Mozart con grazia > 年代記 > 1763年 |
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1763年7歳 |
1756年に始まった7年戦争(オーストリアの対プロイセン復讐戦争で、国王フリードリヒ2世が引き起こし、ヨーロッパの大国が参戦)が終わり、パリ条約が締結。 これにより、新大陸では、フランス領だったカナダとミシシッピ以東、スペイン領だったフロリダがイギリスの植民地となった。 さらに北米だけでなくインドでの植民地戦争も終結し、勝利したイギリスは産業革命の時期(1764年ハーグリーヴズによる多軸紡績機の発明、1765年ワットによる蒸気機関改良、1768年クックの太平洋探検航海とアークライトによる水力紡績機の発明、など続く)に入った。
9日、一家は西方への大旅行に出発。ザルツブルクに戻るのは、約3年半後の1766年11月29日。 その間、各地の王侯・貴族の前で神童ぶりを発揮。また、姉とともにチブスにかかるが、一命を取り留める。
12日、ミュンヘン着。
13日、レオポルトが故郷ザルツブルクの家主ハーゲナウアーに宛てた手紙によると、旅行用の馬車の後輪がバラバラに壊れ、近くの水車小屋から有り合わせの車輪で応急手当てをし、大変な目にあったことが報告されている。 幸いなことにその日は天気が良く、また近くに水車小屋があったのも幸運だった。当時の旅行がどれほど苦しいものだったかが分かる。
22日、ミュンヘン発。その晩にアウクスブルク着。
18日、フランクフルト・アム・マインで開かれた姉弟の演奏会をゲーテ(当時14才)が聴いた。
20日、(父の手紙から)
旅行を始めてから、確かアウクスブルクでだったと思いますが、一度、朝ヴォルフガングは目を覚ましたとき泣き出しました。 私がなぜ泣くのかと聞きますと、ハーゲナウアーさん、ヴェンツェルさん、シュピッツェーダーさん、ダイブルさん、ライトゲープさん、 フォークトさん、カイェタンさん、ナーツェルさんなど、それにほかのお友だちにも会えないのが悲しいの、と言うのです。30日、フランクフルトの人々を驚嘆させた二人の演奏会の最後(それまでに3回あった)が午後6時シャルフ邸で行われた。 これまでと同様、鍵盤を隠して演奏したり、即興演奏したり、奇跡を人々に見せつけた。
5日、ベルギーのブリュッセル着。
14日、ブリュッセルで、クラヴィアのための小品を作曲。 後にクラヴィアとヴァイオリンのためのソナタ
18世紀後半、ソナタ形式が器楽の領域で確立され、モーツァルトは短期間のうちに習得した。 その構成は提示部〜展開部〜再現部〜コーダ(結尾)であるが、モーツァルトはその基本型を守りながらも、作曲技法・表現力の拡大・発展・深化のいずれにおいても才能を発揮し、さらに形式の定型を天才的なアイデアと霊感により破ってもいる。 この遊びの精神は定型を厳密に守る職人的技量との間で絶妙なバランスを保ち、他の追従を許さない。
この頃、イギリスではジョージ3世の国王布告。
ツェルで、コンスタンツェの妹ゾフィー誕生。 のちに彼女はモーツァルトの最期を看取って、手記を残した。
15日、ブリュッセル発。
18日、パリ到着。1751年からパリに定住していたフリードリヒ・フォン・グリムは自分が主宰する「文芸・哲学・批評通信」紙上で「奇跡の子供たちが到着したこと」を伝えた。 一家はバイエルン大使ヴァン・アイク伯爵が住む「オテル・ドゥ・ボーヴェ」に泊った。 この建物は今もフランソワ・ミロン街68番地(当時は「サントワーヌ街」と呼ばれていた)に現存するという。 父の手紙によると、伯爵夫人は2段鍵盤のフリューゲルを貸してくれたという。
21日から翌年1月の間、パリで、翌年4月にド・テッセ伯夫人に「作品2」として贈る2曲のソナタの第1曲
30日から翌年2月1日の間、パリで、王女ヴィクトワールのための作品1の第2曲となる
この年の夏か翌1764年、ザルツブルクで作られたと思われる、ナンネルの楽譜帳に残された唯一の曲
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