Friedrich Melchior von Grimm1723 - 1807 |
1723年12月25日 Regensburg に生れ、1807年12月19日 Gotha で没。
ザクセンのフリーゼ伯爵に仕え、のちにパリでオルレアン侯爵の秘書。
外交官で文筆家。
パリでは百科全書派たちと「文芸通信」を編集していた。
その雑誌で神童の紹介をしてくれたり、モーツァルト父子がパリを訪れた1763-64年と1766年、そして母子が訪れた1778年に世話をしてくれた。
ただし1778年7月にモーツァルトの母が死去したあとは、この天才をもてあましていたようである。
Madame d'Epinay1726 - 1783 |
名前はルイーズ・フロランス・ペトロニル・タルデュー・デスクラヴェル。
フランスの女流作家。
当時の知識人たち、ディドロ、ルソー、ヴォルテールと交友関係があった。
パリのグリムの愛人。母を失ったモーツァルトに下宿を提供していた。
Joseph Le Gros1730 - 1793 |
世間知らずのモーツァルトを食い物にした人物として有名。
1778年、母と共に就職活動のためパリを訪れたとき、モーツァルトはチュイルリーのコンセール・スピリチュエルの支配人ル・グロからの依頼を受けて曲を作った。 そうすることで当地で成功するだろうと考えたのだが、見事に裏切られる。 彼が買い取ったと思われる曲は紛失したりして、一時的な成功にしか役立たなかった。
関連作品
Comte de GuinesAdrien-Louis Bonnieres de Souastre, 1735 - 1806 |
ベルリンやロンドンでフランス大使を務めた。 フルートの演奏が得意で、パリ訪問中のモーツァルトをひいきにしてくれたらしい。 令嬢はハープを上手に弾くことができ、記憶力が非常に良く、モーツァルトに毎日2時間作曲を教わった。 ただし、そのレッスン料はわずか3ルイドール(屈辱的に少ない金額)だった。 モーツァルトは二人にそれぞれ別の曲を作曲するつもりだったらしいが、結局は二人を独奏者とする次の1曲だけを書き残した。
関連作品
Muzio Clementi1752 - 1832 |
1752年1月23日ローマで生れ、1832年3月10日 Evesham で没。
イギリスのドーセットで音楽を学び、ロンドンでピアニストとして有名になった。 ヨーロッパ大陸を演奏旅行で回っていたとき、1781年12月24日ウィーンで、ヨーゼフ2世の御前で、モーツァルトとピアノの競演を行った。 このときクレメンティはトッカータとソナタをモーツァルトは変奏曲を弾いた。 そのあと、大公妃からパイジェルロのソナタの自筆稿が出され、モーツァルトが第1楽章を、クレメンティが第2、第3楽章を弾いた。
モーツァルトは1782年1月16日ウィーンから父へ手紙を書き、「クレメンティは律儀なチェンバリストです。 それだけの話です。右手が非常に達者に動きます。 得意なのは3度のパッサージュを弾くことです。 ともかく趣味も感情もなく機械的に弾くだけの人です」と、そっけなく伝えた。
イギリスに帰国してからは音楽出版もするようになった。 1798年にロングマン・アンド・ブロデリップ社が傾いたとき、その危機を救い、「クレメンティ・アンド・カンパニー」という社名で、ピアノ製作も行った。
ロングマン・アンド・ブロデリップは当時ロンドンにおけるピアノ製作者ジョン・ブロードウッドの競争相手であり、ジョン・ギーブとウィリアム・サウスウェルというピアノ製作者の楽器を扱っていた。
顧客の中にはハイドンもいて、彼が1791年にロンドンを訪れた際、ロングマン・アンド・ブロデリップ社のピアノを購入し、ウィーンに持ち帰っている。
なお、ハイドンの死後、そのピアノはマクシミリアン・シュタドラーの手に渡り、現在はロビンズ・ランドン氏が所有しているという。
【参考】渡邊順生 「チェンバロ・フォルテピアノ」 p.539