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12のホルン二重奏曲 ハ長調 K.487 (496a)
〔作曲〕 1786年7月27日 ウィーン |
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1784年2月9日から自ら作り始めていた自作目録には載っていない。 第1、第3、第6曲のみ自筆譜が残る。 そこに「ヴォルフガング・アマデー・モーツァルト作曲。1786年7月27日、ウィーンにて、九柱戯(Kegelstadt)をしながら」と書かれてあるという。 そのため、通称『ケーゲルデュエット(Kegelduette)』と呼ばれている。
自筆譜には楽器の指定がなく、そのためデュエット(二重奏)となる楽器編成は不明。 最初ケッヘルはヴァイオリン二重奏とした。 その後バセット・ホルンとした(旧全集)こともあるが、現在はホルン奏者ロイトゲープのためにとされている。 すなわち(ベルケ説によれば)当時のナチュラル・ホルンによる二重奏であり、その楽器では演奏するのに困難な音域のある部分を、ホルンの名手ロイトゲープが上手に演奏できるか試す(からかう)つもりで書いたものとされている。 しかも、九柱戯に興じているときに、その場で作曲してみせたものらしい。 したがって、12曲ともどれも短い(7曲はわずか16小節のみ、最長で55小節)小品集である。 ロイトゲープのためには6月26日に『ホルン協奏曲(第4番)変ホ長調』(K.495)を書いたばかりであり、このような交際の中からこの曲が生まれたのだろう。
九柱戯については、1783年7月末、生まれたばかりの長男ライムントを乳母に預け、妻コンスタンツェを連れて故郷ザルツブルクに出かける直前、7月12日の父への手紙で
8月には、おそくとも9月には、きっと参ります。 ・・・ それまでに庭にボーリング場を作らせておいて下さい。 妻がそれが大好きなのです。と書いている。 今のボーリングのように、ボールを転がして(当時は9本の)立柱を倒す遊びであるが、ただし平らに芝生で整地したところで興じる野外の遊び。[手紙(下)] p.96
遊びながら作曲ができるのか? という疑問はモーツァルトの場合には当てはまらない。彼の同時代の多くの人たちが認めているように、まるで手紙を書いているように楽譜に曲を書いていったという。 ただし、それは曲が既に頭の中にできてしまっている場合であり、本当に作曲しているときは、そのことに集中しているため、「ぼんやりとして、部屋中を歩き回り、周囲で起きていることには何も気づかなかった」という。 そして、頭の中で曲ができあがると、それを紙に写すだけだったが、ただし必ずしも曲の最初から書き始めるというわけでもなかったらしい。
また、次のような逸話も残っている。
玉突きをやりながらあるモティーフをとても低くフム、フム、フム、と口ずさんでいたようだった。 そして他の人が突いている時、何度かポケットから手帳を取り出し、すばやくちらっと見ると、また遊戯を続けた。 やがてモーツァルトがドゥーシェク家でピアノに向って坐り、「魔笛」のタミーノ、パパゲーノ、三人の侍女による美しい五重唱「どうしたの? どうしたの? どうしたの?」を、友人たちに弾いて聴かせた時、それが玉突きをしながらモーツァルトが気をとられていたのとまったく同じモティーフで始まったのには、みんなどんなに驚いたことだろう。九柱戯(Kegelstadt)で遊びながら書いたとされる曲はもう一つあり、それは『ケーゲルシュタット・トリオ』(K.498)と呼ばれている。[ランドン] p.156
〔演奏〕
CD [ポリドール POCG-2420/1] t=23'51 プリンツ Alfred Printz (basset-hr), シュミードル Peter Schmidl (basset-hr) 1979年3月、ウィーン |
〔動画〕
〔参考文献〕
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