Johann Michael Puchberg1741 - 1822 |
プフベルクはウィーンの裕福な(ただし晩年は貧しくなった)織物商で、音楽好きだった。 フリーメーソンの「真の融和」というロッジで会計係をしていた。 モーツァルトは1784年12月14日にロッジ「善行に向かって進む Zur Wohltatigkeit」に入会し、おそらく音楽を通じて互いに親しくなったと思われる。
晩年のモーツァルトの借金の申込みに応じていた唯一の人物として歴史に残る。 借金を願う手紙は1788年から死の1791年まで度重なり、そのうち約20通が残っている。 それらを合計すると、借財は1415フローリンにもなるが、モーツァルトは生前に返済することができなかった。 モーツァルトの死後、それをプフベルクは請求しなかったばかりか、未亡人となったコンスタンツェにも金を貸した。 彼女は裕福になってから返済したという。
■モーツァルトがプフベルクに宛てた手紙
■関係する曲
Johann Anton André1775 - 1842 |
ウィーンの出版業者、作曲家。 モーツァルトと親交があり、また彼の熱烈な愛好家でもあった。 モーツァルトの死後、コンスタンツェから未発刊の作品をまとめてを買い取ったり、かなりの作品に関与している。
Franz Anton Hoffmeister1754 - 1812 |
ウィーンの作曲家で出版業者。 フリーメーソン。 晩年のモーツァルトからの借金に応じている。
■関係する曲
CD [Teldec WPCS-22045/6] エコー組曲 変ホ長調 コンソルティウム・クラシクム 1976年 |
〔動画〕
Otto Heinrich von Gemmingen Homberg1755 - 1836 |
ゲミンゲン男爵はモーツァルト家にとって旧知の仲だった。
プファルツ選帝侯の侍従で、枢密顧問官。
彼にはモーツァルトは1777〜78年にマンハイムで世話になっていた。
78年、マンハイムで、ゲミンゲン作のメロドラマ「セミラミス Semiramis」のための音楽 K.315e (Anh.11) を作曲したらしいが、楽譜は確認されていない。
1778年からウィーンに移住し、1783年2月2日、フリーメーソンのロッジ「善行に向かって進む Zur Wohltatigkeit」を結成。
翌年12月14日には、モーツァルトを会員に加えた。