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ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調 K.466

  1. Allegro ニ短調 4/4 ソナタ形式
  2. Romanze 変ロ長調 4/4 複合三部形式
  3. Allegro assai ニ短調 2/2 ロンド・ソナタ形式
〔編成〕 p solo, p, 2 vn, 2 va, fl, 2 ob, 2 fg, 2 hr, 2 tp, timp, bs
〔作曲〕 1785年2月10日 ウィーン
1785年2月

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ウィーンの「ツア・メールグルーベ」での予約演奏会のために。 演奏の前日(2月10日)に仕上げ、自作目録に記入した。 写譜が間に合わず、モーツァルトは全体を通して弾く時間もないまま会場に出かけたという。

1月22日、父からナンネルへ宛てた手紙の中で

たった今、お前の弟から手紙を受け取った。 その中に、最初の予約演奏会が2月11日に始まって、毎週金曜日に続けられること、四旬節第3週目にはハインリヒのための音楽会があるので、私にもすぐにも来いということ、この前の土曜日に6つの四重奏曲をアルタリアに売って、 100ドゥカーテンを手に入れ、その曲をハイドンや親しい人達に聴かせたこと、が書いてある。 最後に、書き始めた協奏曲にまた取りかかります。 さようなら! とある。
[手紙(下)] pp.110-111
と知らせているが、ここで「書き始めた協奏曲」というのがこの曲である。 父レオポルトはハインリヒ・マルシャンと共に1月28日にザルツブルクをたち、ミュンヘンに向かい、2月6日まで滞在した。 そして翌7日にミュンヘンを出発し、ウィーンへは11日に到着した。 ちょうどその日は手紙で予告してあったようにモーツァルトの「ツア・メールグルーベ」での演奏会当日であり、レオポルトは息子の演奏によるこの新作を聴いたのだった。 そして3月2日水曜日にはハインリヒ・マルシャンのコンサートがブルク劇場で催された。 この年は天候不順だったこと、またレオポルトの個人的な事情もあって、ザルツブルクに帰る時期が遅れ、彼が弟子ハインリヒ・マルシャンとウィーンを離れたのは4月25日になってからだった。 彼が出発前に大司教から承認されていた旅行期間は6週間だったが、それが許可なく大幅に延びて3ヶ月以上にもなったことで大司教の怒りを買うことになった。 レオポルトはようやく5月13日ころにザルツブルク到着。

メールグルーベ Mehlgrube」とはウィーン市の「粉蔵(英 flour pit)」であるが、1780年代にマルティン(Philipp Jakob Martin, 35歳?)が音楽の演奏会場として使う許可を得ていたのである。 貴族たちは財力に応じて楽団や作曲家を自前で抱え、演奏できる広間(会場)も持っていたが、その頂点にあるのはもちろん宮廷の楽団であり、2つのオペラ・ハウス(ケルントナートル劇場とブルク劇場)があった。 しかし1780年代のウィーンの文化は単に貴族だけで成り立っていたわけではなく、台頭するブルジョワ層が大きな役割をはたすようになり、多くのアマチュアの音楽愛好家たちが活動の場を求めていた。

たとえば、晩年のモーツァルトによく金を貸してくれた銀行家のミハエル・プフベルクのような熱心なアマチュア音楽家もいる。 階級はどうであれ、女の子たちは楽器や歌を習わせられたので、貴族の子女でなくとも、そういう技芸の上手な者たちがいた。 男たちも、身分階級を問わず、新しく生まれてくる音楽を理解し鑑賞したが、それらの音楽は何もハイドンやモーツァルトとは限らず、今ではあまり知られていない大勢の同時代の作曲家たちの作品が含まれており、中には二級の音楽家としては優秀な者たちの曲も含まれている。
[ランドン] p.98
しかし当時のウィーンには一般市民が利用できるコンサート・ホールはなかったので、そのため誰かが演奏会場として使用できる場所を確保して、ひと儲けしようと考えるのは自然なことであった。 その一つが「メールグルーベ」であり、そこはダンスホールやカジノといった市民の娯楽の場としても使われていたことから、「市の集会所」あるいは「市営のカジノ」などと訳されている。 とにかく、このとき若いモーツァルトは、地方都市ザルツブルクにいては決して得られないような、新しい時代の到来をウィーンで敏感に感じ取っていたのである。
1782年5月8日、ウィーンからザルツブルクの父へ
マルティーンとかいう人が、去年の冬、愛好家音楽会を企画して、毎金曜日にメールグルーベで開催されました。 御存知の通り、ヴィーンにはアマチュア音楽家が大勢いて、男性も女性も、なかにはとても優れた人もいます。 しかし、いままでのところ、こうした音楽会はうまく企画されたことがなかったように思えます。 ところがこのマルティーンという人は、皇帝からの命令で、後援していただける約束のもとに、アウガルテンで12回演奏会を、また、市の目抜きの広場で4回、セレナードの大演奏会を開く許可を得たのです。 どんなに多くの人たちが予約するか、想像できるでしょう。 それでいっそう、ぼくはこの企画に興味を持ち、関わっているのです。
[書簡全集 V] pp.237-238
モーツァルトは、興行師と組んで演奏会を催すことで分け前を手にするよりも、自分で企画した予約演奏会で収入を得る方がはるかに良いこと、またそれが実現可能であることを十分に知ったのである。
宮廷劇場を使って個人の収益のための演奏会を開くのには、競争相手も多く、日程の空きも限られており、一年一回の使用しか望めなかった。 彼は自分のソロと小型オーケストラのための演奏会シリーズを毛色の変った場所でやることを思いついた。 たとえばトラットナーホフであり、メールグルーベであった。 トラットナーホフというのは、大きな住居用の建物で、所有者のヨーハン・トーマス・トラットナーの名を取ってそう呼ばれていたが、そこには十分にコンサート・ホールとして使えるような大きな部屋があった。 メールグルーベというのはレストラン兼ホテルであったが、そこにダンスホールが併設されていた。 1784年にはトラットナーホフで3回のコンサートを開き、翌85年にはメールグルーベで6回のコンサートのシリーズを開催している。 その他、貴族の私邸で行ったコンサートは84年が少なくとも18回、85年が5回となっている。
[ソロモン] pp.455-456
1785年2月11日「メールグルーベ」での息子の演奏会をじかに聴いたレオポルトはザルツブルクの娘ナンネルに次のように伝えた。
1785年2月16日
当日の晩には、私たちはあの子の最初の予約演奏会に出かけましたが、身分の高い人たちがたくさん集まっていました。
(中略)
演奏会はまことに素晴らしいものでしたし、オーケストラも見事でした。 いくつかの交響曲のほかに、イタリア語劇場の女歌手がアリアを2曲歌いました。 それからヴォルフガングの素晴らしい新作のクラヴィーア協奏曲がありましたが、私たちが着いたときには、写譜屋はまだそれを書き写しているところだったし、おまえの弟はロンドーをまだいちども通し弾きしてみる時間がなかったのです。 彼には筆写譜に目を通す必要があったからです。
[書簡全集 VI] p.37
意欲的な新作を、しかも出来上がったばかりの(第3楽章にいたってはまだ通しで弾く時間がなかった)革新的な作品を、まったく新しい形態となる作品発表の場でみずから演奏するモーツァルトは意気揚々として大満足であったに違いない。 聴衆の中に父レオポルトもいたことで、なおさらモーツァルトの気持ちは晴れ晴れとしたことだろう。 それにしても演奏の練習時間が十分になかったにもかかわらず、レオポルトに「オーケストラも見事でした」と言わせたように、演奏家たちの腕前とモーツァルトの指揮ぶりも神がかり的なものだった。 ザスローは次のように舌を巻いている。
この精巧で難しい作品を初見で演奏して、高い音楽的素養をもつモーツァルトの父親とヴィーンの聴衆を満足させることができたのであるから、オーケストラ奏者たちは傑出していてモーツァルトの語法を熟知していたに違いない。
[全作品事典] p.175
しかしこの曲はモーツァルトにとって短調が基調となった初めてのピアノ協奏曲であり、しかもそれは後の『ドン・ジョヴァンニ』『レクイエム』と同じニ短調である。 その響きの中で、「不安定なシンコペーションを伴ってテーマが出現すると、不気味な緊張感があたりを包む」(久元)のである。 それを見事に演奏しきったことは驚きであり、聴衆の側も新しい時代の到来を感じ取ったであろう。 さらにまた、モーツァルトはこの演奏で斬新な試みも行っていた。
この時代のピアノフォルテは、現代のピアノにはない装置を持っているものがあった。 またモーツァルトは、ヴァルターに対していろいろと注文をつけ、自分の楽器に手を加えさせたりしている。
モーツァルトが楽器に行った改造の例は、足ペダルである。 モーツァルトは、オルガンの足鍵盤のようなペダルを自分の楽器に付けていた。 父レオポルトの証言によれば、結婚後初めて息子を訪ね、ウィーンに到着したちょうどその夜、モーツァルトの予約コンサートが開かれ、前日完成したばかりの『ピアノ協奏曲 ニ短調 第20番 K466』が演奏された。 このときモーツァルトは大きな足ペダルを嵌め込み、これを操って演奏したが、このペダルは大がかりなもので、ものすごく重かったという。 このような足ペダルは、バスの音を強めたり、ふつうなら左手で弾くバスの部分を足で演奏したりするために使ったと考えられる。 左手は自由になり、鍵盤上での自由自在な演奏が可能になる。
[久元] pp.36-37
もしかしたら自由になった左手でオーケストラの指揮をとることも可能だったかもしれない。 その演奏会で聴衆がどのような反応だったかはよく分からないが、レオポルトが「演奏会はまことに素晴らしかった」と言っているので、当時の聴衆も珍しい楽器を超人的なテクニックで操るモーツァルトの姿に、そして初めて聴く不気味な印象に驚きながらも、感動しただろうと思われる。 ソロモンが言うように、「モーツァルトは明らかに既成の音楽ファンに応えようとしているのではなく、新しい聴衆を作り出す叩き台を試みているといえる」実験の場であり、そのような場で時代を越えた大天才の新作に立ち会うことができた当時のウィーンの人たちは何と幸運だったことか。 なお、予約演奏会以外にも、ハイドンの弟子の歌手エリーザベト・ディストラー(Elisabeth Distler, ?-1790)が2月15日にブルク劇場で催したコンサートでもモーツァルト自身がこの協奏曲を演奏した。

この作品の調性、そして「ベートーヴェン的」といわれる情熱とパトスと劇的葛藤に満ちた曲想に対して、作曲者に何があったのか? と、後世の我々はそのわけを知りたがるが、よく言われているのはフリーメーソンとの関係である。 この年の1月7日、モーツァルトはフリーメーソンの第2位階の「職人」に昇進していた。 前年暮れにメーソンに入会したことから、モーツァルトの作曲の仕方が変わってきたとも言われている。 すなわち、聴衆を対象としたものから自分自身に向けて曲を作るようになり、この協奏曲も「演奏者を引き立たせ、演奏技法を披露するための、華麗で肩のこらない社交的雰囲気を漂わせた作品」とは異質な性格を持っている。 ド・ニは「きわめて秘儀的な色彩の強い曲、つまりこれは闇と光の闘い、あるいは死の経験を通して生にいたるフリーメーソン的書法なのである」と断言している。

それらはまた、あたかも彼が顕著に二重人格的であるかのように見せることになり、アマチュア向けの陽気なピアノとヴァイオリンのためのソナタがあるかと思えば、その横には極めて深く力強い音楽が顔を並べるのである。 それがあまりに力にあふれているので、E・T・A・ホフマンのような19世紀の批評家は、そこに悪魔的な側面を見たのであった。 そうした傾向の最初の噴出は、ニ短調のピアノ協奏曲K466であろうが、この曲はどこから見ても音楽史上の里程標である。 その暗い出だしの部分は、われわれをJ・C・バッハの華奢なロココの美や、モーツァルト自身の初期の作品からは、遥かに離れた世界へ連れて行ってしまう。
[ランドン] p.140
しかしモーツァルトは聴衆を置き去りにして自分自身だけの世界に奥深く閉じこもるような作家ではなかった。
フィナーレにおいて再び、すでに狼煙のように上昇する主要モティーフのなかで予告されていた、半音階的に高揚され醇化された情熱と劇的性格が現れる。 今度はしかし、モーツァルトは彼のペシミズムと絶望を微笑して超克しようとする。 カデンツァのあとで彼は長調へ転ずる。 それは魅惑的な愛らしさを持つコーダであり、感動的な雲間の陽光であり、同時にまた、おそらく社交的なものへのちょっとした帰還でもあろう。 自分の客人たちに、親しみの印象を与えて立ち去らせようとする王者の騎士的な身振りである。 しかしハイドンやベートーヴェンの、子供らしい、あるいは壮大なオプティミズムなどではない。
[アインシュタイン] p.417
この長調に変わって「ややおどけた身振りで曲を閉じる」ところについて、久元は「演奏していて、指揮者の個性を一番感じる」といい、「空間をスパッと切り、世界を180度転換させてしまえる力量が問われるところだ」と指摘する。

自筆譜はウィーン音楽愛好家協会が所蔵。 当時の初版は残されていない。 ウィーンからザルツブルクに帰るときレオポルトはこの新曲とカデンツァを全部持って行ったはずだが、そのモーツァルト自身のカデンツァは残っていない。
ザルツブルクに戻ったレオポルトはこの年の12月にウィーンから写譜を送ってもらい、翌年1月4日にそのピアノのパート譜をザンクト・ギルゲンに住む娘ナンネルに送っているが、その中でこの曲の演奏についてレオポルトの考えが述べられている。

アダージョはロマンスです。 テンポは速く取って、速い三連符でもって、烈しい響きを引き出せるくらい速くするのです。 これはロマンスの第三ページに出てきますが、正確に練習しなければなりません。 そうすれば主題は生気を失うことはありません。 同様に最初のアレグロ楽章でも、速いパッセージのあとはイン・テンポをとる必要があります。
[書簡全集 VI] p.224
ただし、これはレオポルト自身の考えではなく、モーツァルトが父に既に言及していたものという可能性もある。


モーツァルト記念像
歴史に残る演奏

余談であるが、レオポルトはウィーン滞在中(1785年2月11日~4月25日)に息子の勧めでフリーメーソンに入会しているが、そのことを娘ナンネルには隠していた。 彼は4月6日に息子と同じロッジ「善行に向かって進む Zur Wohltatigkeit」に入団し、第1位階の「従弟」となったが、異例な早さで、16日に第2位階の「職人」へ、そして22日には息子とともに第3位階の「親方(マイスター)」に昇級した。 24日にはロッジ「桂冠の希望」でフォン・ボルンの名誉をたたえる式典があり、レオポルトは息子とともに出席し、翌25日にウィーンをたった。 それが父子の最後の別れとなった。 なお、このような世界を二人が共有できたことから、のちに死の床についた父にモーツァルトは次のように書くことができたのである。
1787年4月4日、ウィーンからザルツブルクの父へ
私は、何ごとについてもいつも最悪のことを考えるのが習慣になっています。 死は(厳密に考えて)われわれの一生の真の最終目標なのですから、私は数年この方、人間のこの真の最善の友ととても親しくなって、その姿が私にとってもう何の恐ろしいものでもなくなり、むしろ多くの安らぎと慰めを与えるものとなっています! そして、神さまが私に、死がわれわれの真の幸福の鍵だと知る機会を(私の申すことがお分かりになりますね)幸いにも恵んで下さったことを、ありがたいと思っています。
[手紙(下)] p.124

〔演奏〕
CD [COCQ-84576] t=30'22
クラウス (p), ホルダ指揮ウィーン・プロ・ムジカ管弦楽団
1950年
CD [KING K33Y192] t=28'59
ルフェビュール (p), フルトヴェングラー指揮ベルリンPO
1954年
CD [PHILIPS PHCP-10171/77] t=30'00 ; mono
ハスキル (p), パウムガルトナー指揮ウィーン交響楽団
1954年
※カデンツァはハスキル
CD [PHILIPS 32CD-154] t=29'14
ハスキル (p), マルケヴィッチ指揮ラムルー
1960年
※カデンツァはハスキル
CD [KICC 2376] t=32'04
バドゥラ=スコダ (p), クナッパーツブッシュ指揮ヘッセン放送交響楽団
1962年
CD [ALKAM AV, CULTURE CCD-1019] t=31'41
ルドルフ・ゼルキン (p), セル指揮コロンビア交響楽団
1962年
CD [PILZ 9302] t=30'40
ジウリーニ (p), リッツィオ指揮モーツァルト・フェスティバル管弦楽団
CD [ANF S.W. LCB-137] t=31'53
ペライア (p), クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団
1981年
CD [ポリドール GCP-1029] t=32'36
ルドルフ・ゼルキン (p), アバド指揮ロンドン交響楽団
1981年
※カデンツァはベートーヴェン
CD [PHCP-10517] t=33'44
内田光子 (p), テイト指揮イギリス室内管弦楽団
1985年
CD [ミュージック東京 NSC163] t=29'34
カイト (fp), グッドマン指揮ハノーヴァー・バンド
1990年
CD [Venus TKCZ-79232] t=31'43
ブルメンタール (p), ハーガー指揮モーツァルテウム
CD [TELDEC WPCS 21219] t=29'27
アルゲリッチ Martha Argerich (p), ラビノヴィチ Alexandre Rabinovitch 指揮, パドヴァ管弦楽団
1998年9月、パドヴァ、ジュスティ宮殿

【編曲】
CD [TECC-30064] II. t=2'37
ベルガー (zither), 他
1989年
CD [TELARC UCCT-1146] t=32'19
ジャック・ルーシエ・トリオ、弦楽合奏付きJAZZ演奏
2005年6月、パリ
CD [BICL 62193] II. t=4'43
松井朝敬(ウクレレ)
2006年

〔動画〕

〔参考文献〕


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2015/04/12
Mozart con grazia