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1784年28歳 |
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10日、父への手紙で、オペラ「カイロの鵞鳥」K.422(ヴァレスコ詩)よりも、すぐにも金になるもの(たぶん6つのピアノ協奏曲K.449, 450, 451, 453, 456, 459のこと)を作らなければならないと書いている。 いかにピアノ曲を重要視していたかは、20日の手紙からも分かる。 なお、「午前中はレッスンで歩き回り、作曲をするには夜しかない」と伝えている。
20日、父への手紙で、最新作の交響曲「リンツ」K.425とプロイヤーのためのピアノ協奏曲K.449について、興味あることを書いている。 それらのオリジナルを送り、前者は写譜したあと「送り返すか、誰かにあげるか、どこかで演奏するか」好きにしていいが、後者は写譜したあと「すぐ送り返し、誰にも見せない」ことを求めている。 これと同じようなことを別の手紙でも書いている。 つまり、後者の方がモーツァルトにとって大切な商売道具だったわけである。
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17日、トラットナーホーフの広間でコンサートを開き、新作のピアノ協奏曲K.449を演奏した。 トラットナー邸での予約演奏会では毎回、新作のピアノ協奏曲が1曲づつ発表される。
20日、父への手紙で自分のコンサートの予約者174人の名前を列記し、それはリヒターとフィッシャーを合せたよりも、30人も多い予約であることを伝えた。 予約は一人6フローリンで、全部で千フローリンの収入になったという。 ただし、その後、劇場での最初の発表会を開こうとしたところ、リヒテンシュタイン侯爵が自分の邸でオペラを催し、貴族のおもだった人達や、オーケストラの最良のメンバーも引き抜かれ、そのため、モーツァルトの発表会は4月1日に延期された。 そして、5年後には、モーツァルトのコンサートの予約者はヴァン・スヴィーテン男爵たった一人になってしまう。
22日、自作目録第3番となる
23日、アントン・シュタドラーがブルク劇場で行った音楽会のために
24日、トラットナーホーフの広間でコンサートを開き、新作のピアノ協奏曲K.450を演奏した。
30日、自作目録第4番となる
31日、トラットナーホーフの広間でコンサートを開き、新作のピアノ協奏曲K.451を演奏した。
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12日、プロイヤー嬢のために、予約演奏会用の
弟子のピアニスト、バルバラ・プロイヤー嬢のために
21日、ウィーンを訪問中のヴァイオリニスト、レジーナ・ストリナザッキーのために
24日、父へ
マントヴァの有名なストリナザッキが今当地に来ています。この人の演奏にはとても趣味と感情が溢れています。 私は今ソナタを書いていますが、この人の発表会で一緒に弾きます。 それから今度、ヨーゼフ・ハイドンの弟子で、プライエルという人が四重奏曲を出しました。 まだご存じなければ、何とかして手にいれてみて下さい。それだけの値打があります。 非常によく書かれていて、気持ちのいい曲です。 お聴きになれば、先生が誰かすぐ分かります。 プライエルがそのうちハイドンの跡を継ぐことができれば、音楽にとって結構な、幸いなことです。
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24日、父に送った(15日)4曲のピアノ協奏曲(変ホ長調K.449、変ロ長調K.450、ニ長調K.451、ト長調K.453)のうち、「変ホ長調を別にして、3曲の中でどれがお父さんと姉さんに一番気にいるか知りたい」と書いている。
27日、ウィーンの街角で、モーツァルトは1ヶ月半前に作曲したピアノ協奏曲K.453第3楽章のテーマをさえずる小鳥を見つけ、買ってきた。 むく鳥シュタールは3年間その陽気な主題を歌い続ける。
モーツァルト父子の文通は6月以降、急にとだえる。 時おり文通のあったことは、父から娘ナンネルへの手紙によって知られ、息子が父に書いた手紙の内容はわずかに窺い知ることができるが、その間の往復書簡は保存されていない。
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ウィーン訪問中のサルティの前で
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あらゆる幸せと楽しみがありますように願っています。 ただ残念でならないのは、都合が悪くて婚礼に出席できないことです。 今は一人ぼっちで暮らすことになった愛するお父さんが何よりも気の毒です。 お父さんは忌々しい音楽堂に縛り付けられているのです。 僕だったら、もうこんなに勤めたのだから、大司教に引退を願い出て年金を受け、娘のところへ行って静かに暮らすでしょう。 大司教がその願いを聴いてくれなかったら、解雇を求めてウィーンの息子のところへ行くでしょう。 お二人が仲良く暮らして行きますように。 僕の詩的な脳味噌をしぼったちょっとした忠言を受け取って下さい。結婚したらいろいろ分かってくるよ、今までは半分謎だったことが。
何ごとにも二つの面がある。夫婦生活は多くの喜びも与えるが、また心配も生み出す。
夫が不機嫌になって、暗い顔をすることがあったら、男の気まぐれだなと考えなさい。
そして言うのです、「昼間はあなたのお好きなように。夜は私の思いのままに」と。
23日、姉ナンネルはザンクト・ギルゲンの地方貴族ベルヒトルト・フォン・ゾンネンブルクと結婚。 この男はすでに2人の先妻と死別し、5人の子供を持ち、ナンネルよりも15歳も年上だった。
25日、グルックのオペラ「メッカの巡礼者」の中のアリエッタ「愚民の思いは」をテーマに
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30日、盲目のピアニスト、マリア・テレージア・フォン・パラディスの依頼により
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9日、自作目録第10番で、ハイドン・セット第4番となる
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14日、モーツアルトはフリーメーソンのウイーンにおけるロッジの一つである「善行に向かって進む Zur Wohltatigkeit」に入会し、死ぬまでの7年間、熱心な会員となった。 最初の階級は第1位階の「従弟位階」。 このロッジは前年2月2日にゲミンゲン男爵によって結成されたもので、彼にはモーツァルトは1777〜78年にマンハイムで世話になっていた。 (1778年からウィーンに移住していた)ゲミンゲンは、さっそくモーツァルトに結社への加入を勧めたものと思われる。
24日、フリーメーソンのウィーンにおける最大の支部が集会を開き、モーツァルトは出席した。
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