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オーボエ協奏曲 ヘ長調 K.293 (416f)〔編成〕 ob, 2 cl, 2 fg, 2 hr, 2 vn, 2 va, bs〔作曲〕 1778年11月? マンハイム |
未完、70小節。 Allegro 4分の4拍子。 成立は不明。 オットー・ヤーンは1776か77年にザルツブルク宮廷楽団のオーボエ奏者ジュセッペ・フェルレンディスのために作曲と推測した。 それを受けて、ケッヘル初版で K.293 と位置づけられ、「フェルレンディス協奏曲」と考えられていた。 その後、アインシュタインは1783年2月15日の手紙(ウィーンのモーツァルトからザルツブルクの父へ)
ラムのためというより、フェルレンディスのために書いたオーボエ協奏曲の入っている小さなノート、すぐにぼく宛に送ってください。 エステルハージー侯のオーボエ奏者が、それで3ドゥカーテンをくれることになりました。 そして、もし新曲を1曲書けば、6ドゥカーテンをくれるそうです。から、1783年1月にアロイジア・ランゲ夫人のために書いたロンド「わが憧れの希望よ。ああ、あなたはいかなる苦しみか知らない」(K.416)のあとに位置づけ、ケッヘル第3版において K.416f とした。[書簡全集 V] p.341
このオーボエ奏者はおそらく、フランツ・ヨーゼフ・チェルヴェンカという名のすぐれた管楽器奏者であったろう。 オーボエ・コンチェルトのはじめの部分が2つ保存されているが、これらは疑いもなくこの動機を示すものである。 両方ともヘ長調で、1つは比較的短く(K.416g)、1つは比較的長くて61小節まである(K.293)。 前者はトゥッティのあとでのオーボエの出る個所の変形であることが判明している。 これが完成されないで6ドゥカーテンにならなかった理由は、われわれにはわからない。 トゥッティが活力と生気に満ちているだけに、未完に終ったのは残念なことである。そして、ケッヘル第6版でもこの説が支持され、「フェルレンディス協奏曲」は別もの(K.271k)であり、消失したとされた。 しかし最近は、自筆譜の研究から、この曲は1778年11月頃の作とする説が出て、はっきりしていない。 また、エステルハージー侯のオーボエ奏者についても、チェルヴェンカ(Franz Joseph Czerwenka)ではなく、アントン・マイヤー(Anton Mayer)であるという。[アインシュタイン] p.386
〔演奏〕
CD [キング KICC-7274] t=9'50 ゴリツキ Ingo Goritzki (ob), ライスキ指揮 Wojciech Rajski (cond), ポーランド室内管弦楽団 Polish Chamber Philharmonic 1992年4月、グダニスク |
〔動画〕
オーボエ協奏曲「フェルレンディス」 K.271k〔編成〕 ob, 2 fl, 2 hr, 2 vn, va, bs〔作曲〕 1777年夏 ザルツブルク |
ザルツブルク宮廷楽団のオーボエ奏者ジュゼッペ・フェルレンディスのために。 よく知られているように、モーツァルトは母と二人で、1777年9月28日、パリに向かって旅立った。 そのときこの曲を持って旅に出たのだろう。 そしてマンハイム滞在中にオーボエ奏者ラムにこの曲をプレゼントしてしまったのかもしれない。 1778年2月15日の父への手紙に
それからラムさんが(代わって)フェルレンディスのために書いたぼくのオーボエ協奏曲の5度目の演奏をしましたが、これは当地でたいへんな評判となっています。 いまや、これはラムさんのおはこです。とあることから、この曲の存在が知られており、また作曲された時期は旅に出る前、すなわち1777年の夏頃と推測されている。 しかしこのあと楽譜は行方不明。 のちにウィーンに出たモーツァルトは、1783年2月15日の父への手紙にも[書簡全集 III] p.526
ラムのためというより、フェルレンディスのために書いたオーボエ協奏曲の入っている小さなノート、すぐにぼく宛に送ってください。と書いてあるので、これほどの作品(間違いなく作曲されたこと、また、評判が高かったこと)が見つからないのは非常に惜しい。 このとき(ザルツブルクを離れウィーンに移住していた)当のフェルレンディスがモーツァルトにこの曲を改めて求めたのかもしれない。 それで、モーツァルトはザルツブルクの父にノートを送ってもらい、曲を復元しようとしたのかもしれない。 ケッヘル第6版以降は、この曲は消失したものとされている。 ほかに、フルート協奏曲 K.314 の原曲の「オーボエ協奏曲」がこれであるとする説もある。[書簡全集 V] p.341
フェルレンディス(Giuseppe Ferlendis, 1755-1802?)またはフェルレンディ(Ferlendi)はイタリアのロンバルディア地方の都市ベルガモ生まれ。 1775年から78年7月までザルツブルク宮廷楽団員で、オーボエ奏者を勤めていた。 7月30日に突然辞職したことがレオポルトがブリクセン司教シュパウル伯爵に宛てた手紙に書かれてある。
1778年7月31日余談であるが、1776年11月17日ザルツブルクでシュパウル伯爵(Ignaz Joseph Graf Spaur, 1727-79)の叙任式が行われ、そのためにモーツァルトはミサ曲(K.258、K.257、K.262のいずれか)を書いている。
オーボエ奏者のフェルレンディスが昨日、思いがけなくも辞職し、ヴィーンに行くことになりましたので、現在、主席オーボエ奏者がおりません。 アードルガッサーは亡くなりました。 私たちには優秀なオルガン奏者がおりません。 ベルクマンは聖ペテロ大修道院の上席書記となっております。 そのため、私たちには優秀なヴァルトホルン奏者もおりません。 それにフェッラーリも去ります。 そのためチェロ奏者もいなくなります。[書簡全集 IV] p.203
〔参考文献〕
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