Mozart con grazia > 年代記 > 1792年〜 |
17 age |
61 5 |
62 6 |
63 7 |
64 8 |
65 9 |
66 10 |
67 11 |
68 12 |
69 13 |
70 14 |
71 15 |
72 16 |
73 17 |
74 18 |
75 19 |
76 20 |
77 21 |
78 22 |
79 23 |
80 24 |
81 25 |
82 26 |
83 27 |
84 28 |
85 29 |
86 30 |
87 31 |
88 32 |
89 33 |
90 34 |
91 35 |
92 ▲ |
1792年以降レクイエムその後 |
モーツァルトの生存中に、私がたびたび全曲を通して一緒に演奏したり、歌ったりしたことや、この曲の仕上げについて彼がしばしば私に話したことや、彼のオーケストレーションの方法や理由について教えてもらっていたことなどは、周知のことでした。 私はこの曲を聴く専門的な人たちに、彼の忘れられない教示の跡がこの中にあることを時々発見してもらえるように書ければ成功だと思ってやりました。
彼の言葉
人間の本性が本質的に変わらない限り、これからもモーツァルトの音楽を通して、何ものにも捉らわれず、感じやすい心情が高められ淳化されるなら、この巨匠が示す影響の文化的契機が疑問視されるはずはない。モーツァルトの全作品はケッヘル番号で示されるが、現在はこの初版(1862年)の番号とともに第3版のケッヘル・アインシュタイン番号または第6版(ギークリング、ヴァインマン、ジーヴァースによる、1964年)の番号も流布している。 ただし、その後の研究でさらに新しい番号が与えられるべき事実も明らかになり、確定に至っていない。 したがって最初にケッヘルが与えた番号が今後も使われつづけると言われている。
私はモーツァルトが7歳の少年のとき、旅の途中で演奏するのを見た。私自身はそのときほぼ14歳だった。 あの小柄な少年が髪を結い着剣していた姿を今でも本当にありありと思い浮かべる。
実は、コンスタンツェはこの数年前から、ザルツブルクにモーツァルト記念音楽院を作り、息子フランツ・クサヴァーを初代院長に据えるつもりだったが、それが実現しなかった。
国際モーツァルテウム財団本部。左手の建物は財団付属コンサート・ホール。 | モーツァルテウムの庭園内にはウィーンから『魔笛の小屋』が移築されている。 写真の左手に緑の苔が生えた屋根が見えるのがそれである。 7、8月モーツァルテウム・ホールでコンサートがある時だけ訪れることができるという。 |
ザルツブルクの聖セバスチャン教会にあるコンスタンツェの墓(中央の石柱)。
聖セバスティアン教会は1512年完成したバロック様式の教会で、
その裏(右の写真)に一歩足を踏み入れると、そこには外の喧騒とは打って変わって静寂が支配する墓地がある。
高い梢にいる小鳥のさえずりが聞こえるのみ。
同じ場所に(石柱の右下に)レオポルト(1787年5月28日没)の墓標がある。
ついでながら、母(1778年7月3日没)はパリのサン・トゥスタシュ教会付属の墓地に埋葬されたが、その墓地は7年後に廃棄されたため、墓は残っていない。
姉ナンネル(1829年10月29日没)はザルツブルクでも別のところ、聖ペテロ教会の墓地に眠っている。
そして、モーツァルト自身の墓はなく、埋葬された場所(ウィーンの聖マルクス墓地のどこか)さえ定かでない。
モーツァルトの音楽の軽やかさが、何か人の心を不安にさせるものを持っている・・・、 この両面性を受けつけない人はモーツァルトによって心を軽くすることはないでしょう。 最近「重さが浮かび、軽さが限りなく重い」という言葉を聞いて、自分の言いたいことを得ました。 モーツァルトの特異性はこの矛盾と結びついています。 いや、彼にあっては矛盾ではないのです。
Home | K.1- | K.100- | K.200- | K.300- | K.400- | K.500- | K.600- | App.K | Catalog |