ザルツブルクの人々2 |
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Johann Ernst Eberlin1702 - 1762 |
シュヴァーベン地方イェティンゲン出身。1724年にザルツブルク移住。 1729年、グーグル(Matthaeus Gugl)の後任としてザルツブルク大聖堂のオルガン奏者となる。 1762年6月21日に没するまでザルツブルク宮廷楽長を勤めた。 レオポルトの音楽の師とも言われる。
Giuseppe Francesco Lolli1701 - 1778 |
エーベルリンの死去に伴い、1763年2月28日に副楽長だったロリが昇任した。
そのときモーツァルトの父レオポルトが副楽長に就任した。
1778年8月にロッリが死去したあとルイージ・ガッティ(Luigi Gatti, 1740-1817)が楽長になるが、ただし就任したのは1783年2月14日と遅かった。
Anton Cajetan Adlgasser1729 - 1777 |
1729年10月1日インツェルで生まれた。 エーベルリンの弟子。ザルツブルクのオルガニストで作曲家。 生涯に3回も結婚した。
1766-67年、ザルツブルク大司教ジギスムントの依頼でオラトリオ「第一戒律の責務」K.35の第3部を作曲。
このとき、マリア・アンナ・フェーゼマイヤーが歌っている。
1777年12月22日、オルガンの演奏中に急逝したという。48歳。
レコード化された曲
Johann Andreas Schachtner1731 - 1795 |
モーツァルト家と親しかった。 1792年、ナンネルの求めに応じてモーツァルトの子供時代の回想録を書いた。 そのなかに書かれている有名なエピソードがある。 モーツァルトが7才のときのことであった。
私が非常に良いヴァイオリンを持っていたのを覚えていらっしゃると思います。 やわらかくて厚みのある音を持っていたので亡くなったヴォルフガンゲルルはいつもバター・ヴァイオリンと呼んでいました。 ある時、あなた方がヴィーンから帰って来られた直後彼はそのヴァイオリンを弾いたのですが、今度はあまりほめられない風でした。 一両日後私は又彼を訪問しました。 ちょうど彼自身のヴァイオリンで楽しんでいる所でした。 彼はすぐにこう言いました。 「あなたのバター・ヴァイオリンはどうかしたの。」 そして又思いのままに弾き続けました。 そして又ちょっと考えてこう言いました。 「シャハトナーさん。 あなたのヴァイオリンは僕のより八分の一音低いですよ。 僕がそれをこの前弾いた時の通りの音になっていればですけど。」 私は笑っていました。 しかしその子供の並はずれた音感覚と記憶力をよく知っていた父上は私に私のヴァイオリンを持って来るよう頼みました。 彼の言うことが正しいかどうか見たいということでした。 私はそうしました。 正にその通りでした。[ドイッチュ&アイブル] p.255
ザルツブルクのトランペット奏者カスパル・ケストラーに師事。 1754年、ザルツブルク宮廷楽団のトランペット奏者になり、のちに「娯楽局長」に任命された。 ヴァイオリンとチェロも弾け、文筆家でもあった。
Abbate Giambattista Varesco1735 - 1805 |
ジャンバティスタ・ヴァレスコ神父。次のオペラの台本を書いた、ザルツブルク在住のイタリア人神父。
Antonio Brunetti1744頃 - 1786 |
ザルツブルク宮廷楽団のヴァイオリン奏者。
1786年、レオポルトは娘ナンネルへの手紙で次のように伝えている。
Giusepe Tomaselli1758 - 1836 |
ロベレートに生まれ、1781年から1807年までザルツブルク宮廷楽団のテノール歌手。
モーツァルト一家と親しく交際していた。
その後ウィーン宮廷礼拝堂の歌手として活躍し、さらに1833年にヴュルツブルクに移り住み、生涯を閉じた。
■参考文献