Mozart con grazia > ピアノ・ソナタ
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ピアノ・ソナタ 第8番 イ短調 K.310 (300d)

  1. Allegro maestoso イ短調 4/4 ソナタ形式
  2. Andante cantabile con espressione ヘ長調 3/4 ソナタ形式
  3. Presto イ短調 2/4 ロンド形式
〔作曲〕 1778年初夏 パリ
1778年7月


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新全集では第9番。 仕事を捜すためパリに滞在中に書かれた最初のピアノ・ソナタであるようだが、自筆譜には「1778年パリ」とあるだけであり、作曲の正確な時期はその年の3月から9月までのパリ滞在中のいつなのか不明。 しかもこの期間にモーツァルトは不幸な出来事に直面した。 彼はピアノソナタを約18曲書いているが、そのうち短調は2曲しかなく、この曲はその最初の作品にあたるが、それが母の死(1778年7月3日)と関係があると思われ、否応なしに不安と悲しみが投影されているように聞こえるのである。 スットーニは「マンハイムの若いソプラノ歌手アロイージア・ヴェーバーとの別離」がこの短調作品の創造へ駆り立てたのかもしれないという説を紹介しているが、そのほかに、ランドンは「異国の都で宮仕えしなければならない運命に対して不満の、怒れる若き作曲家の気概」を聴き、また、渡邊順生は「モーツァルトがパリでこのソナタを作曲した際に彼に刺激を与えたのは、イギリスからフランスに運ばれたバッカースのピアノであったかもしれない」と推測するなど、さまざまな要因が重なって生まれたのだろう。 それでもやはり、「劇的で仮借ない暗黒に満ちている」(アインシュタイン)この曲から、母の死を予感して恐れ慄く若者、あるいはその死を見届けて嘆き悲しむ若者の心情が伝わってくるのである。 いつも通りの急・緩・急の3楽章から成るが、中間の緩徐楽章は不穏な印象の不協和音が連続して長く、全体の半分を占めている。 残りを約4対1の割合で第1楽章と終楽章が書かれている。 全体に暗く不気味な印象が拭えず、アインシュタインは「これはきわめて個人的な表現であって、この時代のあらゆる作曲家の作品全体を見わたしても、似たものは見つからないであろう。」と言っている。

イ短調(K.310)は本当に悲劇的なソナタである。 第1楽章の終りのハ長調への転調すらも明るさをもたらさない。 そしてまた、なるほど緩徐楽章(コン・エスプレッシオーネ)でも展開部はいくらか慰めるようにはじまるが、全体の印象は再現部のまえのぶきみな興奮に結びついて離れない。 影におおわれたプレストははじめから終りまでぶきみである。 ミュゼット風にはじまる挿入された旋律の花にもかかわらず、ぶきみなのである。 イ短調は(ときには特別な照明を受けたイ長調も)モーツァルトにとって絶望の調性である。 このソナタにはもはや「社交性」がない。
[アインシュタイン] p.336
短調の終楽章はきわめて短く、長調への解放もないまま終わってしまうので、聴いている者は取り残された気持ちになるかもしれない。 アインシュタインは次のように続けている。
1778年に批判の都パリで成立し、1782年に出版されたこの作品を、同時代人たちが文句を言わずに、鈍感に、なんの注釈も必要とせずに受け入れたことについて、サン・フォワ氏が驚嘆しているのももっともである。
第1楽章は「堂々と maestoso」と指示されているが、悲しみの息苦しさに支配され、久元は「不安に怯えた心理を象徴しているように思える」と言う。
冒頭から衝撃的な緊張感があたりを包む。 すぐに悲劇的な雰囲気が広がるのだが、この楽章を覆っているのは不安ではないだろうか。
[久元2] p.149
それでは「maestoso」という指示はどういうことなのか? どう解釈したらいいのか? 久元は「曲のイメージからはやや違和感を禁じえない」と前置きし、「悲劇的な死を悼む厳粛な葬送のイメージなのだろうか」と当惑しつつ、次のように説明している。 やはり作曲者自身が現実の不安に押しつぶされないように我が身を支えるための頑丈な杖が必要だったのだろう。
これがモーツァルトのパトスの爆発だ! と言わんばかりにひとりで興奮して弾きまくるような演奏は、少なくともモーツァルトが望んだ演奏ではないだろう。
私自身は、弾き手が興奮してしまって突っ走ってしまうな、というモーツァルトの戒めと受け止めている。 知と情のバランスが問われるところかもしれない。
[久元1] p.90 /[久元2] p.149
第2楽章は「表情をもって歌うように cantabile con espressione」と指示されていて、「モーツァルトらしい美しい旋律で始まる。 提示部は、穏やかな気分に満ちている。」と久元は言い、メイナード・ソロモンの解説を引用している。
この緩徐楽章はアンダンテ・カンタービレ・コン・エスプレッシオーネと書かれているが、これはこの楽章の始まりの、歌うような、表情豊かな部分に対する指定である。
(中略)
だが、そのあと、モーツァルトは別に声を大きくするわけでもなければペースを速めるわけでもなく、静かに床の揚げ蓋を開ける。 そこからは、平安を乱し騒がせる力が吹き上げてきて、最前までの世界を忘れさせてしまいそうになる。
その驚くべきコントラスト、ムードの暗転、耳に刺さるシューベルトの使うような不協和音、短調と長調をシフトしながら続く、速い容赦ない転調などが目につくが、モーツァルトはこうした混沌と崩壊にあとを委ねる気はない。
[ソロモン] pp.304-305
そしてこの示唆に富む解説の多くの部分について、[久元1]のウエブ版≪「本」を「音」に≫で実際に聴くことができる。

3つのソナタ K.309, K.310, K.311が「クラヴサンまたはフォルテピアノのためのソナタ」として1782年頃、パリのエーナ(ハイナ)社から出版された。 最初のケッヘル番号はこの版の順に従っている。 さらに、1784年には6曲セット(K.310, K.311, K.330, K.331, K.332, K.333)でアルタリアから「作品VI」として出版されてもいる。 自筆譜はベルリン・プロイセン文化財団図書館にある。

ハイナ(49才)はプラハ郊外に生まれた。 1764年からパリに移り住み、フランソワ・ジョゼフ・エーナと名のり、宮廷楽団のヴァルトホルン奏者を務め、また、楽譜の出版業を営んでいた。 モーツァルトが母マリア・アンナとパリを訪れたとき、彼は二人の世話をし、次第に病状が悪化していくマリア・アンナを気遣っていた。 そして1778年7月3日、彼女は永遠の眠りについた。 この曲はその悲しみと無縁ではないだろう。

礒山 雅 「モーツァルトあるいは翼を得た時間」 pp.232-250 にこの曲の演奏史がある。

〔演奏〕
CD [エフ・アイ・シー ANC-1003B] t=13'23
リパッティ (p)
1950
CD [LONDON POCL-4395] t=16'53
グルダ (p)
ca 1954, mono
CD[TOCE-13252] t=19'08
リヒテル (p)
1956年
CD [POCL-9421] t=21'06
アシュケナージ (p)
1968
CD [CBS SONY 30DC-738] t=11'57
グールド (p)
1969
CD [SONY SRCR 2625] t=11'57
※上と同じ
CD [DENON CO-3858] t=14'46
ピリス (p)
1974
CD [WPCC-5277] t=14'46
※上と同じ
CD [PHILIPS 32CD-200] t=22'18
ブレンデル (p)
1983
CD [PHCP-10371] t=21'34
内田光子 (p)
1985

CD [ACCENT ACC 8851/52D] t=16'35
ヴェッセリノーヴァ (fp)
1988
CD[ALM ALCD-9075] t=16'24
久元祐子 (p)
2007年4月、茅野市民館

<編曲>
CD [Victor VICC-104] (1) t=3'18, (2) t=3'51
モーツァルト・ジャズ・トリオ
1991年

〔動画〕

〔参考文献〕

 

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2013/10/13
Mozart con grazia