感じたのだろう。同書 p.335
シュテファニー(Johann Gottlieb Stephanie, 1741-1800)は法律を学んだのち兵士となったが、1768年にフランツ・アントン・メスマーのすすめで素人芝居をやらされ、それが縁で演劇の道に入ったという。 1769年から99年までウィーンのブルク劇場の座員だったが、モーツァルトとは1773年夏に(シュテファニー32才、モーツァルト17才のとき)ウィーンで知り合った。 喜劇役が得意であったが、あまりすぐれた俳優ではなかったらしい。 そのかわり多くの脚本を書いている。 1778年から82年にかけてヨーゼフ2世が推進したドイツ語オペラを積極的に導入しようとする「ドイツ国民劇場」構想にのってシュテファニーの台本も取り上げられる機会が多かったが、モーツァルトと縁があるのは1782年7月16日ウイーンのブルク劇場で初演されたジングシュピール『後宮からの誘拐』(K.384)である。 それはちょうど「ドイツ国民劇場」構想の終焉時期にあたり、その後またイタリア語によるオペラの復活へと流れが変ってゆき、モーツァルトはダ・ポンテと組んで『フィガロ』の作曲に没頭することになったが、ちょうどそのときに季節外れとも言えるジングシュピール『劇場支配人』が登場するのであった。
〔歌詞〕(三重唱の部分)
配役の記号、H=マダム・ヘルツ、S=マドモアゼル・ジルバークラング、V=ムッシュー・フォーゲルザングとする。
S | Ich bin die erste Sängerin! 私がプリマ・ドンナよ! |
H | Das glaub ich ja, nach Ihrem Sinn! そうでしょうね、あなたがそう言うなら! |
S | Das sollen Sie mir nicht bestreiten! 文句をおっしゃるのは筋違いよ! |
H | Ich will es Ihnen nicht bestreiten! いいえ、別に、言ってないわ! |
V | Ei, lassen Sie sich doch bedeuten ... まあふたりともちょっと聞いて・・・ |
S | Ich bin von keiner zu erreichen, das wird mir jeder eingestein. 私にかなう人はいないって、誰でも認めてるわよ。 |
H | Gewiß, ich habe Ihresgleichen noch nie gehört und nie gesehn. そうね、あなたのような方は見たことも聞いたこともないわ。 |
V | Was wollen Sie sich erst entrüsten, mit einem leeren Vorzug brüsten? Ein jedes hat besondern Wert. どうしておふたりはお互いに怒らせてまで自分の優位を主張されるんですか? ふたりともそれぞれに長所がありますよ。 |
H, S | Mich lobt ein jeder, der mich hört! 私を聴いた人はみんな褒めてくれます! |
H | Adagio! アダージョ! |
S | Allegro, allegrissimo! アレグロ、アレグリッシモ! |
V | Pian, piano, pianissimo! Kein Künstler muß den andern tadeln, es setzt die Kunst zu sehr herab. 静かに、静かに! 芸術家は他人を非難してはいけません。 芸術を冒涜することです。 |
(以下略) 石井宏訳 CD[TELDEC WPCS-6363] |
〔演奏〕
CD [ドイツ・シャルプラッテン 22TC-280] t=4'08(序曲) スウィトナー指揮シュターツカペレ・ベルリン 1976年1月、ベルリン |
CD [ポリドール POCL-1076] t=23'27 テ・カナワ Kiri Te Kanawa (S), グルベローヴァ Edita Gruberova (S), ハイルマン Uwe Heilmann (T), ユングヴィルト Manfred Jungwirth (B), プリッチャード指揮ウィーンフィルハーモニー管弦楽団 1989年3月、ウィーン |
CD [TELDEC WPCS-6363] t=22'04 ナドール Magda Nador (S), ラキ Krisztina Láki (S), ハンプソン Thomas Hampson (Br), デル・カンプ Harry van der Kamp (B), アーノンクール指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団 1986年5月、アムステルダム |
CD [PILZ 449275-2] t=4'05(序曲) 演奏者不明 1992年頃 |
〔動画〕
Giovanni Battista Casti1724 - 1803 |
ジョヴァンニ・バッティスタ・カスティはイタリア語もオペラ作家。 1764年フィレンツェに移住し、オルシニ・ローゼンベルク伯爵と出会い、その縁で宮廷詩人の地位を得た。 1772年に伯爵がウィーンの宮廷劇場総監督に栄転し、カスティも翌年ウィーンに上京。
1791年、モーツァルトの死の年、カスティはようやく念願のウィーン宮廷詩人の職に就くことができたが、宮廷内の政争によりローゼンベルク伯爵は更迭され、カスティも1798年にウィーンから追放された。
1803年、パリで82歳の生涯を閉じた。
Giacomo Francsco Bussani1743 - 1794以後 |
1786年3月20日、『劇場支配人』初演(2月7日)のあと、ドロテーア(Dorothea, 1763-1810以降)と結婚。
ブッサーニ43歳、ドロテーア23歳であった。
ドロテーアはウィーン士官学校のイタリア語教授サルディの娘で、歌手としての初舞台は同年5月1日『フィガロ』でケルビーノ役だった。
また、1790年1月26日初演の『コジ』ではデスピーナ役を歌っている。
「声、演技力、美しい容姿のそろい踏みで、広く聴衆の注目を浴びた」といわれる。
夫とともにウィーンを離れたあと、フィレンツェ、ローマ、ロンドンの公演に名前が見られるという。
〔参考文献〕
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