17 age |
61 5 |
62 6 |
63 7 |
64 8 |
65 9 |
66 10 |
67 11 |
68 12 |
69 13 |
70 14 |
71 15 |
72 16 |
73 17 |
74 18 |
75 19 ▲ |
76 20 |
77 21 |
78 22 |
79 23 |
80 24 |
81 25 |
82 26 |
83 27 |
84 28 |
85 29 |
86 30 |
87 31 |
88 32 |
89 33 |
90 34 |
91 35 |
92 |
1775年19歳 |
|
3日、姉ナンネルがロビニッヒ家の人たちとミュンヘンにたった。 目的は弟のオペラ『偽の女庭師』を観るためである。
11日、ミュンヘンから母へ
ありがたいことに、僕たち3人はたいそう元気です。 明日、僕の本稽古があります。そして13日の金曜日に上演されます。 昨日、僕たちは仮装舞踏会へ行きました。
13日、ミュンヘンのザルヴァートル劇場で
14日、母へ
ありがたや! 僕のオペラは昨日上演されました。 大変な成功で、その大騒ぎの様子をママにお伝えすることは僕には到底できません。 まず第一に、劇場は大入り満員で、諦めて帰らなくてはならない人が沢山いました。 どのアリアの後でも必ず大喝采がわき起こって、『マエストロ万歳』が叫ばれました。 僕の向いにいらした選挙侯妃殿下も太后もブラボーと言われました。しかし、そんな大成功にもかかわらず、歌手の病気などもあって、合計3回上演されるにとどまる。 モーツァルトの人気も長続きせず、謝肉祭の騒ぎが終る頃には、これといった成果もなく父子はザルツブルクに引き上げて行かなければならなかった。
この頃、ミュンヘンで
を作ったらしいが、行方不明。 デュルニッツ男爵の遺品の中から見つかったファゴット(バスーン)のための作品の一つと伝えられている。
|
1月か2月、オペラ・ブッファ「偽の女庭師」を上演したとき、選帝侯マクシミリアン3世の求めに応えて
を大急ぎで作曲。 この作品については、1776年9月4日、マルティーニ神父に批評をあおいだところ、その3ヶ月後に賛辞の返事をもらっている。さらに、ミュンヘンで、デュルニッツ男爵のために6曲の
|
7日、ヴォルフガングと父姉の3人は、母の待つザルツブルクに帰った。
帰郷後、
19 - 20日、アメリカ独立戦争が始まる。 5月にイギリス増援軍がボストンに上陸。 6月にはアメリカ連合軍が組織される。 翌年3月にイギリス軍はボストン攻囲戦に敗れ、撤退することになる。
23日、女帝マリア・テレジアの皇子マクシミリアン・フランツ大公のザルツブルク訪問を記念して
|
19日、ザルツブルクで上演されたピッチーニのオペラ・ブッファ「幸運な賭博師」(?)に挿入するために
を作曲。 さらにこの頃、ドメニコ・フィスキエッティ作「マルマンティーレの市」への挿入として や、チェコの作曲家ミスリヴェチェク(1737-81)のアリアを改作して、 も作ったらしい。
|
14日、彼自身またはブルネッティのために
自筆譜には1776年とあるが、タイソンの推定により、この頃
ザルツブルク大司教のために
|
5日、自筆譜の日付がなぜか消されたが、ザルツブルク大学の修了式のために
9日、ザルツブルク大学の修了式があり、上のセレナード(交響曲版)が演奏されたらしい。
20日、
23日、再びフィナール・ムジークがあり、上のセレナードが演奏されたらしいので、そのために行進曲を作り替えたのか。 不明。
|
12日、
26日、
を作曲。彼自身またはブルネッティのために
20日、
この頃の作品と思われているもの
Home | K.1- | K.100- | K.200- | K.300- | K.400- | K.500- | K.600- | App.K | Catalog |