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K.299b (Anh.10) バレー音楽 「レ・プティ・リアン」

    序曲 Overture : Allegro ※
  1. Largo ハ長調
  2. ガヴォット Gavotte
  3. Andantino ※
  4. Allegro ※
  5. Larghetto ※
  6. Allegro ※
  7. ふざけたガヴォット Gavotte joyeuse : Allegro
  8. 指定なし Allegro
  9. 優雅なガヴォット Gavotte gracieuse ※
  10. パントマイム Pantomime ※
  11. パスピエ Passepied
  12. ガヴォット Gavotte ※
  13. Andante
〔編成〕 2 fl, 2 ob, 2 cl, 2 fg, 2 hr, 2 tp, timp, 2 vn, 2 va, vc, bs
〔作曲〕 1778年5〜6月 パリ
1778年5月




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1778年3月23日から1779年1月の帰郷までのパリ滞在は、モーツァルトの生涯の最低期の一つだった、とアインシュタインは言っている。 冷静に状況判断していた父レオポルトはそのことをよく知っていたが、若いモーツァルトにそれを理解せよと言っても無駄だった。 異郷の地で最愛の母を失い、父と姉が残るザルツブルクに戻るしか道がなくなり、

あなたがた二人に再会する楽しみのためでなければ、もうがまんのできないパリを去る決心もできなかったでしょう。
[書簡全集 IV] p.274
と書いている手紙(1778年9月11日)でも、「あと2、3年ここに踏み留まる決心がつけば、ぼくの立場もきっと非常によくなることは疑いないところです」と希望を捨てていなかったし、音楽が尊重されないザルツブルクに戻りたくない理由をはっきり父に訴えていた。
ぼくは断言しますが、旅をしないひとは(少なくとも芸術や学問にたずさわるひとたいでは)まったく哀れな人間です! ・・・・ 凡庸な才能の人間は、旅をしようとしまいと、常に凡庸なままです。 ・・・・ もし大司教がぼくを信頼してくれたら、ぼくはたちまち彼の楽団を有名にしてみせましょう。 今度の旅はぼくにとって無駄でなかったと誓って言えます。 もちろん作曲の点でね。 それから、クラヴィーアについては、できるだけうまく弾きます。 ぼくはもうヴァイオリン弾きはごめんです。 クラヴィーアを弾きながら指揮をし、アリアの伴奏をしたいのです。
同書 p.274
しかし現実は甘いものではなく、世界の中心でそれなりの地位に就いている人間が、ヨーロッパの田舎町から飛び込んできた若者に喜んで自分の縄張りの一部を分け与えるはずがない。
モーツァルトはこの大都会の陰謀と、保護をふりまわす連中の中に、完全に溺れ込んでいた。 そしてはじめから、有力者たちといわゆる《友人》たちのくいものだった。
[アインシュタイン] p.74
それでもまったく職の口が見つからなかったわけでもないようである。 母の死を「重体」と偽って父のショックを和らげるつもりの手紙(1778年7月3日)では
お金は少ないし、ほかに稼ぎようのない所に六か月もあくびをかみ殺して、あたら才能を埋もらせなくてはなりません。 王に仕える者なんて、パリでは忘れ去られてしまいますからね。 しかもオルガニストですよ! いい職ならば大いに歓迎ですが、楽長でなくてはごめんですし、いい給料でなくてはね。
[書簡全集 IV] p.135
と書いていた。 そして、パリ・オペラ座のノヴェール(Jean Georges Noverre, 1727-1810)からバレエ音楽の依頼があった。 彼はバレエの改革者として広く知られていた。 このバレエ音楽は1767年にウィーンでアスプルマイヤーの作曲で初演されていたが、ノヴェールがパリで再演するにあたってモーツァルトに新たに作曲を依頼したのである。
1778年7月9日、パリからザルツブルクの父へ
ノヴェールはちょうどバレエの半分をほしがっていたので、ぼくがその音楽を書きました。 つまり6曲は他の作曲家によって書かれたもので、それは古くさい、みじめなフランスの歌からできています。 序曲とコントルダンス全12曲は、ぼくが書きました。 このバレエはもう4回も上演されて、大好評を博しました。 しかし、ぼくは今では、あらかじめ謝礼がどのくらいかわからないときは、絶対に何も書かないつもりです。 今回のは、まったくノヴェールへの友情の結果にほかなりません。
[書簡全集 IV] p.147
しかし実際のところはアインシュタインの言葉
大オペラ劇場の監督(ド・ヴィーム)に影響力を持つと自称した有名なバレー理論家ノヴェルによって、オペラの作曲を依頼されるという希望に欺かれて、ノヴェルのためにバレー音楽『レ・プティ・リアン』、大曲をも含む13曲のオーケストラ用作品を書いた。 またしても無報酬で。 これは6回上演されたが、劇場のビラも新聞もモーツァルトの名さえ挙げていない。
[アインシュタイン] pp.74-75
の通りであろう。 ド・ヴィーム(Anne Pierre Jacques de Vismes)とは王室音楽アカデミーすなわちオペラ座の監督で、モーツァルトは「その地位をノヴェールのおかげで得ている」と言っていた。 そのような影響力を持つノヴェールの提案だから、2幕もののオペラを書く機会がもうすぐあるだろうとモーツァルトは信じていたようである。 しかし現実は、パリでモーツァルトの世話を焼いてくれたグリムがレオポルトに宛てて書いた次の文章がすべてを物語っている。
1778年7月27日
彼は人が好すぎます。 積極的な所が少なく、だまされ易く、成功の可能性ある手段を知らなさすぎます。 ここでは何かをやり遂げるには要領よく、行動的で、大胆でなくてはなりません。 私は彼の運命のためには半分の才能で良いからその代り倍の器用さが欲しいです。
[ドイッチュ&アイブル] p.144
そのうえで、グリムは次のように続けて、モーツアルトが八方塞がりでいることを率直に伝えている。
ここで彼が身を立てるには二つの道しかありません。 一つはクラヴィーアの教授をすることです。 弟子を得るためには非常に忙しく、まるで山師のようであらねばならないことは別にしても、私は彼がこの仕事をやって行けるだけ充分に健康であるかどうか分かりません。 というのは、パリの中を一つが終ると又次へと、次々に場所を換えて行くのは非常に疲れることだからです。 それにこれは恐らく彼には気に入らない仕事でしょう。
もう一つの道、すなわち「モーツァルトが何よりも愛している作曲の仕事」については
作曲にすっかり身を捧げることはできましょう。 しかし当地では殆んどの人は音楽を全く理解しません。 それで何でも有名な名前で評価します。 大衆は目下の所おかしなことにピッチーニ派とグルック派に分かれています。 この二派の間で成功を克ち取ることは息子さんにとって非常に困難です。
と明言した。 レオポルトは我が意を得たりと、グリムのこの助言をそっくりそのまま息子に手紙(8月13日)に書いて、もっと賢く生きることを願ったが、若いモーツァルトは、パリで頼りにしていたグリムが役立たず、期待した援助が得られないと考え、両者の間に不和が生じることになった。

全部で21曲のバレエ音楽のうちモーツァルトは一部だけを新たに作曲し、ケッヘルはそれを13曲あげていた。 しかし新全集では真作としては8曲(上記※印)しか載せていない。 後のオペラ『魔笛』の旋律がすでに現われている。

初演はパリ・オペラ座で6月11日に行われたが、もちろんそれはピッチーニのオペラ『偽りの双子の娘 Le finte gemelle』の幕間に上演されたものである。 それから7月までに6回上演されたようである。 そして、こともあろうにノヴェールの作品として出版されたが、長いあいだ忘れ去れていた。 それが、ヴィルデール(Victor Wilder)によって1872年パリ・オペラ座の古文書から写譜が発見された。

台本が紛失しているので詳しい内容は分からないが、当時のバレエ音楽の典型であるアルカディア風のパストラーレ。 当時の新聞は3つのエピソードから成っていると報じていた。

この作品は、挿話的で、ほとんど一つ一つがおたがいに別々の、三つの情景から成っている。 第一景はまったくアナクレオン風である。 つまり、キューピッドが網にかかり、檻に入れられるというもの。 ・・・・ 第二景はコラン・マイヤールの劇であった。 ・・・・ 第三景はキューピッドのいたずらで、彼は二人の羊飼い娘に、羊飼いに扮したもう一人の羊飼い娘を紹介する。 ・・・・ 二人の羊飼い娘は偽の羊飼いに恋をしてしまうが、誤りに気づかせようと、偽の羊飼いは彼女たちに自分の胸を見せてしまう。 ・・・・
[書簡全集 IV] p.152
これは初演の翌日(12日)の記事であるが、作曲者については何も書かれていなかった。 すなわちモーツァルトはタダで利用されただけだった。 ノヴェールはひどいやつだというよりも、当時のパリにおいてモーツァルトとはその程度の存在でしかなかったということであろう。 グリムが言ったように、音楽の才能よりも、自分の名前を売り込む要領のよさがなかったためである。

ノヴェール(Jean Georges Noverre, 1727-1810)はフランスの有名な舞踏家であるが、その前には1767年からウィーン宮廷の花形舞踏家として活躍していた。 そしてモーツァルトは1773年のウィーン訪問のときに知り合っていた。 ノヴェールは1776年頃にフランスに戻り、マリー・アントワネットの庇護を受けて、パリのオペラ座の主席舞踏家となった。 モーツァルトは1778年にパリで彼と再会し、バレエ音楽『レ・プティ・リアン』(ささいなこと)の作曲をする機会を得ることになった。 余談であるが、モーツァルトは1777年1月、ノヴェールの娘で優れたピアニストのジュナミ夫人ヴィクトワール(Victoire Jenamy)のためにピアノ協奏曲を書いている。 それが通称「ジュノーム」で知られていた曲(K.271)である。

〔演奏〕
CD [ポリドール LONDON POCL-2111] t=20'02
ミュンヒンガー指揮 Karl Münchinger (cond), シュトゥットガルト室内管弦楽団 Stuttgart Chamber Orchestra
1956年
CD [KICC 6039-46] t=20'40
ボスコフスキー指揮 Willi Boskovsky (cond), ウィーン・モーツァルト合奏団 Vienna Mozart Ensemble
1966年
CD [UCCP-4061/70] t=19'43
マリナー指揮アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ
1789年12月
CD [Canyon PCCL-00116] t=17'53
グラヴァー指揮 Jane Glover (cond), ロンドン・モーツァルト・プレイヤーズ London Mozart Players
1991年1月、東京練馬 IMAホール
CD [CAMPANELIA Musica C 130076] (6) t=0'56
ズュス Margit Anna Süss (hp), シュトル Klaus Stoll (cb)
1998年

 


バレエ・インテルメッツォのためのスケッチ K.299c

〔作曲〕1778年春か夏 パリ

『レ・プティ・リアン』のあと、ノヴェールのために別のバレエ音楽を書くつもりだったらしく、その14曲のスケッチがパリとベルリンの図書館に残されているという。

〔演奏〕
CD [UCCP-4061/70] t=21'43
マリナー指揮アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ
1789年12月
※エリック・スミス補完・編曲

 


狩 K.299d (Anh.103)

〔編成〕 2 fl, 2 ob, 2 fg, 2 hr, 2 vn, va, vc, bs
〔作曲〕1778年 パリ

タイトル『狩 La Chasse』と書かれた自筆譜には日付がない。 作曲については第6版で「1778年夏か秋、ザルツブルク」とされていたが、その紙が1778年にパリで使用されていたことがタイソンによって明らかにされた。 前半(16小節、イ長調)と後半(イ短調、断片)から成る。

アインシュタインは「ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのための協奏交響曲」(K.Anh.104 / 320e)の終楽章と考えたが、現在はバレエ音楽『レ・プティ・リアン』または『バレエ・インテルメッツォのためのスケッチ』(K.299c)の一部をなすものと推定されている。

〔演奏〕
CD [KICC 6039-46] t=1'46
ボスコフスキー指揮 Willi Boskovsky (cond), ウィーン・モーツァルト合奏団 Vienna Mozart Ensemble
1966年
エリック・スミス補作

 


ガヴォット 変ロ長調 K.300

〔編成〕 2 fl, 2 ob, 2 fg, 2 hr, 2 vn, va, vc, bs
〔作曲〕1778年5月か6月 パリ

この種の作品は単独に作られることがなかったので、自筆譜の書き込みから、バレエ音楽『レ・プティ・リアン』に挿入するつもりだったと見られている。 ただしその書き込みはモーツァルト本人のものではなく、ウィーンの出版業者アンドレによるものかもしれず、また現在その自筆譜は消失しているので、確定的なことは何も分からない。

〔演奏〕
CD [KICC 6039-46] t=2'10
ボスコフスキー指揮 Willi Boskovsky (cond), ウィーン・モーツァルト合奏団 Vienna Mozart Ensemble
1965年


〔参考文献〕

 

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2011/11/06
Mozart con grazia