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ホルツバウアーの「ミゼレーレ」のための8楽曲 K.Anh.1 (297a) (紛失)〔編成〕 不明〔作曲〕 1778年3月か4月 パリ |
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1778年3月14日、モーツァルトは母マリア・アンナ(58歳)を伴ってマンハイムをようやくあとにした。 メッツ経由の最短コースで10日間の馬車旅行。 3月23日午後4時パリ着。 不自由な乗合馬車でなく、御者を雇って「二人きりで気楽におしゃべりができる」ことと「母を気遣って」快適さを求めたものだったが、マリア・アンナが3月24日パリからザルツブルクの夫には次のように書いている。
旅のあいだ一週間とても良いお天気でしたが、朝はびっくりするくらい寒く、午後には暖かくなりました。 でも最後の2日は、風でもう息がつまりそうでした。 それに雨をすっかりかぶってしまって、私たち二人とも馬車の中で洗濯物みたいにずぶ濡れになり、もうまったく息ができませんでした。到着後、二人はブール・ラベ街の古物商マイヤーの住居に間借りすることになったが、とても快適とは言えない環境だった。 ピアノ(クラヴィーア)がないので、モーツァルトはコンセール・スピリチュエル支配人のルグロ(48歳)宅に出かけ行き、ピアノを借りて作曲するのだったが、何をすることもなく母マリア・アンナは惨めに部屋に残されていた。[書簡全集 IV] p.18
(4月5日)唯一の楽しみは食事だったかもしれないが、しかしそれも生きてゆくために腹を満たすというほどのもので、彼女には辛抱できない毎日だった。 パリではあらゆる物価が高く、モーツァルト一家が12年前に滞在していたときに比べて倍ほどになっていた。 そんななかでの居心地の悪さ、そのため母子は10日過ぎに引っ越すことにした。 次の住居となったのはグロ・シュネ街、クロワッサン街向かいのホテル「カトル・フィス・エモン」(Rue du gros chenet, vis à vis celle du croissant, l'hôtel des quatre fils aimont)であった。 「カトル・フィス」すなわち「4人息子」の名称について、モーツァルトは「数字の4を入れなくてはいけませんよ。看板もそうなんですから」と父に伝えている。 そこは通りに面していて、2部屋あり、しかも「月30リーヴル」すなわち12フローリンから「月1ルイ・ドール」すなわち11フローリンと安くなったのである。 しかし彼女は既に病におかされていた。 7月3日、彼女はここで最期の息を引き取ることになる。 それまでの間に、家女が郷里に宛てた愛情あふれる手紙は涙なしには読めない。
一日じゅう、ひとりっきりで部屋のなかに坐っていますが、まるで牢屋にでも入れられているみたいです。 おまけにとっても暗くて、小さな中庭に面しているだけなので、一日じゅうお日さまが見られませんし、お天気がどうなのかも分かりません。 わずかに差し込んでくる光で、やっとの思いでなにかちょっとしたものを編むことができるのです。 こんな部屋に私たちは月に30リーヴルも払わなくちゃいけないのです。
4月5日の故郷に宛てた手紙によれば、復活祭の前の週に、コンセール・スピリチュエルでミゼレーレを上演することになった。 そのため、支配人のルグロは(モーツァルトを介して?)マンハイム宮廷楽長ホルツバウアー(67歳)の「ミゼレーレ」を取り寄せた。 ところが、マンハイムのコーラスに比べて(モーツァルトの皮肉を含んだ言葉によれば)「強力で優秀なパリのコーラス」では合唱曲がまったく効果が上がらないということで、ルグロはモーツァルトに別の合唱曲の作曲を依頼した。 それに応じて、ホルツバウアーが書いた冒頭の合唱に続いて以下の8曲を作ったことが作曲者自身がこの4月5日の手紙に書いていて分かっている。
この急ぎの仕事を終えて、とてもうれしいと言えます。 なぜなら、家で書くことができないと、しかも時間に迫られていると、仕事は呪いのようなものですからね。 でも、いまはおかげさまで終わりました。 あとはその効果があがるよう祈るばかりです。しかし、すぐ5月1日には「仕事が徒労に終った」と書き送っている。 演奏は4月16日か17日に行われたと思われているが、モーツァルトが作曲した4つの合唱曲は2曲しか演奏されなかった。[書簡全集 IV] p.24
1778年5月1日、パリこの手紙に書かれていること、すなわちモーツァルト作曲の「8つの楽曲」があったこと、それは事実だったであろうし、作品の性格からして聖木曜日か聖金曜日(4月16日か17日)に演奏されたのだろう。 しかしド・ニは当時の新聞「メルキュール・ド・フランス」や「ジュルナル・ド・パリ」にいつも掲載されている音楽会案内がその両日にはなく、さらに4月5日から復活祭までのあいだのほかの音楽会のプログラムにもこの楽曲が見当たらないと言う。
ところで、コンセール・スピリテュエルのことをお話ししなくてはなりません。 ついでに手みじかに申し上げますが、ぼくの合唱曲は、言ってみれば、骨折り損でした。 ホルツバウアーの「ミゼレーレ」はともかく長くて、人気がありませんでした。 そのためぼくの合唱曲も4つでなく2つしかやれず、したがっていちばん良いのが抜かされました。 でもそれは大したことではありません。 その中にぼくのも加わっているのを知っていた人は多くありませんし、大抵の人はぼくのことなんか全然知らないのです。 もっとも、練習のときは大喝采でした。 ぼく自身−−パリで賞められるなんて当てにしてなかったので−−ぼくの合唱曲に大いに満足でした。[手紙(上)] p.147
とにかくこの曲の楽譜は紛失してしまった。 しかもホルツバウアーの「ミゼレーレ」そのものも見つかっていない。 マンハイムにおける2曲のキリエを聞き、また「ミゼレーレ」と似た内容の歌詞から、モーツァルトが霊感を得て作曲した悲愴感あふれる音楽が他にもあることを考えると、この曲が理由もわからずに紛失してしまったことは、悔やんでも悔やみきれない。 系統だって研究していけば、われわれの時代に再び発見されるかもしれないと期待するのみである。マンハイムにおけるキリエとは[ド・ニ] p.90
最大編成のオーケストラ(ザルツブルクにいるのではないからヴィオラが入る)を持ち、声楽部と器楽部に大規模な構想ときわめて微妙な仕上げを持つ、変ロ長調のキュリエ(K.332)のことであり、アインシュタインは次のように続けている。[アインシュタイン] p.461
この曲は『魔笛』(K.620)を思わせるが、それは荘重な調性のためばかりではない。 このミサ曲の残余の楽曲のうちでは、サンクトゥスかベネディクトゥスの冒頭だけが保存されている。 われわれはこのキュリエを知っているからこそ、イグナーツ・ホルツバウアーの或るミセレーレにつけ加えて作曲された8曲の紛失を特別に惜しむのである。 なぜなら、モーツァルトはホルツバウアーの非常に厳格な様式に合わせると同時に、それを凌駕しようと努力したにちがいないからである。そのうえで「この8曲が保存されていたとしたら、ホルツバウアーの全作品をその代りに捨てても惜しくない」と嘆いている。 この失われた楽曲は、ケッヘル初版で付録の第1番 Anh.1 に置かれたが、その成立時期からアインシュタインはケッヘル第3版で K.297a とした。
モーツァルトはルグロにただで利用されただけに終り、しかも作品は失われてしまった。 もとのホルツバウアーの「ミゼレーレ」も紛失。 そもそもルグロがモーツァルトに作曲依頼したのは、「田舎から都会に出て来た若造だから、ただで使える、使ってもらっただけでもありがたく思え」とでも考えたのだろう。 それに、自分の家でクラヴィーアを使わせ、食事もさせているんだから、このくらいの作業をしてもらって当然と思っていたかもしれない。 よく知られているように、ルグロは「協奏交響曲変ホ長調」(K.Anh.9 / K.29B)についても作曲を依頼しておきながら、紛失させたことで有名である。 幸いなことに、ルグロの依頼で書いたもう一つの作品、交響曲第31番ニ長調「パリ」(K.297 / 300a)は好評のうちに救われてはいる。 不世出の天才というより、人類の宝といっても過言でないモーツァルトをいとも簡単に使い捨てた興行師ルグロは大人物である。 ただしこれはルグロに限ったことではないが。
余談であるが、レオポルトには12年前に一家がパリ滞在したときの成功体験があまりに大きかったため、多少の困難があっても協力者のお陰でなんとか息子が定職にありつけると考えていたのだろう。 しかし、ザルツブルクのような地方都市ならいざ知らず、大都会パリはこの10年間で人も物も大きく変っていた。
5月1日パリ、モーツァルトからザルツブルクの父へこの手紙では屈辱的な扱いを受けたことを具体的に書いて父の理解を求めてもいる。 しかしレオポルトは「私はおまえにお金の援助はできない」と突き放し、一方で戦争状態にあるドイツの現状を説明し、「おまえとママが今だけでも暮らして行けたらいい」ので帰って来るなと説得するばかりであった。 フランス人がお世辞ばかりだということは経験から知っていると言うのだった。 そのうえで息子には「機嫌をよくし、境遇に順応しなさい」と命じた。 愛妻マリア・アンナの方も自分の病状を含め身近なことを伝えるかたわら
お父さんの手紙では、ぼくが知り合いを作り、旧交を新たにするために、せっせと訪問するようにとのことです。 でも、それは不可能なことです。 歩いてゆくには、どこも遠すぎるか、さもなければ泥んこ道です。 なにしろパリの道ときたら、お話にならないほどぬかるみです。 馬車で行けば、ありがたや、一日で4、5リーヴルはすぐに飛んでしまうし、しかも無駄使いに終わります。 みんなお世辞たらたらで、それでおしまいですからね。
(中略)
ここにいるひとでなければ、それがどんなに不愉快なことか、信じられないでしょう。 要するに、パリはすっかり変わってしまいました。 フランス人は、15年前のような礼儀など、とうの昔になくしてしまいました。 彼らはいまやまったく粗野に近く、しかも嫌らしいほど思い上がっています。[書簡全集 IV] p.48
5月14日と、昔の面影がなくなってしまった様子を説明したりしたが、レオポルトには通じなかった。 彼は命取りになりかねない瀉血をするように勧め、「おまえは自分の家にいるのじゃないことを考えなさい」とたしなめるばかりだった。 彼女は夫の勧めに従って瀉血治療を受け、外出すると疲れてしまうので部屋に閉じこもるようになる。 この多量の血を抜き取るという治療法は現代では考えられない無謀な療法であるが、当時は一般的なものだったという。 ただしレオポルトはこの療法の危険性を認識していたともいうので、やはり事態の深刻さを甘く考えていたのだろう。 彼女は5月には「部屋で火をたいても寒い」こと、6月には「腕と眼が痛む」ことを訴えている。 そして7月3日、寂しくこの世を去る。
ここパリでは、あの時からいろんなことが変わってしまいました。 大きな建物がどんどん建てられて、町が大きくなり、とても説明できません。 グリムさんがお住みのショセ・ダンタンはまったく新しい市の一画で、そっくりな綺麗な幅広の道路がついています。 でも私はまだあまりたくさん見物していません。 ただ新しい地図を持っていますが、これは私たちが持っている古いものとはかなり違います。
この間、母子ともに助けられたのはエーナ(François-Joseph Heina, 1729-90)夫妻だった。 エーナ(またはハイナ Franz Joseph Heina)はプラハ近郊で生まれ、1764年にパリに移住、ヴァルトホルン奏者としてコンティ公ブルボン宮廷楽団につとめ、妻ゲルトルートとともに楽器を販売するかたわら楽譜出版もしていた。 モーツァルトはザルツブルクの父に「ぼくはグリムよりもハイナにずっと多く世話になっています」と伝えている。 パリ滞在はマリア・アンナにとって心細い毎日であり、親切に面倒をみてくれたエーナ夫妻だけが心のより所であったろう。 マリア・アンナが息を引き取ったとき、その場にいたのはモーツァルト本人のほかはエーナと付添婦だけだった。
毎日音楽活動でてんてこ舞いの忙しさでパリ中を飛び回っていた青年モーツァルトではあるが、母と同じ屋根の下で過ごしていてこのような状況(母親が回復の見込みがないほどに衰弱してゆく様子)を見て何を感じていたのかわからない。 しかし彼は、父レオポルトに対してではなく、友人ブリンガーには7月3日に「この2週間、ぼくが堪え抜いてきたあらゆる不安や怖れや心配をどうか想像してほしい」と伝えている。 この不安あるいは怖れについて彼は父へ伝えてはいなかった。 父と姉に余計な心配をかけさせないようにとの配慮があったのか、それとも現実を文字にして父に報告することにためらいがあったのか。 母が死去した7月3日の父宛の手紙でも「お母さんが重体です」と書いているのである。 父の期待と落胆、失望の次にくるのは叱責、やがて自分に襲いかかるであろうこうした事態から逃れられるはずはないことは自覚していただろう。 マリア・アンナの葬儀はパリのサン・トゥスタシュ教会で行われ、遺体は教会付属の墓地に埋葬されたというが、その墓地は7年後に廃棄されたため、墓は残っていない。
〔参考文献〕
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