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音楽劇「クレタ王イドメネオまたはイリアとイダマンテ」 K.366

Dramma per musica "Idomeneo, Rè di Creta ossia Ilia ed Idamante"
〔編成〕 2 fl, 2 ob, 2 cl, 2 fg, 2 hr, 2 tp, timp, 2 vn, 2 va, vc, cb
〔作曲〕 1780年10月〜81年1月 ザルツブルク、ミュンヘン


バイエルン選帝侯カール・テオドール
原作はフランスの台本作家ダンシェ(Antoine Danchet, 1671~1748)による。 それをザルツブルク在住のイタリア人神父ヴァレスコがモーツァルトのために編集した。 また、シャハトナーがドイツ語訳を提供したという。 この音楽劇はバイエルン選帝侯カール・テオドール(1724~1799)の依頼により、1781年の謝肉祭のために作曲することになったものである。 モーツァルトは1779年1月7日ミュンヘンで選帝侯妃マリア・エリーザベトに「プファルツ・ソナタ」と呼ばれるソナタ集を献呈していた。

この頃、死ぬほど退屈なザルツブルク(そして父の束縛)からの脱出を考えていたモーツァルトはこのオペラの完成に並々ならぬ力を注ぐことになる。 あの懐かしいミュンヘンを再訪できる喜び、そこにいる演奏家たちとの再会を思うと、ガッツポーズしたに違いない。 ただし片思いに終わったアロイジアはすでにウィーンに移住し、ヨーゼフ・ランゲと結婚していたが。

ついに彼は再びあのいっさいの効果手段、すなわちマンハイム・ミュンヘン合併のオーケストラ、(たった一人の例外を除いて)卓越した歌手たち、聴衆としては耳の肥えた宮廷人たちを手に入れたのである。
[アインシュタイン] p.84
1780年10月には作曲に取りかかり、第1幕の大部分が仕上げられたという。 そして喜び勇んで11月5日ザルツブルクをたち、石のように固い座席の駅馬車に苦しみながら(それをモーツァルトは「これからは原則として、駅馬車で行くより徒歩で行く方がよい」と彼一流のジョークで言っている)6日午後1時にミュンヘンに到着、さっそく活動を開始した。 それから間もなく、11月29日、女帝マリア・テレージアが死んだが、父レオポルトがオペラ作曲への影響を心配したのに対して、そんなことはモーツァルトの眼中になかった。 これを機会に二度とザルツブルクには戻らない強い決意があったのだろう。 彼は各曲の性格づけと歌手の力量に合わせた作曲、そしてオペラ全体の統一された表現の完成に没頭する。 このオペラについて、[事典]が非常に詳しい解説を提供してくれているので、ここではその二番煎じを避けて、作曲家モーツァルトの側の視点に立って完成までの跡をたどってみたい。 後世の我々にとってありがたいことに、彼の並々ならぬ意気込みを父子の間の往復書簡の再開から読み取ることができる。 そのいくつかを拾い読みしてみよう。
1780年11月8日、ザルツブルクの父へ
ぼくはヴァレスコ師にただひとつお願いがあります。 第2幕第2場のイーリアのアリアを、ぼくが使えるように、少し変えてほしいのです。 『たとえ父上を失っても、あなたのなかに父上を見出すでしょう(Se il padre perdei in te lo ritrovo)』 この詩句はこの上なく立派ですが、ただアリアのなかでは、やはりぼくには不自然に見えます。 つまり、それは独りぜりふですからね。 対話でなら、横を向いてふたことみこと素早く言っても、まったくこれは自然なことです。 でも、アリアでは、言葉を繰り返さなくてはなりませんから。 出だしのところは、うまく使えるものなら残してもよいでしょう。 詩はすてきですから。 そのあとは、あまり言葉に束縛されずに、ただまったく気楽に書き続けられるような、ごく自然に流れるアリアが欲しいのです。
[書簡全集 IV] pp.439-440
何ということだろう、このオペラでは最初のアリアはイーリアが歌う「父よ、さようなら」であり、そしてザルツブルクを離れて最初に書いた父への手紙でいきなりイーリアのアリア「たとえ父上を失っても」を持ち出すとは。 モーツァルトはこのとき父との決別さえも覚悟の上だったのかもしれない。 それを音楽にすることで自分の迷いを断ち切るつもりだった。 そこまで覚悟ができていれば、ザルツブルクとの決別も、大司教との決別もたいした問題ではなくなる。 半年後の大展開を見ると、まさにこのときモーツァルトは決心を固めようとしていたに違いない。

劇のあらすじは

クレタ王イドメネオがトロイとの戦いで死んだと思われていたので、王子イダマンテは王座についてクレタを治め、トロイとの和平を図ろうとした。 捕らわれの身となっていたトロイの王女イーリアを解放し、二人は相愛の仲となる。 その一方で、アルゴスの王アガメムノンの王女エレクトラはイダマンテに恋していた。 そこへ、イドメネオは海神ネプチューンに息子イダマンテを捧げる約束により命を助けてもらい、荒海からクレタの浜辺に帰る。
というもので、オペラ・セーリア(正歌劇、悲劇的オペラ)であるが、モーツァルトはその慣習的な拘束にとらわれず、個性的な登場人物による演劇的性格の強い作品を創作しようとした。
伝統的なオペラ・セーリアは、イタリアの地ではすでに死に絶えてゆこうとしていた。 だが、このオペラの中には、モーツァルトがわずか3年ほど前にパリでまのあたりにしたグルックの劇作品の消しがたい印刻がみられる。 青年音楽家にとって、問題は与えられたテキストを慣例にのっとって扱うことではなく、音楽表現のためにテキストの内容にまで立ち入ることが必要不可欠と思われたのであろう。 テキストの、台本作家ヴァレスコとの葛藤、いな格闘はモーツァルトにとって必然のものだったのだ。
[海老沢] p.195
作曲家と台本作家の間にあって、父レオポルトも優れた職業音楽家であり、音楽表現とテキストの内容に無頓着ではなかった。 例によって身辺のあらゆる出来事について言及しつつ、このオペラに5つの変更すべき点を指摘している。
1780年11月18日、父からミュンヘンの息子へ
つづいて2番目の、従者にイドメネーオが語るくだりが続きます。 彼らが船から下りたあと、従者を去らせるところです。 ここでおまえはたぶん、「そして故郷の空に」云々となっているのを見つけることだろう。 この『故郷の』は『i』の上にアクセントがあるが、それが長いアクセントだからで、『生まれ故郷の』の代わりをしています。 これはもう詩句が示していることです。
つづいて3番目には必要不可欠な変更がくるが、これは私がじっくりと読んだときに発見したものです。 これは(ヴァレスコが書いているようには)、彼「イダマンテ」は自分の父親の名声の証人だったことを意味するものではなく、まったく正反対で、つまり、彼は自分の父親の偉業と名声との証人でありえなかったことが、彼には残念だということを意味しているはずです。 こうしたことはすべて、すぐにおまえの筆写譜のなかにきちんと書き込まなければいけません。 そうすれば作曲するとき、なにも忘れることはないでしょう。
[書簡全集 IV] pp.456-457
ヨハン・ネポムク・デラ・クローチェが1780年から81年にかけて描いた有名なモーツァルト一家の絵、すでに他界した母マリア・アンナは壁に肖像画として描かれている。 またモーツァルトもこのときザルツブルクにいなかったので、他の絵から借りて姉の隣に描かれた。
そしてまた、11月20日には、レオポルトは自分の健康状態があまり良くないことを伝えるなかで、家族の肖像画について次のように知らせている。
1780年11月20日、父からミュンヘンの息子へ
まだなにもそれ以上は進んでいません。 私もモデルになっている時間がなかったし、それに画家のほうも多くの場合そうでした。 それに今はお姉さんが外出できません。
このとき姉ナンネルは肺結核の危険性があったことを詳しく書いている。 レオポルトは家族の絆を強め、息子が自分の手を離れる気持ちに傾かないように牽制していた。 この手紙の最後に彼は「私はおまえの年老いた誠実な父親にして友人」と書き、そしてトドメをさすかのように次のように締めくくった。
明日は私の結婚記念日です。 いま、とても悲しいことを思い出していますが、これはおまえには分からないことです。 いまはね!
父と子はお互いの腹をさぐるように、言葉の裏と表に謎をかけ合い、息詰まる神経戦を交わしていたのであった。 モーツァルトは迷いを振り切るように、ますますオペラの完成に全力を傾けてゆく。
1780年11月24日、ザルツブルクの父へ
さて、お姉さんはもうすっかり元気になったでしょうね! どうぞあんな湯鬱な手紙を二度と書かないでくださいね。 なぜって、ぼくは目下、明るい気分、明晢な頭脳、そして仕事をする楽しさを必要とします。 心が悲しいと、それが持てません。 お姉さんがどんなに休息の時を必要としているか! ぼくにはわかりますし、神さまも御存知でしょう。 でも、ぼくがその妨げになるでしょうか? そうなりたくはありませんが、残念ながら、やはりそうかもしれませんね! でも、もしぼくが目的をとげて、ここで立派にやっていけるなら、あなたはすぐザルツブルクを立つことが必要でしょう。 そんなこと起こりえないと、あなたは言うでしょうね。 少なくとも、ぼくは「努力」と「苦労」を惜しみません。
(中略)
ともあれヴァレスコ師に、第2幕の合唱で「海は穏やかだ」を、エレットラの第1節のあと、少なくとも第2節のあと、合唱が繰り返されたときに、やめることができないだろうかと、たずねてください。 それはやはりあまりにも長すぎます!
[書簡全集 IV] pp.470-471
モーツァルト自身もこのころ風邪をひいて体調はあまり良くなかったが、精力的に制作活動を続け、11月末には最初のオーケストラ付きリハーサルができるまでに至った。
1780年12月1日、ザルツブルクの父へ
稽古は非常にうまく終わりました。 ヴァイオリンは全部で6本しかありませんでしたが、管楽器は必要なだけそろっていました。 聴衆は、ゼーアウ伯爵と若いザインスハイム伯爵以外は、だれも入場を許されませんでした。 今週中には、もう一度リハーサルをします。 そのときは第1幕を(それまでに2倍にしておきますが)12人のヴァイオリンにします。 そして、そのあと第2幕は(前回の第1幕と同様に)稽古が進められるでしょう。 どんなにみんなが喜んだり、驚嘆したりしたか、とてもお伝えすることはできません。
同書 p.484
そのころウィーンでは、11月29日に女帝マリア・テレージアが死去。 しかし若いモーツァルトは自分の信じる道を前進する。
1780年12月5日、ザルツブルクの父へ
ぼくのオペラには、女帝の死はまったく影響ありません。 というのは、どの劇場も全然閉鎖されていませんし、芝居はいつものようにずっと続けられていますから。 そして喪に服する期間は全部で6週間以上は続かないでしょう。 そしてぼくのオペラは、1月20日以前には上演されません。 ところで、ぼくの喪服に丁寧にブラシをかけ、ほこりを叩き落とし、できるだけきちんとして、次の郵便馬車でぼく宛に送らせるようにお願いします。 来週はもうみんな喪服を着るでしょうし、ぼくも、あちこちへ早々に出かけて、一緒に泣かなくてはなりませんからね。
1780年12月




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作曲ができても、それを写譜する作業が追いつかず、モーツァルトが望むとおりにリハーサルは進まなかった。 そのうえ女帝の死去があり、初演まで時間がかかることになった。 それらはモーツァルトの責任ではないが、しかし彼が大司教から与えられた6週間の休暇の期限12月18日が迫っていた。 彼にとってザルツブルクに戻ることは耐えがたいことであり、大司教が「もうおまえは必要ない」と言ってくれることを待ちわびつつ、いよいよ12月23日に行われる宮廷大ホールでのリハーサルに備えていた。 ただし曲はすべて完成していたわけではなく、モーツァルトはぎりぎりまでその場にぴったりと収まる曲作りの作業を続けていた。
1780年12月19日、ザルツブルクの父へ
ところで、なによりも大事なこと、というのは急がなくてはならないからですが、次の便で、少なくとも第1幕を訳詞つきで受け取りたいのです。 第1幕の父と子の場、それから第2幕のイドメネーオとアルバーチェの第1場は、いずれも長すぎます。 それらが退屈させることは確かです。 ことに最初の場では、役者が二人とも悪く、あとの場では、一方がだめなのです。 しかも、その内容はすべて観客がすでに自身の目で見たことの叙述にすぎないのです。 これらの場面は、そのまま印刷されるでしょう。
いまとなってはただ、神父殿がいかにしたらそれらを短くできるか、それもいちばん短くできるか、指示を与えてほしいと願うのみです。 もしそうでなければ、ぼく自身がそれをしなくてはなりません。 なぜなら、この二つの場はそんな風に続けるわけにいかないのです。 もちろん、音楽においてはです。
[書簡全集 IV] p.527
こうした細々とした内容にいたるまで、父と息子の間で意見の交換が繰り替えされた。 モーツァルトは劇の進行状況や役者の力量などを考慮し、簡潔さを保ちつつ「オペラ・セリアという古びたジャンルの規則を守りながら、マンハイム的なオーケストラの力強い効果を導入するするという総合を成し遂げる」ことに腐心する。
それがそう簡単にゆかなかった。 なぜなら彼は、舞台上の現実といったことをいささか心得ない凡庸な台本作者、宮廷付き司祭ヴァレスコの頑固な態度と衝突したからだ。 「冗長です。 本当にあまりにも冗長なのです」と、彼は父親への手紙のなかでくり返し述べている。
[オカール] p.68
12月23日には3回目のオーケストラを伴うリハーサルが宮廷の大広間で行われ、列席した選帝侯から最大限の賛辞がモーツァルトに与えられた。 ただし、このときまだ第3幕は仕上がっていなかった。
1780年12月30日、ザルツブルクの父へ
「新年おめでとう!」 いまはほんとに少ししか書けないのですが、ごめんなさい。 仕事に没頭してるもんですから。 ぼくはまだ第3幕を完全に仕上げていません。 それから、このオペラには特別にバレエはなくて、たんに必要なディヴェルティスマンしかありませんので、ぼくは光栄にも舞踊音楽を書くことになっています。 その音楽が全部ひとりの作曲家で書かれるのですから、ぼくはとてもよろこんでいます。 第3幕は、少なくとも前の2つの幕と同様によい出来となるでしょう。
[書簡全集 IV] p.544
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当時、オペラと同時に上演されるバレエの作曲は別人がおこなうのが通例であったという。 それがすべてモーツァルト一人に任されたのである。 このような経緯により、「5つの舞踊曲」(K.367)が書かれることになった。 新年1781年を迎え、通し稽古を1月20日に、初演を22日にと予定されるなか、モーツァルトは第3幕の仕上げに没頭していた。
1781年1月3日、ザルツブルクの父へ
ぼくの頭も手も第3幕で一杯なので、ぼく自身が第3幕に化けて出たって、おかしくないくらいです。 この幕だけで、オペラ全体よりも苦労しています。 というのは、ここには特に興味を惹かない場面は、ほとんど1場面としてないからです。 地底の声の伴奏は、5声部だけ、つまりトロンボーン3本とヴァルトホルン2本だけで成っていて、それも声が出てくる同じ場所に置かれます。 そこでは全オーケストラが沈黙します。
(中略)
舞台では、むろん第3幕にまだたくさん注意すべき点があるでしょう。 たとえば、アルバーチェのアリアのあと、第6場で、台本には「イドメネーオ、アルバーチェ云々」とありますが、どうやってアルバーチェがすぐにそこへ戻って来られるでしょうか? 幸いなことに、彼はまったく登場しないですむのです。 でも、安全を期して、ぼくは大祭司のレチタティーヴォに、いくらか長めの導入部をつけておきました。
[書簡全集 IV] pp.548-549
事情があって、オペラの上演は29日に延期され、そのための総稽古は27日(モーツァルトの25歳の誕生日)になったので、初演を観劇するつもりのレオポルトはザルツブルク出発を遅らせた。 その一方で、ザルツブルクのコロレド大司教にとっても1780年から81年にかけては落ち着かない時期だった。 彼の父コロレド・メルス・ウント・ヴァルゼー侯爵は帝国副宰相であったが、1780年12月に重病となり、容態が危ぶまれていたからである。 年が明けて1月20日にコロレド大司教は見舞いのためウィーンへ出発する。 それを見届けて、レオポルトは『イドメネオ』が初演されるミュンヘンに旅立つことになる。

モーツァルトにとって、舞曲の作曲は光栄な仕事ではあったが、オペラの完成のためには「いまいましい仕事」でもあった。 それが1月18日ころ、やっと仕上がり、思わず「神に感謝」という言葉をもらしている。 そして第3幕のリハーサルも見事に終わった

1781年1月18日、ザルツブルクの父へ
ただ、歌詞がここではとても長すぎて、したがって音楽も同様に長すぎます(それはぼくが常に言ってきたことでした)。 そこで、イダマンテのアリア「いや、私は死を怖れない」を省略することにします。
(中略)
そして、ラーフの最後のアリアについても同様にカットします。
(中略)
それから、神託の宣告もやはり長すぎます。 ぼくはそれを短く刈り込みました。 でも、ヴァレスコはこのことを何も知る必要はありません。 なぜなら、彼が書いた通りにすべてが印刷されるのですから。
[書簡全集 IV] p.567
このようにして、オペラ『イドメネオ』はモーツァルトが満足できる形で仕上がった。 序曲も、彼の今までのオペラにはない、作品全体の性格を象徴するように作られている。 アインシュタインは「はじめて彼はオペラにおいてあらゆる手段を支配する主人となったのだ!」と言っている。 劇は以下のように序曲と3幕32曲から成る。 32曲中2曲はバレエ音楽である。

序曲 Allegro ニ長調

第1幕

  1. イーリアのアリア 「父よ、兄弟たちよ、さようなら。もう会えないでしょう」
  2. イドメネオのアリア 「私を怨むな。あなたが望むなら、私はこの胸を突き刺す」
  3. 合唱 「うれしや平和、愛に勝利あれ。今歓喜はあふれる」
  4. エレクトラのアリア 「私の胸には燃え上がる嫉妬が」
  5. 合唱 「神よ、お慈悲を」
  6. イドメネオのアリア 「私は亡霊につきまとわれるだろう、夜も昼も」
  7. イダマンテのアリア 「会えた父は怒り去った。おお、今は死ぬほど悲しい」
  8. 行進曲(K.206
  9. 合唱 「海神ネプチューンをたたえよう」
第2幕
  1. アルバーチェのアリア 「あなたの悩みを助けてあげたい」(→K.490
  2. イーリアのアリア 「今やあなたが私の父」
  3. イドメネオのアリア 「ネプチューンはまたも私を脅かす」
  4. エレクトラのアリア 「いとしい人よ、私の心は喜びでいっぱい」
  5. 行進曲(K.362
  6. 合唱 「海はおだやか、さあ行こう」
  7. エレクトラ、イダマンテ、イドメネオの三重唱 「父の手に口づけを」
  8. 合唱 「なんという恐ろしさ!」、イドメネオのアリア 「私一人の罪だ」
  9. 合唱 「逃げろ、怪物だ」
第3幕
  1. イーリアのアリア 「そよ風よ、私の心を伝えて」
  2. イーリアとイダマンテの二重唱 「この愛はいつまでも」(→K.489
  3. イーリア、イダマンテ、エレクトラ、イドメネオの四重唱 「私はひとりさまよう」
  4. アルバーチェのアリア 「神がクレタを罰しても、王と王子を守りたまえ」
  5. レチタティーヴォ(高僧)「いけにえは誰か」
  6. 合唱 「恐ろしい誓い」
  7. 行進曲
  8. イドメネオのカヴァティーナと合唱 「受けたまえ、海神よ」
  9. イダマンテのレチタティーヴォ 「私は死を恐れない」
  10. 神託 「イドメネオは王位を退き」
  11. エレクトラのアリア 「アレットの松明は私を焼き殺す」
  12. イドメネオのレチタティーヴォ 「イダマンテを王位に、イリアを王妃に」
  13. イドメネオのアリア 「再び平和が来た。歓喜がよみがえる」
  14. 合唱 「全能の神よ、新しい王と王妃を祝福したまえ」

1月25日、父レオポルトは娘ナンネルとともにザルツブルクをたち、ミュンヘンに向かった。 初演は、1781年1月29日、新築のミュンヘン宮廷歌劇場で、カンナビヒの指揮により行われた。

おもな登場人物と初演での歌手

ラーフは当時ヨーロッパ随一のテノール歌手と名高かったが、ただし高齢(67歳)のため、モーツァルトは作曲に苦労したという。
歌手たちには完全に満足するわけにはいかなかった。 例えばイドメネオが最後の役となった老ラーフには神経質な考慮を払わなければならないし、パンツァッキも同じようにやや老い込んだ熟練者だし、カストラートのデル・プラートはこちこちの初心者だった。 しかし女性歌手たち、ドロテーア・ヴェントリングとリーゼル・ヴェントリングにはなんの考慮もいらなかった。 しかしなによりも重大なことは、世界一のオーケストラを意のままに使えることだ!
[アインシュタイン] p.551
こうして「モーツァルトのような最高級の天才でさえ、生涯に一度しか書きえない作品、唯一無二のオペラ・セリア」(アインシュタイン)が初演された。 しかし残念なことに、その評判については以下の報告以外にほとんど記録がないという。
『ミュンヘン廷臣及び学識者、その他の通信』より
1781年2月1日
先月29日当地の新しいオペラハウスで『イドメネオ』が初演された。 構成、音楽、翻訳はザルツブルク出身者。 海港の風景やネプチューンの寺院が特に素晴らしかった舞台装置は当地の有名な劇場建築家で宮廷顧問官のローレンツ・クヴァーリョ氏による傑作である。 大方の賞賛を博した。
[ドイッチュ&アイブル] p.155
また、この作曲でモーツァルトが得た報酬がどのくらいだったのか不明である。 アンガーミュラーは「およそ200グルデン」と言う。
ヴァレスコには執筆の報酬として90グルデンが支払われることとなった。 シャハトナーはその骨折りにより45グルデンを得た。 モーツァルト自身がこのオペラに対してどれほどの報酬を得たのかは不明であるが、ヴォルフガングにとって少なすぎる額、すなわちおよそ200グルデンであったと推測してもよかろう。
[全作品事典] p.75
ちなみに、モーツァルトのザルツブルク宮廷オルガン奏者としての年俸は450グルテンである。

父レオポルトはミュンヘンに滞在し、初演を観ていたので、当然のことながら、モーツァルトから父へ報告の手紙はない。 したがって初演がどの程度の評判だったのか、作曲者本人が何を見たのか具体的な記述が何も残っていない。 その後、2月3日と3月3日に再演された。 モーツァルト一家(父と姉弟の3人)は3月7日から10日にかけてレオポルトの生まれ故郷アウクスブルク旅行をしたりして、ミュンヘン訪問を楽しんでいたが、ウィーン滞在中のコロレド大司教は怒り心頭だった。 モーツァルトが『イドメネオ』作曲のために許可されたのは6週間の休暇だったが、1780年11月5日にザルツブルクを離れて4ヶ月が過ぎていた。 大司教はモーツァルトにただちにウィーンに出て来て従僕としての責務をはたせと命じた。 モーツァルトは3月12日にミュンヘンを出発、16日にウィーン到着。 レオポルトとナンネルは3月13日にミュンヘンをたって、ザルツブルクに帰った。 このときハインリヒ・マルシャン(11歳)が同行している。 この少年はレオポルトの友人テオバルト・マルシャンの息子であるが、住み込みでレオポルトの弟子となり、ザルツブルク宮廷楽団のヴァイオリン奏者およびピアニストとして採用される。

モーツァルト本人の方はミュンヘンの地で職を得ることを希望していたが、やはりここでも無理だった。 帝国副宰相にしてコロレド大司教の父であるコロレド・メルス・ウント・ヴァルゼー侯爵の病状が深刻となっていた時期に、こともあろうに当のコロレド大司教のお抱え作曲家を引き抜いてミュンヘンの宮廷楽団に相応の職を与えることは火中の栗を拾うに等しい。

ところで3月3日の再演のあと、残念ながら、この傑作はその後モーツァルトの生前には再演されないが、ただ一度だけ1786年3月13日ウィーンのアウエルスペルク(Auersperg)侯宅でアマチュアによるごく内輪の演奏が行なわれた。 そのとき主催者側の要請で、大幅な改編をし、

が追加された。 このとき、ハッツフェルト伯爵がシェーナ「もういいの、私は全てを聞いた」(K.490)のヴァイオリン独奏パートを受け持ち、また彼の義妹マリア・アンナ・ホルテンジアがエレットラを歌ったという。 このときモーツァルトはアウエルスペルク侯爵から225グルデンの報酬を得た(ソロモン)という。

その後この改訂版とオリジナル版とが今日まで混ぜ合わされて使用されている。 オリジナル版が完全に復元されたのは1972年のベーレンライター版から。 復元版によるレコーディングは1980年代から。

なお、一部の行進曲(次の2曲)には間違って別の番号が与えられてしまった。

余談であるが、オペラの台本とドイツ語訳に対する謝礼はロビニッヒ夫人が持参して、それぞれヴァレスコとシャハトナーの手に渡ることになった(1781年1月18日のモーツァルトの手紙)が、夫人がまだ到着しないうちに、1月22日に、ヴァレスコは待ちきれずにレオポルトのもとに来たという。 オペラ上演のすべてを仕切っていたゼーアウ伯爵にヴァレスコは1月早々に手紙を書き送り、報酬について最大限の要求をしていたので、伯爵がヴァレスコに「手形をモーツァルトに託した」と伝えたからである。 レオポルトとヴァレスコの間で言い争いが起きたのだった。 レオポルト「ロビニッヒ夫人が持ってきてくれるまで辛抱できないのか?」・・ ヴェレスコ「郵便馬車で送ることだってできるはずだ! シャハトナーと話し合ったが、彼も同じ気持ちだ!」・・ そんなところであろう。
しかしシャハトナーはレオポルトに「私たちがミュンヘンに行って、帰ってからお金をもらうと考えていた。 ヴァレスコのしつこさが不愉快だ」と言うのだった。 レオポルトはヴァレスコを「金の亡者の阿呆、たっぷり収入があるのに借金だらけのチンポコ野郎」と断じつつ、息子には次のように言うのだった。

1781年1月22日
おまえはフォン・ロービニヒ夫人にまだお金を手渡してはいないのですか? そんなに長いこと手もとに置いていてはなりません。 盗まれたらどうするのです? ゼーアウ伯爵はヴァレスコ宛の手紙で「私は手形をモーツァルトさんに託しました」と書いています。 「手形」は為替の意味です。 そしてそれが為替だったら、おまえはそれを手紙に同封して送ってくれるべきだったのです。 そうすれば当地でお金が受け取れるし、それに、それぞれに彼らの分け前を手渡すことができたのです。 でもそうでなかったので、私はそれが現金だと思ったし、そう考えざるをえなかったのです。 またお金の話になった。 もうたくさんです! 私がミュンヘンにいさえしたら。 私は、それぞれが別々に自分の分け前が得られるよう手配できたにちがいありません。
[書簡全集 IV] p.570
モーツァルトは、やはり父とはもう一緒に暮らすことはできないと再認識したにちがいない。 ヴァレスコの胡散臭さについては父子の間で認識が共有されていたが、しかしモーツァルトにとって、父の厳重な管理の下で、いつまでも自由が束縛されたままでいることには耐えられない気持ちだったろう。 パリ旅行から1779年1月に失意の帰郷。 ザルツブルクでは給料も父の管理下にあった。 今、自分はそのザルツブルクを離れ、ひとり自由に活動している。 今回の件を教訓に、オペラの制作では、もう少しまともな台本作家と組むようにすればよいのだ。 彼は今度こそ、この自由を大切にしようと決意を新たにしただろう。 そしてよく知られているように、このあとモーツァルトはウィーンで自立の道を歩くことになる。 ただしヴァレスコとはもう一度コンビを組み、オペラ『カイロの鵞鳥』(K.422)を作ろうとするが、うまくゆかず断念。 やがてダポンテと出会い、『フィガロの結婚』(K.492)、『ドン・ジョヴァンニ』(K.527)、『コシ・ファン・トゥッテ』(K.588)などの傑作を書き上げる。

〔演奏〕 全曲
LD [東映EMI TOLW-3567〜8] t=126分
イリア B. Betley (S), イダマンテ L. Goeke (T), アルバーチェ A. Oliver (Br), エレットラ J. Barstow (S), イドメネオ R. Lewis (T), 大祭司 J. Fryatt (Bs), ネプチューン D. Wicks (Br)
演出 John Cox / プリチャード指揮ロンドンPO, グラインドボーン音楽祭Cho
1974年

〔演奏〕 一部
CD [EMI TOCE-7588] (19)「そよ吹く風」 t=5'49
シュワルツコップ Elizabeth Schwarzkopf (S), プリチャード指揮, フィルハーモニア管弦楽団
1952年、ロンドン、キングズウェイ・ホール
CD [キング KICC 6039〜46] (8) 行進曲 t=3'06
ボスコフスキー指揮 Willi Boskovsky (cond), ウィーン・モーツァルト合奏団 The Vuenna Mozart Ensemble
1966年
CD [ドイツ・シャルプラッテン 22TC-280] (序曲) t=4'48
スウィトナー指揮 Otmar Suitner (cond), シュターツカペレ Staatskapelle Berlin
1976年1月、ベルリン・キリスト教会
CD [Teldec WPCS-21094] (12)「胸のうちにある海は」 t=6'23
ホルヴェーク Werner Hollweg (T), アーノンクール指揮, チューリヒ歌劇場モーツァルト管弦楽団
1980年
CD [COCO-78047] 3つの行進曲 (8) t=4'08, (14) t=1'46, (25)t=1'18
グラーフ指揮 Hans Graf (cond), モーツァルテウム Salzburg Mozarteum Orchestra
1988年5月
CD [Campion Records, CAMEO 2003] (11) "Il padro adorato" t=3'01
ラウニヒ Arno Raunig (Sopranist), Walter Kobera (cond), Amadeus Ensemble Vienna
1989年8月, Bergkirche Wien-Rodaun
CD [NAXOS 8.557239] 序曲 t=5'20
ティントナー指揮シンフォニー・ノヴァ・スコシア
1991年3月
CD [東芝 EMI TOCE-55200] (19)「心なごませるそよ風よ」t=6'19 (レチタティーヴォ「慣れ親しんだ孤独よ」を含む)
ナタリー・デセイ Natalie Dessay (S), ラングレ指揮ジ・エイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団
2000年

〔動画〕

〔参考文献〕


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2015/01/04
Mozart con grazia