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9つのピアノ変奏曲 ハ長調 K.264 (315d)〔作曲〕 1778年~1786年? パリかザルツブルクかウィーン? |
ドゥゼードの音楽劇『ジュリー Julie』の「眠れるリゾン Lison dormait.」を主題にしたこの変奏曲が書かれた動機や時期については不明である。 「12のピアノ変奏曲ハ長調」(K.265)とともに最初1776年の成立として、K.264に位置づけられていたが、その後の研究によりモーツァルトがパリ滞在していた1778年の夏か、またはザルツブルクに帰郷した直後に書かれたものと見直され、4つのパリ変奏曲(K.353、K.354、K.265、K.264)の最後K.315dに位置づけられていた。 しかし、さらにその後、これらの変奏曲の成立について大幅に見直されている。 この作品(K.264)については成立時期は不明であるとして、ウィーンのアルタリアから1786年に出版されていることから、その前の成立とするだけの考えもある。
よく知られているように、モーツァルトは1781年5月からウィーンで自立するようになるが、その生活を支える収入源はまずピアノ教師になることだった。
父への手紙(1781年6月16日)したがってモーツァルトはピアノの弟子のための作品を多く必要としていたのである。
いまさしあたって、ぼくにはひとりの弟子しかいません。 それはルムベーケ伯爵夫人で、コーベンツルの従妹です。 ぼくはもしレッスン代を下げようと思えば、もちろんもっと弟子を取ることができるでしょう。 でも、そんなことをするとたちまち信用を失ってしまいますよ。 ぼくのレッスン代は12回のレッスンに対して6ドゥカーテンです。 そしてそれも好意でやっていることを、彼らにやはり分かってもらいたいのです。 ぼくは払いの悪い6人の弟子を取るよりも、払いのよい3人の弟子をみるほうがましです。 このたったひとりの弟子でもぼくはやりくりできますし、いまのところそれで充分です。[書簡全集 V] p.81
(1781年6月20日)ドゥゼードの『ジュリー Julie』のドイツ語訳が1779年にウィーンのブルク劇場で上演されたことがあるというので、この変奏曲が1781年6月以降に書かれたとしても不思議ではない。 高度な演奏技法を必要とするので、モーツァルト自身による演奏会用に作曲された可能性もある。 中間の第5変奏はハ短調。
いまとても忙しいものですから。 というのは、ぼくの弟子のために変奏曲を仕上げなくてはならないので。
(1781年7月4日)
それから、3つの歌を主題にした変奏曲を書きました。
余談であるが、1789年3月10日、モーツァルトの弟子の一人であったフンメルはドレスデンでの演奏会で、この曲を演奏したといわれている。
〔演奏〕
CD [EMI TOCE-11557] t=14'34 ギーゼキング (p) 1953年 |
CD [PHILIPS PHCP-3675] t=15'37 ヘブラー (p) 1975年 |
CD [SYMPHONIA SY-91703] t=17'37 アルヴィーニ (fp) 1990年 |
CD [TOCE-7514-16] t=16'05 バレンボイム (p) 1991年 |
〔動画〕
Nicolas-Alexandre Dezède1740 - 1792 |
ニコラ・アレクサンドル・ドゥゼードの生年はよくわからない。
パリで活躍した作曲家で、コミック・オペラ『ジュリー Julie』1772年、『三農民 Les Trois Fermiers』1777年、『ブレーズとバベ Blaise et Babet』1783年、『アレクシスとジュスティーヌ Alexis et Justine』1785年などが知られている。
パリで1792年9月11日に没。
〔参考文献〕
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