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ヴァイオリンのための曲

新全集の「弦または管楽器のための協奏曲」というジャンルに含まれる作品のほか、疑わしい作品や偽作なども一覧する。

演奏家としてのモーツァルトの名声は、主にピアニストとしてのそれである。 彼の名前は19世紀になっても、「ウィーンの偉大なピアノ演奏家にして即興の名人」として伝わっていた。 しかし、モーツァルトはそればかりではなかった。 彼には父というすばらしい教師がいたお陰で、ヴァイオリンやヴィオラの奏者としても腕があったが、のちにはヴァイオリンから手を引き、弦楽四重奏や五重奏の中ではヴィオラを弾くようになる。 それは洗練された会話の中に身を置いているような気分にしてくれる楽器といえよう。 なぜモーツァルトが次第にヴァイオリンから遠ざかったかということに関して諸説あるが、それが父親の楽器であったことに対する無意識の反抗とみなす考え方もある。 しかし彼がこの楽器を使って名人芸を披露することを最終的にやめてしまう理由が何であれ、彼がすぐれた演奏家であったことは、1770年代の半ばに作曲し、みずから演奏した一連のヴァイオリン協奏曲を見れば明らかである。
[ランドン] p.40
ナンネルに宛てたヨハン・アンドレーアス・シャハトナーの回想
あなた方がヴィーンから戻られて、ヴォルフガングがヴィーンで贈り物にもらった小さなヴァイオリンを持って来た時、作曲に関しては初心者でしたが非常に優秀なヴァイオリニストであった、亡くなったヴェンツェルさんがやって来ました。 彼は父上のいらっしゃらない所で完成させた6曲のトリオを持参していました。 私達はこのトリオを演奏しました。 父上がヴィオラで低音を、ヴェンツェルが第一ヴァイオリンを、そして私が第二ヴァイオリンを弾くことになったのですが、ヴォルフガンゲルルが第二ヴァイオリンを弾きたいと言い出しました。 父上は馬鹿げた頼みだと言って拒否しました。 彼はまだヴァイオリンのほんの初歩すら手ほどきを受けておらず、父上は彼がどんな易しい所でもできはしないと考えたのです。 ヴォルフガングは言いました。 第二ヴァイオリンを弾くためだったらそもそも練習なんかしてある必要はないと。 それでも父上がこれ以上ぐずぐずしてないで、さっさと始めようと主張するとヴォルフガングはワーッと泣き出して、彼の小さなヴァイオリンを持って出て行こうとしました。 私は「私と一緒に彼にも弾かせてやって欲しい」と頼みました。 それで遂に父上は「じゃあ、シャハトナーさんと一緒に弾きなさい。 でも誰にも聞こえないように静かにやるんだよ、さもないと追い出すからね」と言いました。 そして始まりました。 ヴォルフガングは私と一緒に弾きました。 すぐに私は気がついてびっくりしました。 私は全く余計なのです。 私は静かにヴァイオリンを離してしまいました。 そして父上の方を見ました。 この情景を見て父上の頬に感嘆と慰めの涙が流れました。 少年は6曲のトリオを全部弾きました。
[ドイッチュ&アイブル] pp.255-256
これはモーツァルト一家がウィーンから帰郷した1763年1月のことだった。 2月に父レオポルトはザルツブルクの宮廷楽団の副楽長に就任し、式典でヴォルフガングはヴァイオリンの演奏を披露したという。 当時の新聞によると、少年モーツァルトは「自分用の小さなヴィオリーノ・ピッコロで演奏に加わり、ザルツブルクの宮廷でソロでも協奏曲でも演奏していた」という腕前に達していた。
 
作品

未完 ・ 断片

編曲

偽作 ・ 疑作

 

K.268 (Anh.C14.04) ヴァイオリン協奏曲 第6番 変ホ長調

  1. Allegro moderato 変ホ長調 2/2 ソナタ形式
  2. Un poco adagio ト長調 3/4 変ロ長調
  3. Allegretto 変ホ長調 2/4 ロンド形式
〔編成〕 vn, fl, 2 ob, 2 fg, 2 hr, 2 vn, va, bs

自筆譜ない。 成立について、アインシュタインは

1780年末のザルツブルクとミュンヘンの時期に着想されたとみなすことができよう。
[アインシュタイン] p.383
と推定し、第3版で K.365b に置いた。 続けて
改作者たるミュンヘンの若いヴァイオリニスト、ヨーハン・フリードリヒ・エックに提供されていたのは、せいぜい第1楽章の草稿と、多分ロンドのはじめの数小節だけであった。 中間楽章はたしかに拙劣な偽造である。
と説明している。 エック(Johann Friedrich Eck, 1766-1810)はホルン奏者ゲオルク・エックの息子で、1778年(12歳のとき)にミュンヘンでヴァイオリンの見習いになったという。 1779年、エック父子はザルツブルクを訪れている。 また、『イドメネオ』上演のために、1780年にモーツァルトがミュンヘンを訪れたとき、そこでもエックと出会い、親しくしていたことがわかっている。 その後、エックは1788年にミュンヘンでコンサート・マスターになり、1790年までの間に5曲のヴァイオリン協奏曲を書いたという。

アンドレの初版(1799年)から偽作と思われていたこの作品は、モーツァルトらしからぬ書き方であることから、ケッヘル第6版では「偽作および疑義ある作品」に置かれ、新全集では収録していない。 エックが1790年から1798年の間に書いたとする説もある。
 


K.271a (271i) ヴァイオリン協奏曲 第7番 ニ長調

  1. Allegro maestoso ニ長調 4/4 ソナタ形式
  2. Andante ト長調 3/4 ソナタ形式
  3. Allegro ニ長調 2/4 ロンド形式
〔編成〕 vn, 2 ob, 2 hr, 2 vn, va, bs

自筆稿は1837年までパリにあった後、紛失したという。 2種類の写本(総譜とパート譜)が残る。 総譜はフックス(Alois Fuchs, 1794-1855)が写譜したものであるという。 フックスはモーツァルトの『ウィーンに暮らすザルツブルクのならず者』という一幕劇の自筆稿(K.509b)を所有していたが、現在それは行方不明。 また、パートの写譜の方には

ヴォルフガング・アマデーオ・モーツァルトのヴァイオリン協奏曲、ザルツブルク、1777年7月16日。 アブネック氏所有の作曲者自筆総譜に従い、ウジェーヌ・ソゼーが写譜
[事典] p.624
と記されているという。 それを記入したのはヴァイオリン奏者ソゼー(Eugène Sauzay, 1809-1901)の師バイヨ(Pierre Marie François de Sales Baillot, 1771–1842)であるという。
上記の日付から、モーツァルトが1777年に母と姉の共通の命名日のために作ったともいわれていた。 この曲の終楽章には『レ・プティ・リアン』(K.Anh.10 / 299b)の第6曲と同じ動機が使われていることが知られている。 しかし曲全体の書法には19世紀のフランス風の名人芸的な技巧が見られ、モーツァルトの作風とは違うことから新全集では「疑わしい作品」として分類している。 モーツァルトがスケッチを残し、それをもとにのちにソゼーまたはバイヨ(あるいは別人)が勝手に改作したのかもしれないが、作品としての出来はあまり良くない。

〔演奏〕
CD[EMI CDH 7-63718-2] t=26'23
メニューイン (vn), エネスコ指揮パリ交響楽団
1932年
※カデンツァは Enesco.
CD[TELDEC WPCS-6135] t=25'52
ツェトマイアー (vn) 指揮, フィルハーモニア管弦楽団
1990年

 


K.Anh.294a (Anh.C14.05) アデライード協奏曲 (贋作)

Violin concerto in D "Adelaïde"
  1. Allegro ニ長調
  2. Adagio
  3. Allegro

〔演奏〕
CD[EMI CDH 7-63718-2] t=22'43
メニューイン (vn), モントー指揮パリ交響楽団
1932年
※カデンツァは Hindemith.
 


参考文献

 

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2011/10/24
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