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フルートとハープのための協奏曲 ハ長調 K.299 (297c)
〔作曲〕 1778年4月 パリ |
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就職口を見つけるために母と二人でパリに来て、グリムがくれた紹介状を持って捜し歩いていた頃に、フルートの演奏が得意だったド・ギーヌ公爵とその令嬢のために作った曲。 パリに着いたのは3月23日であり、マンハイムから9日半もかけての長旅だった。 さっそく作曲活動が始まり、4月5日には母マリア・アンナがザルツブルクの夫レオポルトに宛てた手紙に
あの子はさる公爵のために、協奏曲を2曲、一曲はフラウト・トラヴェルソ用に、一曲はハープ用に作らなければなりません。と書いているのがこの曲のことと思われる。 それぞれの独奏楽器のために協奏曲を作るつもりが何らかの事情で一つになったのか、それとも最初から2つの独奏楽器のための協奏曲を一つ書くところを母が勘違いしていたのか、はっきりしたことはわからない。 この手紙の追伸では、モーツァルト自身が「ママが漠然と書いたことをもっとはっきり説明しなくてはなりません」と前置きしてコンセール・スピリチュエル用の曲について詳しい説明を父に伝えている。 そのほかいくつかの細かいことも伝えているが、この協奏曲については何も補足していない。 もしかしたらこの時点では独奏楽器の編成についてまだはっきりしてなかったのかもしれない。[書簡全集 IV] p.21
5月14日ただし彼女には作曲の才能はないことと、すぐに飽きてしまうのでどうしようもないとモーツァルト先生はお手上げだった。 しかし公爵が求めたのは「娘が作曲家になれるように教育することではなく、自分たちの楽器のための大ソナタを作曲してほしい」ということだった。 モーツァルトは何か勘違いしてたのだろうか。 彼女から作曲の才能を引き出そうとして宿題まで課して熱心に指導したことは逆効果であり、ド・ギーヌ父娘から嫌われたようである。 それだけでなく、ほかの弟子たちも離れていった。
公爵はたぐいないフルートの名手ですし、令嬢はハープを見事に弾きます。 彼女はとても才能に恵まれ、天分があって、ことに抜群の記憶力をもっているので、実際に200曲にのぼる彼女のレパートリーを全部、暗譜で弾くことができます。同書 pp.70-71
当地でいちばん腹立たしいのは、脳足りんのフランス人たちがぼくをいまだに7歳だと思っていることです。 7歳のときのぼくを彼らは見ているからです。 それはまったく本当のことです。 デピネー夫人が真顔でぼくにそう言ったのです。 だからここでは、ぼくは初心者として扱われています。そうした当時の「脳足りんのフランス人たち」の筆頭はコンセール・スピリチュエル支配人ル・グロであったが、ド・ギーヌ公爵もモーツァルトをコケにする点では負けていなかった。 彼はレッスン料を半分しか支払おうとしなかったばかりか、この協奏曲の代金についても踏み倒した可能性がある。 レッスン料については家政婦を介して半額に値切ろうとしたふしがあり、その侮辱的行為にプライドを傷つけられたモーツァルトはその場で受け取らず、しばらく時をおいてから改めて要求した。 ただし全額払ってもらえたのか、やはり半額(3ルイ・ドール)だったのか、それとも何も払ってもらえなかったのかわからない。 この協奏曲については9月11日の手紙でまだ支払われていないことがわかるが、その後は不明である。 このような不当な扱いに憤慨し、ロジャー・ヘルヤーは公爵をフル・ネームで名指ししたうえで次のように糾弾している。同書 p.196
彼は当時アルトワ地方の知事であった。 それより前、1769年からはフランスの外交官としてベルリンに滞在し、その後ロンドンにいたが、1776年2月に贈収賄と投機の疑いでフランスに呼び戻されている。 このような背景をもつ人物であれば、オーストリアから来た貧乏で無力な若い音楽家への債務をなんとも思わなかったことも驚くには当たらない。モーツァルトにとって好きでなかったフルートと、当時まだ不完全な楽器だったハープを使い、さらに素人演奏家のために易しく作ってはいるが、比類のない名曲。 しかも令嬢のレッスン料も屈辱的に少なかった(わずか3ルイドール)ことを考えると、奇跡的な名作。[全作品事典] p.198
自筆譜はポーランド、クラクフ、ヤギエロン図書館にあるが、作曲の日付はない。 また、ふたりのアマチュア独奏者のためにモーツァルト自身が作曲したカデンツァは残っていない。
余談であるが、7月3日には母が亡くなり、モーツァルトはパリで何の成果も得られないまま、負け犬となってザルツブルクに戻ることになるのだが、近年別の見方がなされている。
私の見るところでは、モーツァルトが就職できなかったのは、彼が就職に向かないとか、作曲の数が少ないとか、才能がないとかという問題ではなかった。 それは、モーツァルトが究極的に独立して生活することは認めないという父の個人的な方針に従ったまでのことである。すなわち5月には就職の見込みがあったからである。[ソロモン] p.239
ルードルフ(ヴァルトホルン奏者)が当地の王室に勤めていますが、ぼくのとても親しい友人です。 彼は完全に作曲を理解していて、すばらしい曲を書きます。 その彼がヴェルサイユのオルガン奏者の職を世話してくれて、ぼくに引き受けないかと言ってくれました。 それは年収2000リーヴルで、6か月はヴェルサイユで暮らさなくてはなりません。 あとの6か月は、パリや好きなところへ行けます。ところがモーツァルトはこの提案を受けるつもりがないことをすぐ書き続け、その年収が「たいした金額でない」ことを説明している。 これはどうしたことだろう? モーツァルトは父の反応を確かめるつもりがあったと思われる。 レオポルトはすぐさま「すぐに断ってはならない」と返事を送り、その定職によりどれほどの利益があるか綿綿と書いて息子を説得しようとした。 だがそれはモーツァルトにとって予想通りのことだったに違いない。[書簡全集 IV] p.72
しかし、これまで努力して職を求めてきたモーツァルトが、せっかくのポストを今になって断ってしまうには何か理由があるにちがいない。母を失った負い目があるし、モーツァルトは父のもとへ戻るしかないと悟っていたのだろう。 母の死を伝える有名な手紙(7月3日)がある。 モーツァルトはその長い手紙の終りの方でヴェルサイユのオルガン奏者の職の件に決着をつけたことを手短かに書き込むことを忘れなかった。 今回までは父に従うけれど、次回はきっと独立するぞと心を決めていた。 その強い意志をみずから確認するかのように、父の同意を得ずに突如9月26日にパリを離れることになる。 それからまっすぐザルツブルクに帰らず、手に負えない放蕩息子を演じる青年モーツァルトの姿が見られる。 それは父親に対する反抗とゆうより、一人の若者が自立してゆくための精一杯の行動だった。
(中略)
最近の分析から私の思うところでは、この職を受けてしまえば、それに伴って一連の回避できないできごとが続発してくるだろうというのがその理由ではなかろうか。 つまり、モーツァルトがここに就職すればレオポルトはザルツブルクの職を辞し、モーツァルト家はヴェルサイユに引越してくることになり、モーツァルトは将来どこまでも家族を背負っていくことになるだろう。[ソロモン] p.239
〔演奏〕
CD [Universal Classics 463 648-2] t=28'34 ツェラー Karlheinz Zoeller (fl), ザバレタ Nicanor Zabaleta (hp), メルツェンドルファー指揮 Ernst Maerzendorfer (cond), ベルリン・フィル Berliner Sphilharmoniker 1963年 ※カデンツァはライネッケ Carl Reinecke |
CD [CLASSIC CC-1099] t=29'33 シュルツ Wolfgang Schulz (fl), ザバレタ Nicanor Zabaleta (hp), ベーム指揮 Karl Böhm (cond), ウィーン・フィル Wiener Philharmoniker 1975年 |
CD [BMG VICTOR BVCC-8825/26] t=28'31 ゴールウェイ James Galway (fl), ロブレス Marisa Robles (hp), マータ指揮 Eduardo Mata (cond), ロンドン交響楽団 London Symphony Orchestra 1978年、ロンドン |
CD [POCL-5243] t=28'48 ベズノシューク Lisa Besnosiuk (fl), ケリー Francis Kelly (hp), ホグウッド指揮 Christopher Hogwood (cond), Academy of Ancient Music 1986年 ※フルートはグレンザー(Heinrich Grenser, 1764-1813)が1790年頃に製作したものの複製(Roderick Cameron, 1986)で、象牙、6鍵。ハープは1800年頃のオリジナル(製作者不明)で、現代のより小さく軽く、澄んだ音色。 |
CD [ビクター R25E-1003] t=29'33 ランパル Jean-Pierre Rampal (fl), ノールマン Marielle Nordmann (hp), ランパル指揮イギリス室内管弦楽団 English Camber Orchestra 1987年 |
CD [PHILIPS 422 509-2] t=27'20 グラフェナウアー Irena Grafenauer (fl), グラーフ Maria Graf (hp), マリナー指揮 Sir Neville Marriner (cond), Academy of St Martin in the Fields 1988年1月、ロンドン ※カデンツァはライネッケ Carl Reinecke |
CD [RVC R30E-1025-8] t=29'51 ランパル (fl), ラスキーヌ (hp), パイヤールCO |
CD [シャルプラッテン TKCC-30605] t=28'11 ワルター (fl), ツォフ (hp), スウィトナー指揮シュターツカペレ・ドレスデン |
CD [UCCG-8040] t=29'36 スミス Kenneth Smith (fl), ルイス Bryn Lewis (hp), シノーポリ指揮 Giuseppe Sinopoli (cond), フィルハーモニア管 Philharmonia Orchestra 1991年12月、ロンドン、オール・セインツ教会 |
CD [BMG VICTOR BVCC-643] t=29'48 ゴールウェイ James Galway (fl), ロブレス Marisa Robles (hp), ティルソン・トーマス指揮 Michael Tilson Thomas (cond), ロンドン交響楽団 London Symphony Orchestra 1992年9月、ロンドン |
CD [ERATO WPCS-11107] t=26'19 ハーツェルツェット Wilbert Hazelzet (fl), クワスト Saskia Kwast (hp), コープマン指揮 Ton Koopman (cond), アムステルダム・バロック管 The Amsterdam Baroque Orchestra 1993年5月、ハールレム、ドープスヘジンデ(メノー派)教会 ※ オリジナル楽器使用 |
〔動画〕
〔参考文献〕
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