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交響曲 第31番 ニ長調 「パリ」 K.297 (300a)
〔作曲〕 1778年6月から7月 パリ |
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コンセール・スピリチュエル支配人ル・グロの依頼による。 彼の注文通り、大規模な楽器編成の作品に仕上げた。 母と二人でパリに滞在中の1778年6月12日、モーツァルトは
ぼくは、(もう前から)頼まれていましたので、ぼくの作品をいくつか持参しました。 今日持参したのは新しい交響曲で、これは丁度書き上げたばかりで、聖体節にはコンセール・スピリテュエルでこれが始まることになっています。と、父に報告している。 この手紙の日付から、この曲は「1778年6月12日」に成立したことになる。 当時のパリは既に市民文化が進み、音楽も宮廷だけのものではなくなりつつあった。 この頃からシンフォニー主体の演奏会も行われるようになっていたという。 その聖体節の初日、6月18日にこの曲が初演された。 モーツァルトは先に訪れたマンハイムの楽団の優れた演奏に刺激を受け、さらにパリのオーケストラの規模と演奏能力に合せて、最大級の楽器編成の作曲の機会を得たことになった。 この規模に匹敵するのはウィーンで改編した「ハフナー・シンフォニー」だけである。 また、クラリネットもこの交響曲から登場する。[手紙(上)] p.153
ろばさんたちでもその中に何か気に入るようなものを見いだすだろうと、やはり期待しているのです。 じっさい最初の弓使いも間違いなく書いておきました! ---それで十分なのです。 それで当地の牛どもは大騒ぎをするでしょう!と書いて、親しい付き合いのあったラーフが話してくれたことを引き合いにして、「お笑い草です」と言っている。 父もフランス人の趣味について批判的で、6月29日の手紙で同書 p.153
パリで版刻されたシュターミッツのシンフォニーから判断すると、パリの人たちはうるさいシンフォニーが好きにちがいありません。 すべてが騒音で、他はごった混ぜ、ところどころに見事な楽想が出てきますが、お門違いな個所に不器用なかたちで出てくるのです。と書いている。 当時のフランスの習慣の「最初の弓の当たり le premier coup d'archet」について、R.L.マーシャル「モーツァルトは語る」(pp.416-418)が参考になる。[書簡全集 IV] p.123
父子の間でこのようなやりとりをしていた中で、この曲は作られ、そしてよく知られているように、7月3日、母マリア・アンナが他界した。 その日、モーツァルトは父にショックを与えまいとして
非常に不快な、悲しいお知らせを申し上げなければなりません。 お母さんの具合が非常に悪いのです。という書き出しで始まる手紙を書いている。 その長い手紙にはいろいろな話題を満載し、父の気を必死にそらそうとしているが、鋭敏なレオポルトは愛妻の死を悟ったのであった。 その手紙で、この曲の演奏が大成功だったことをモーツァルトは次のように書いている。[手紙(上)] p.154
それは聖体節に演奏されて、大いに喝采を受けました。 聞くところでは、『ヨーロッパ通信』にも、その記事が出ていたそうです。その『ヨーロッパ通信』には
(中略)
最初のアレグロのまん中に、これはきっと受けると思っていたパッサージュが一つあったのですが、はたして聴衆は一斉に熱狂してしまいました。 そして拍手大喝采です。 でもぼくは、書いている時から、それがどんな効果を生むかを知っていたので、それを最後にもう一度出しておきました。 それから、頭からの繰り返しです。 アンダンテも受けましたが、最後のアレグロが特にそうです。
(中略)
嬉しさのあまり、ぼくはシンフォニーが終るとすぐにパレ・ロワイヤルへ行って、上等のアイスクリームを食べ、願をかけていたロザリオにお祈りをしてから、家へ帰りました。同書 pp.157-158
『ヨーロッパ思潮』 ロンドン、1778年6月26日と掲載されたという。 ところで、気になる「きっと受けると思っていたパッサージュ」であるが、それはどの部分かについて、いくつかの説があり特定できない。 ザスローはそのいくつかを紹介している。
聖体祝日のコンセール・スピリテュエルはモーツァルトの交響曲で始まった。 ずっと若年のころからクラヴィーアのヴィルトゥオーゾとして名を知られて来たこの音楽家は、今日最も有能な作曲家の一人に数えられる。[ドイッチュ&アイブル] p.143
アーノンクールは、パリの聴衆が喜んで大喝采をしたという第1楽章のパッセージは、第65~73小節であろうとしている。 このパッセージは第220~227小節で再現するが、ここではヴァイオリンとヴィオラのスピッカート(はねる弓)の旋律が、上からは管楽器の持続音に支えられ、下からはチェロとコントラバスのピッツィカートによって支持されて、輝かしい効果を生み出している。[全作品事典] p.249
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6月16日の演奏会は大好評で、依頼主のル・グロも「自分の手がけた最上のシンフォニーだ」と言ったが、ただし第2楽章アンダンテに「転調が多く、長過ぎる」と批判した。 モーツァルト自身は「ごく自然で、しかも短い」と自信をもっていたので、それには不満だったようであるが、「彼(ル・グロ)および彼の言う幾人かを満足させるために」別のアンダンテを書き、その新しい版により8月15日に再演した。 初演のときのアンダンテは「ト長調、8分の6拍子、フルート1、オーボエ2、ファゴット2、ホルン2、弦5部」であったが、新アンダンテは「ト長調、4分の3拍子、フルート1、オーボエ1、ファゴット(またはチェロ)1、ホルン2、弦5部」となった。 この結果、1782年にパリのシベールで出版された楽譜(短いアンダンテ)と、当地の写譜師によると思われるコピー、そして自筆譜(8分の6拍子のアンダンテ)などが残ることになった。 アインシュタインは
モーツァルト自身は両作に優劣の区別を立てることを欲しなかったが、長くて厳格で、比較的牧歌的でない前作の方が無条件に優れていると見なければならない。 この方こそモーツァルトの、このはじめての《大》シンフォニーの新しい規模にふさわしいものである。と評している。[アインシュタイン] p.314
そしてモーツァルトはパリを去るとき、この曲をル・グロに売り渡した。 ただし、モーツァルト自身は10月3日ナンシーから父に宛てた手紙で
ル・グロはそれを独占しているつもりですが、そうは参りません。 ぼくの頭の中にまだ生き生きと入れてありますから、家へ帰ったら、さっそくもう一度書き上げます。と伝えている。 パリでの就職活動は失敗に終り、母を失い、モーツァルトは9月8日、コンセール・スピリチュエルで最後の演奏会を催し、9月26日パリを離れる。 その最後の演奏会もこの交響曲で開始し、好評だったようである。 さらにザルツブルクへの帰途、10月、ストラスブールでモーツァルトは演奏会を開いて旅費を稼ぐ必要があった。[手紙(上)] p.195
帰途立寄ったシュトラスブルクでこの曲を演奏する必要が生じた為、ザルツブルクへ帰らずしてこの曲をもう一度書き上げることとなったモーツァルトは手持ちの草稿に加筆・訂正を行なったものと思われる。パリでの初演、再演、そのほかの演奏で使われた楽譜、さらに「手持ちの草稿」などの内容については[野口]が詳しい。 またその後も、モーツァルトの方でも機会あるごとにこの曲を演奏していたことが知られていて、たとえば1783年3月12日ウィーンからザルツブルクの父へ宛てた手紙にも[野口]
昨日私の義姉ランゲ夫人が劇場で発表会を開き、私もその中で協奏曲を一曲弾きました。 劇場は大入りでしたが、私はまたも、とても気持よく当地の聴衆に迎えられて、本当に満足を覚えました。 退場しても、まだ拍手が鳴り止まず、とうとうロンドをもう一遍弾いてしまいました。 それに私のコンセール・スピリテュエルでやった交響曲も出しました。と書かれている。 そのときに使用したのは初稿(長いアンダンテ)の方だったというから、やはり作曲者本人はその方が優れていると思っていたのかもしれない。 さらに、1790年10月15日フランクフルトの「大劇場」で催されたコンサートでも演奏された可能性があるという。[手紙(下)] pp.88-89
〔演奏〕
CD [PHILIPS PHCP-10551] t=17'55 ブリュッヘン指揮18世紀オーケストラ 1985年 ※第1楽章 Allegro assai |
CD [CAPRICCIO 10322] t=17'41 グラーフ指揮ザルツブルク・モーツァルテウム 1989年 |
CD [PILZ CD-160-176] t=16'48 リッツィオ指揮モーツァルト祝祭管弦楽団 1990年頃 |
CD [Membran 203307] t=20'56 Alessandro Arigoni (cond), Orchestra Filarmonica Italiana, Torino 演奏年不明 |
〔異稿版〕
改訂版とされる方のアンダンテにはファゴットの部分が欠けているため、チェロの部分を模して書き加えられていたが、最近イギリスのアラン・タイソンがその楽譜を発見した。
CD [ポリドール FOOL 20373] t=15'30 ホグウッド指揮エンシェント室内管弦楽団 1982年 タイソンによる改訂版、史上初演奏 |
〔動画〕
〔参考文献〕
Jean Georges Sieber1738 - 1822 |
シベールはドイツ中南部フランケン地方に生まれ、1758年(20歳)にパリに移りホルン奏者として活動を始めたが、ほかにトロンボーンとハープの演奏もできた。 オペラ座の主席奏者を務めるかたわら、1770年(32歳)に結婚したのち、1771年にかけて出版者ユベルティ(Huberty)から仕事を引き継ぎ、サン・トレノ街で音楽出版業を開始した。
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