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フルート協奏曲 第1番 ト長調 K.313 (K6.285c)
〔作曲〕 1778年1月か2月 マンハイム? |
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1777年9月23日、モーツァルトは母と二人で就職活動のためパリに向かってザルツブルクを出発し、途中10月30日、マンハイムに到着。 そこに4ヶ月半滞在したが、父から離れて自由な空気を思いっ切り味わっていた。 その地では選帝侯カール・テオドールが文化活動を奨励し、ドイツにおける文化全般の中心地を作り上げていた。 モーツァルトはマンハイム楽派の音楽に接し、歌手のアントン・ラーフ(63歳)、フルート奏者ヨハン・バプティスト・ヴェンドリング(54歳)、オーボエ奏者フリードリヒ・ラム(33歳)などと親しくなり、さらにまたアロイジア・ウェーバー(17歳)に恋するようになった。 モーツァルトはその地で仕事にありつけることを願っていたが、夢がかなわず翌年3月、父に急かされるようにして、母(57歳)と遠くパリへと旅立つことになる。 この曲はそんな中から生まれたものであり、作曲のいきさつが以下のように知られている。 長くなるが、モーツァルトと父レオポルトとの間で取り交された手紙をもとに辿っていきたい。
1777年12月10日、母マリア・アンナは故郷ザルツブルクに残る夫レオポルトに「でも、どうしたらよいのでしょう。パリまでのとても長い道のりを旅するなんて、私の年では辛いことです」と寂しい心境を伝えているが、その手紙の中で、モーツァルトはヴェンドリングから「例のオランダ人(ドゥジャン、46歳)にフルートのための3つの短い協奏曲と、2つの四重奏曲を書けば、200フローリンもらえる」ともちかけられていることを父に伝えた。
ドゥジャン(Ferdinand Nikolaus Dionisius Dejean)はボンに生まれ、東インド会社に長く勤めた。 また医師でもあった。 裕福でヨーロッパ各地を気ままに旅行し、ちょうどこの頃マンハイムに滞在していた。 音楽愛好家で、フルートが上手だったらしい。 彼の依頼で、モーツァルトは2つのフルート協奏曲(K.313, K.314)と、3つのフルート四重奏曲(K.285, K.285a, K.285b)を書くことになる。 1777年12月18日の手紙では「本物の博愛家であるインド人ことオランダ人のための四重奏曲を1曲もうじき仕上げます」とあり、フルート四重奏曲ニ長調 K.285 が最初に作られた。 しかし、これらの5曲についてドゥジャンが支払ったのは半分以下の 96フローリンだった。 フルート協奏曲を3曲完成できず、しかも2曲目のフルート協奏曲は「オーボエ協奏曲 K.314」からの編曲だったというのが約束の 200フローリンをもらえなかった理由であった。
短時間のうちに作品を仕上げるのはモーツァルトにとって何ともないことであったはずだが、このように約束をはたせなかったことについて、モーツァルト自身は「自分が今いるところは作曲できる環境ではないことと、フルートという『我慢できない楽器』のための作曲には気が乗らないからだ」と父に説明している。 それにもかかわらず洗練された名曲が生まれたことで、注文主に(たとえその価値が理解できなかったにしても)感謝したいほどである。 それはドゥジャンやヴェンドリングの腕前が良かったせいか、それともアロイジアへの恋心の反映か。 もしかしたら故郷ザルツブルクから送られて来る父の忠告や命令をかわし、当地に長居するための口実作りのために、まず「200フローリン」という数字で父を安心させ、しかしいろいろな事情があって(そのなかにはフルートを自分にとって『我慢できない楽器』と、本音とは思えない言葉まで口にして)仕事がはかどらないと見せかけていたのかもしれない。 ただし、そのあたりは父に完全に見破られていたようである。 「おまえにはとことんまで書かなければならない」と、その200フローリンの使い方にまで細かく計算して説教し、母の孤独をかえりみず遊び呆けていることを強い口調で責めている。 それに対してモーツァルトは「ママがぼくと別れて住むなんて、考えてもいませんでした」と詫び、同じ宿にするために「数グルテン多かろうと少なかろうと問題ではありません」と父の指示に従いつつも、なかなか重い腰をあげようとしなかった。 父は当初の計画通りに早くパリへ行くよう命令してはいたが、それで勝算あるとは思っていなかったに違いない。 反抗期の息子に一度世間の厳しさを体験させて、帰ってくることを望んでいたのだろう。 一方の息子はその地に勝算ありと感じていたようで、であればわざわざパリまで行くことはないと考えていたかもしれない。 母マリア・アンナは12月28日の手紙で次のように伝えている。
ヴォルフガングはどこどでもとても尊敬されています。 あの子はでも、ザルツブルクとはたいへん違った弾き方をします。 だって、当地では、どこにでもピアノ・フォルテがあるんですもの。 それにこうしたピアノ・フォルテを、あの子はまったくほかに比べようもないほどの扱いぶりをしていて、これはだれも今まで聴いたことがないほどです。このときレオポルトは妻だけを帰郷させ、息子はそのまま放っておけば良かった、すなわち父が子離れをすれば良かったのかもしれない。 よく知られているように、このあとマリア・アンナはパリで客死することになる。 結果的にはレオポルトは息子ひとりのために娘の一生を、そして愛妻の命までも犠牲にしてしまったと言っても過言ではないだろう。[書簡全集 III] p.389
ドゥジャンについて、モーツァルトは De Jean あるいは Dechamps と書いていて、その人物はオランダ人で音楽愛好家のデジョン Willem van Dejon であると考えられていたこともある。 しかし現在は上記の Ferdinand Nikolaus Dionisius Dejean であるとされている。 さらに Dejean はのちにウィーンへ移住し、そこでもまたモーツァルトとの交流があったというが、上記のようないきさつがあったことからすれば、どんな再会をしたのか興味深いところであるが、必ずしもドゥジャンに非があるとも思えないので、気まずい状態ではなかったであろう。
第2番が編曲版であることを考えると、この曲はモーツァルトの唯一のオリジナルの「フルート協奏曲」となる。 しかも『我慢できない楽器』のための作品であることを忘れたかのように、フルートの名曲の一つを作ってしまった。 さらに第2楽章の深い内容は注文主の音楽愛好家のことも忘れてしまったかのようであり、アインシュタインは次のように評している。
この曲はオランダの芸術保護者で素人音楽家だったド・ジャンに注文されたものである。 そしてモーツァルトが、フルートを好かなかったので、いやいや作曲に着手したことをわれわれは知っている。 しかしこの作品をよく知れば知るほど、そんなことは感じられなくなる。 緩徐楽章(ニ長調)ははなはだ個人的ですらあって、むしろ非常に幻想的で非常に独特なものになったとも言える。 ために注文者はどうにも扱いようがなかったにちがいない。 そこでおそらくモーツァルトは、このアダージョ・ノン・トロッポの代りに、もっと簡単で、もっと牧歌的または素朴なハ長調のアンダンテ(K.315)を入れなくてはならなかったのであろう。ただし「いやいや作曲に着手した」かどうかは疑問であることもわれわれは知っている、とつけ加えておきたい。 ついでながら、この曲の「真正な楽譜資料」は残っていない。 モーツァルトが負け犬となってザルツブルクに帰ることになった際、彼は次のように言い訳をしている。[アインシュタイン] p.385
1778年10月3日これでは証拠不十分であり、また確認のしようがない。 と言うより、もしかしたら我々はモーツァルトの作り話にひっかかっていたのかもしれない。 そもそもモーツァルトはドゥジャンから作曲の依頼を直接受けていたわけでなく、 ことの発端となる1777年12月18日の手紙ではヴェンドリングからドゥジャンの注文を間接的に受けたことを書いていたに過ぎない。 そのとき、モーツァルトはこの「儲け話」を撒き餌にして、その直後に書いている自分の希望に父が飛びついてくれることを狙っていたのかもしれない。 それはヴェンドリングがモーツァルトに持ちかけたという次の提案である。
あんまり作曲しなかったので、ぼくの新しい曲をそれほど持ち帰りません。 ドジャンのための3つの四重奏曲とフルート協奏曲は持っていません。 というのは、彼がパリへ行ったとき、間違えて別の箱へ入れてしまったので、そのままマンハイムに置いてあるのです。 でも、彼がマンハイムに着いたらすぐに送ってくれると約束しました。 ぼくはヴェンドリングに頼んでおきます。 そういうわけで、ソナタのほかに完成した作品は持って帰りません。[書簡全集 IV] p.308
カンナビヒの世話で、あなたは支払いのいい弟子を少なくともふたりは取れます。 あなたはここでクラヴィーアとヴァイオリンの二重奏曲を書いて、予約で出版させる。 食事は昼も夜も遠慮なく私どものところでとるのです。 あなたの宿は宮中顧問官のところにすればいい。 費用はいっさいなしですみます。 お母さんのためには、あなたがこれらのことをすっかりお宅へ報告するまで、2か月の間、小さな安宿を探しましょう。 それからお母さんはお宅へ帰り、ぼくらはパリへ行くのです。おそらくこれはヴェンドリングの提案というより、モーツァルト本人が描いていた夢だったのだろう。 彼は続けて「ママはこの案について納得しています。 いまはただ、あなたの承諾だけにかかっています」と書いて、父の「オーケー」を待ち望んでいた。 ところがレオポルトは息子の下心をただちに見抜いて、逆にその「儲け話」の方を責め立ててきたので、モーツァルトはこれから後しどろもどろの応対に陥ってしまうのであった。[書簡全集 III] p.341
この協奏曲にはモーツァルトの自筆譜が残されていない。 そうした確実な、決定的な基本資料が消息不明、ないし、すでに湮滅してしまっている以上、私たちにはあといくつかの別の資料から事の実態を判断、いや推測するほかはない。ヘンリク・ヴィーゼ は論文「モーツァルトのフルート協奏曲の成立史への寄与」(1997年)で、モーツァルト父子の往復書簡に見られる「やりとりの不分明さから、モーツァルトが父親に対してかなり虚言を弄している」と結論し、次のように主張しているという。[海老沢] p.192
そうした伝記上の問題を越えて、この作品の音楽上、また作曲技法上、オーケストラ技法上、独奏楽器書法等の特徴から、この協奏曲が素人フルーティストのためでも、またヴェンドリングのようなマンハイム楽人のためのものでもなく、モーツァルトがマンハイム・パリ旅行に出発する前に、すなわち1777年の7月に、姉のマーリア・アンナ(愛称ナンネルル)の霊名の祝日(7月26日)用に書き、これを宮廷楽団ヴァイオリン奏者兼フルート奏者カステル(正確にはヨーゼフ・トーマス・カッセル)が吹いたものと結論づけている。また、フルート協奏曲第2番ニ長調(K.314)もドゥジャンのために書いたものかどうか疑われており、モーツァルトが本当に彼のために書いたのは「フルートと管弦楽のためのアンダンテ」(K.315)だけではないかと言われている。 そうだとすれば、約束の200フローリンが96フローリンに減ったというのも、そもそも本当にモーツァルトがドゥジャンから96フローリン貰ったのかも怪しい話である。 このような文脈の中で改めて考えると、モーツァルトが「フルートという『我慢できない楽器』のための作曲には気が乗らない」と父に伝えたことも本心ではないだろう。 モーツァルトはフルートという楽器が嫌いだったと言い伝えられることになってしまったが、もしそれを本人が知ったら大笑いするかもしれない。 彼はどの演奏家にもちょうどピッタリ合うように曲を仕立て上げることができた職人であり、そのモーツァルトが書き残したフルート曲はどれも見事な出来映えであることを見ると、たとえ「気が乗らない」としても、単純に「嫌いだ」というわけではなかったに違いない。同書 pp.193-194
〔演奏〕
CD [BMG VICTOR BVCC-8825/26] t=26'51 ゴールウェイ James Galway (fl), プリエール指揮 Andre Prieur (cond), ニュー・アイルランド室内管弦楽団 New Irish Chamber Orchestra 1973年、オーラ・マキシマ、メイノース・カレッジ |
CD [PHCP-3918] t=24'12 ニコレ Aurele Nicolet (fl), ジンマン指揮 David Zinman (cond), 王立アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団 Royal Concertgebouw Orchestra, Amsterdam 1978年6月、アムステルダム、コンセルトヘボウ |
CD [EDITIO CLASSICA BVCD-1842] t=24'09 クイケン Barthold Kuijken (fl), ラ・プティット・バンド La Petite Bande 1986年4月、Haarlem |
CD [RVC R30E-1025-8] t=25'56 ランパル Jean-Pierre Rampal (fl), グシュルバウアー指揮 Theodor Guschlbauer (cond), ウィーン・フィル Wiener Symphoniker 演奏年不明(1987年頃) |
CD [POCL-5243] t=24'22 ベズノシューク Lisa Besnosiuk (fl), ホグウッド指揮 Christopher Hogwood (cond), エンシェント室内管弦楽団 Academy of Ancient Music 1987年1月、ロンドン、Henry Wood Hall |
CD [POCG-7061] t=24'54 パルマ Susan Palma (fl), オルフェウス室内管弦楽団 Orpheus Chamber Orchestra 1987/88年、ニューヨーク |
CD [PHILIPS 422 509-2] t=24'16 グラフェナウアー Irena Grafenauer (fl), マリナー指揮 Sir Neville Marriner (cond), Academy of St Martin in the Fields 1988年1月、ロンドン |
CD [SONY SRCR 2412] t=25'07 工藤重典 (fl), 小澤征爾指揮, 水戸室内管弦楽団 1999年 |
〔動画〕
オーボエ協奏曲 ヘ長調 (編曲) |
K.314のオーボエ協奏曲をモーツァルトがフルートのための協奏曲に作り替えたといういきさつを逆に辿って、フルート協奏曲 K.313 の曲も当初からオーボエのための作品であるかのように見立てたもの。 後世の演奏版。 ト長調から1音低めてオーボエにふさわしい調性であるヘ長調に移調。
〔演奏〕
CD [SONY SRCR-8966] t=27'07 宮本文昭 (ob), ガルシア指揮イギリス 1985年 |
CD [PHILIPS 32CD-679] t=23'38 ホリガー (ob), シリトー指揮アカデミー 1986年 |
CD [PHCP-10364] t=23'38 ホリガー (ob), シリトー指揮アカデミー 1986年 |
CD [キング KICC-7274] t=25'17 ゴリツキ (ob), ライスキ指揮ポーランド・チェンバー 1992年 |
〔動画〕
〔参考文献〕
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