17 age |
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92 |
1772年16歳 |
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21日、
この頃、次の教会ソナタを作曲したかもしれない。
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14日、ヒエロニムス・コロレド伯(40歳)がザルツブルクの新大司教に選任。 彼は18世紀の啓蒙時代にふさわしく、厳格で思慮深く、贅沢を好まない知識人だった。 ヨーゼフ2世を信奉し、ザルツブルクにおける政治や文化の改革を行ったが、モーツァルトに求めたことは、教会での典礼音楽を短く簡明にせよ、ということだった。
彼は前任者のように寛大ではなく、以後モーツァルトにとっては忌まわしい人物となり、ついには大喧嘩の末、1781年、モーツァルトはウィーンに定住して自由な活動をすることになる。
父レオポルトは両者の間にあって苦しむことになる。
この年の初めから3月にかけて、3曲の
この頃の作かもしれない歌曲
フリーメーソンのヨハネ分団における儀式のための賛歌
を作曲。
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29日、コロレド伯がザルツブルク城に入り、この日から新たな行政が始まる。
ザルツブルク宮廷のソプラノ歌手マリア・マグダレナ(ミハエル・ハイドン夫人)のために
聖体降福式のためのモテットとして2曲の
を作曲。新大司教に聴かせるために、3つのシンフォニー
● イタリア旅行からザルツブルクへ戻った約1年間に交響曲に打ち込み、8つの作品(第14番〜第21番)を残した。 第18番以降では1曲毎に管楽器の組合せを変えている。 この曲以外にフルート2、ホルン2という組合せの交響曲は第27番K.161bしかない。 この一連の作品に対して、サン・フォワは「彼にとって深い研究の対象でなかった交響曲のどんな部分も、交響曲様式のどんな側面もない。 この深い研究のおかげで、このジャンルのすべての要素が変貌を遂げ、その変貌が楽曲の規模、管弦楽法の自在さと多彩さ、表現の強度と旋律線の澄み切った美しさとして現れている」と述べ、青年モーツァルトの霊感が高まり、ロマンチックな危機を経験しつつあったと推察。
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新大司教のために
を作曲。
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10月
24日、父と二人で3回目のイタリア旅行に出かけた。
25日、インスブルック到着。
27日、ブリクセン到着。
28日、ボルツァーノ(ボーツェン)到着。
今ぼくらはもうボーツェンにいます。 もう? やっとですよ! お腹がすいて、喉が渇いて、眠くって、けだるいけど、でも元気です!
10月末から11月初にかけて、ボルツァーノかヴェロナで
を作曲。 父レオポルトがザルツブルクに宛てた28日の手紙によれば、「退屈しのぎに書いた」もの。 なお、この曲から第7番 K.160 (159a) までの6曲は「ミラノ四重奏曲」と呼ばれる。
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11月か12月、ミラノで
を作曲。 父レオポルトは短調の第2楽章が聴衆に合わない難しい曲だとして気に入らず、書き直すように言ったという。
もう14曲作らなければなりません。 それで出来上りです。 ぼくはオペラのことばっかり考えているので、姉さんに言葉を書かずにアーリアをそっくり書いてしまいそうになるくらいです。
10月から12月にかけて、
18日、ミラノから姉へ右のような手紙を書き送っている。 ハートに火がついて燃えている側に鳥が「さあ、飛んで行って僕の可愛い子ちゃんを探せ。 そこらじゅう、すみずみまで探せ!」と言いながら飛んでいる漫画が書いてあり、その周りに手紙の文が輪になっている。 そこには「姉さんがこの手紙を受け取る頃、オペラ『ルチオ・シラ』が上演される」ことが書いてあり、それを包み込むように得意の悪戯っぽい冗談に溢れていて、作曲の仕事をうまく仕上げた高揚感に満ちている。
26日、ミラノのレッジオ・ドゥカール劇場でオペラ「ルチオ・シラ」初演。
この年のザルツブルクでの作と思われている作品
72年か73年、ザルツブルクでの作と思われている作品
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