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ソナタ 第30番 ニ長調 K.306 (300l)
〔作曲〕 1778年 パリ |
ピアノとヴァイオリンのためのソナタ第30番、またマンハイム・ソナタの第6番。 このジャンルの曲は「ヴァイオリン・ソナタ」と呼ばれることが多いが、モーツァルトの時代の名称ではなく、「ヴァイオリン伴奏付きのピアノ・ソナタ」と言ってよいものであった。 やがてヴァイオリンは徐々に対等な立場を主張するようになり、この頃はモーツァルトは「クラヴィチェンバロとヴァイオリンのための二重奏曲」あるいは「クラヴィーア二重奏曲」などと呼んでいた。 彼がこの種の曲を書こうとしたきっかけは、母と二人で就職活動のためザルツブルクを離れ、途中1777年10月にミュンヘン滞在のとき、ドレスデンの宮廷楽長シュースター(Joseph Schuster, 1748~1812)の作品を知ったことであった。
1777年10月6日(ミュンヘン)その後10月11日、モーツァルトは父レオポルトの指示に従ってアウクスブルクを訪問。 2泊の予定だったが、同伴するのが厳格な父でなく母親だったせいか、いろいろ楽しんで、ここに26日まで2週間も滞在する。 そこでは重大な出会いがモーツァルトを待っていた。
姉さんのために、シュースターの6曲の『クラヴィチェンバロとヴァイオリンのための二重奏曲』を同封します。 ぼくはこれらの作品をよくここで演奏しました。 悪くはありません。 当地ではこれらは非常に好まれているので、もしぼくが留まるなら、この様式でやはり6曲書いてみたいと思います。 特にこれらをお送りするのは、お二人で気晴らしをしていただくためです。[書簡全集 III] p.101
1777年10月16〜17日(アウクスブルク)モーツァルトは10月30日に再びマンハイムの地を踏んだ。 そこはカンナビヒ(46歳)が率いる優れた宮廷楽団があり、そして愛するアロイジア(17歳ほど)がいて、青年モーツァルトにとって居心地の良い町だった。 彼はマンハイムで選帝侯から宮廷楽団に任用してもらうことを願っていた。 そのために彼は「たっぷり作曲」しなければならなかった。 すなわち、協奏曲を3つ、四重奏曲を2つ、クラヴィーア二重奏曲を4つか6つ、そして大ミサ曲を書いて選帝侯に献呈しようと考えていたのである。 こうして「マンハイム・ソナタ」または「選帝侯妃ソナタ」と呼ばれる6曲のピアノとヴァイオリンのためのソナタ集が誕生することになる。 よく知られているようにモーツァルトの願いはかなわず、父に急かされつつ母子はパリに向けて旅立つ。 そのときクラヴィーア二重奏曲はまだ4曲だけが完成していた。
僕たちのベーズレが美しく、賢く、愛らしく、器用で、陽気な人であることは請け合います。 本当に僕たち二人は馬が合います。なにしろあの人は、ちょっぴり意地悪ですから。 僕たち二人がみんなをからかってやると、愉快になります。
(中略)
シュタインのピアノをまだ見ていないうちは、シュペートのピアノが一番好きでしたが、今はシュタインの方が勝っていると言わざるを得ません。 この方が共鳴の抑えが利くからです。強く叩くと、指をのせておこうと離そうと、鳴らした瞬間に、その音は消えてしまいます。 思い通りに鍵盤を打っても、音はいつも一様です。消音装置が付けられていることも他にない特徴です。 鍵盤を叩くと、それをそのまま抑えていようと離そうと、ハンマーは弦の上に弾ねかえり、その瞬間にまた下ります。[手紙(上)] pp.69-70
1778年2月28日(マンハイム)
6曲のクラヴィーア・ソナタのうち、あと2曲を書かなくてはなりませんが、それは別に急ぎません。 ここでは出版してもらうわけにはいきませんからね。 当地では、予約注文なんて問題になりません。 それは乞食をするようなものです。 それに版刻師は自分の出費で請け合おうとはしませんし、売り上げについてはぼくと折半しようというのです。 それならパリで出版させたほうがましです。同書 p.564
1778年11月19日今やレオポルトは息子が自分の手を離れ、手の届かないところで成功することは許されなかった。 息子のために投資した金は息子から返してもらわなければならなかった。 そのために彼は大司教と取引し、息子の名前を無断で使って請願書「いと尊く慈悲深き神聖ローマ帝国領主にして国王閣下。 慈悲をもちまして私を宮廷オルガニストに任命していただきたく、最も深き臣従をもってお願い申し上げます。」を提出。 用意周到な根回しのお陰で、大司教からすぐ決済がなされ、アードルガッサー(1777年末に没)の後任として、モーツァルトはザルツブルク宮廷オルガン奏者に任命されることになる。 年俸450グルテン、これは前任者と同額。
おまえはナンシーから3日付で、「あす、4日に、シュトラースブルクに向かいます」と書いてきたが、9日付でフランク兄弟商会は、おまえがまだ着いていないと書いてきた。 やっとおまえは14日になって、シュトラースブルクから手紙をくれたのだ。 だからナンシーにぐずぐずしていて、お金を窓から投げ捨てたようなものだ。
(中略)
おまえはマンハイムで就職したいんだって? 就職だと? それはどういう意味なのだ? おまえはマンハイムでも、世界中のどこででも、今は就職してはならぬ。 就職などという言葉は聞きたくないのだ。
(中略)
この手紙を受け取ったら、おまえは出発するのです。[書簡全集 IV] pp.336-340
彼は意識的にアードルガッサーの後任の話題には触れないようにしており、その話には一片の興味もないように装った。 彼はレオポルトが自分をザルツブルクに呼び戻す口実をすでに用意したことを完全に見抜いていた。マンハイムからミュンヘンに向かう途中、モーツァルトはソナタ集を自分がまだ手にしていない腹立たしい気持ちを伝えている。[ソロモン] p.248
1778年12月18日(カイザースハイム)モーツァルトはミュンヘンでソナタ集の到着を待っていたが、12月31日の手紙で「ぼくはカイザースハイムでぼくのソナタ集を受け取りました。 それが製本されたらすぐにも、選帝侯妃に手渡しましょう」と父に伝えている。 献呈が実現したのは1779年1月7日になってであった。 そしてもはやモーツァルトが帰郷を引き伸ばす理由はなくなってしまった。 ザルツブルクで待っているのは、かつて神童の息子の華々しい活躍のお陰で莫大な金品と名誉を得て、地方の音楽家には不釣り合いなほどの蓄財を成しておきながら、そのことは棚に上げて、就職活動のためのパリ旅行で費やした金額をいちいち計算して、その返済の義務を催促するだけの父親と、その父親に従順な姉、そしてモーツァルトにとっては死ぬほど退屈な田舎の生活である。
ところで、ぼくのソナタ集を持たずにミュンヘンに行くのは本当に恥ずかしいかぎりです。 なぜ遅れたのか、ぼくにはわかりません。
(中略)
ぼくの知るかぎり、ソナタ集は11月の初めに出版されているのです。 そして作者のぼくがまだそれを手にしていない。 そのため、それを献呈されるべき選帝侯妃にまだお渡しできないというわけです。[書簡全集 IV] p.360
それにしても、息子の将来についての、レオポルトの展望の急転直下ぶりには目をみはるものがある。 息子は創造的な音楽家、作曲家となるはずだった。 それが今や、息子を年俸450グルデンのオルガニスト兼コンサート・マスターという地位に追いやり、それを承諾させようとしているのである。青年モーツァルトは慰めを必要としていただろう。 どこまでも息子を拘束しようとする父親に対して、最後の抵抗は馬鹿息子を演じることだったかもしれない。 彼にはそうでもしないと精神の安定が保てない、現代風に言うと「やってられねえ」という気持ちだったに違いない。 なんと彼はアウクスブルクの従妹(ベーズレ)マリア・アンナ・テークラに馬鹿息子の相手役を依頼していたのだった。 ミュンヘンではアロイジアに対する恋心が惨めな結果に終わるだろうと予感していたに違いない。 何もかもすべて失うことが見えたとき、彼はアウクスブルクの従妹(ベーズレ)が支えになってくれると考えたのだろう。[ソロモン] p.257
1778年12月23日(カイザースハイム)モーツァルトはミュンヘンに1778年12月25日に到着。 その地では、ウェーバー家に泊めてもらっていると父に伝えている。 しかし、そこはアロイジアの家であり、彼女はモーツァルトの求愛を拒んでいた。 しかもマリア・アンナ・テークラが当地に来ている。 二人はどこでどうやって再会したのだろうか? 本当にモーツァルトはウェーバー家に泊めてもらっていたのか怪しい。
大急ぎで、そしてこの上ない深い後悔と悲しみをもって、そして堅い決意をもって、あなたに手紙を書き、あすはもうミュンヘンに向けて出発することをお知らせします。
(中略)
もしもあなたがぼくに会うことを、ぼくと同じくらい喜んでくれるなら、ミュンヘンのあの立派な町へいらっしゃい。 新年になる前にそこにいるようになさい。
(中略)
あなたが来ることがぜひともぼくには必要です。 ひょっとすると大役を演じてもらうかもね。 だから、必ず来てよ。 でないと、クソくらえだ。[書簡全集 IV] p.365
1778年12月29日(ミュンヘン)
ぼくはヴェーバーさんの家に泊まっています。 でも、お手紙はぼくらの親友ベッケに宛てたほうがいいでしょう。 いや、一番いいと思います。同書 p.372
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従妹(ベースレ)ちゃんはモーツァルトそのもの、その人柄、その機知、その肉体を愛したのであり、彼の稼ぎや財産、世間的な地位などを愛したのではない。 そして彼女は無私の愛を捧げており、そこには条件も紐もついておらず、そうした一種の無償の愛こそモーツァルトが常に憧れていたもんだった。従妹(ベースレ)マリア・アンナ・テークラが果たした役割は計りしれないほど大きいものがあったが、後世の我々はそのことをあまり評価していないように思われる。 あらゆるものを自分の手で管理しようとした父親から、牢獄のようなザルツブルクでの生活から抜け出したいと願いながら、その希望がかなわない絶望感に押しつぶされ、瀕死の状態にある(前途有望な)若者をマリア・アンナ・テークラ以外の誰が救うことができたというのか。 自分の恋人は自分で決める、さらには自分の将来は自分で決めようとモーツァルトはこのとき堅く心に誓ったことだろう。 のちに結婚相手となるコンスタンツェはマリア・アンナ・テークラとアロイジアを足して2で割ったような女性である。[ソロモン] p.278
さて、6曲のソナタ集のうち、この曲は唯一の3楽章から成る。 ヴァイオリンはピアノと競い合うほどであり、ヴァイオリン協奏曲と言っていいほどの大作でこのシリーズを締めくくった。 第3楽章には47小節の大きなカデンツァがあり、そのこともこの作品の協奏曲風の性格を強調しているといわれる。
選帝侯ソナタ(K.306)は全く一つの偉大なコンチェルト・ソナタであった、そのなかでモーツァルトは自分がディレッタントのために書いていることを忘れようとしている。 第1楽章は輝かしく声高で華麗であり、アンダンテ・カンタービレとフィナーレはコンチェルト的である。 フィナーレは、単に大きいカデンツァのせいばかりでなく、1775年のヴァイオリン・コンチェルト(K.207, 211, 216, 218, 219)と関連がある。マリウス・フロトホイスも[アインシュタイン] p.349
フィナーレにおける大規模なカデンツァが作品全体のコンチェルタンテな性格を強調していることは確かであり、フランス風に響く2/4拍子のアングレットとイタリア風な6/8拍子のアレグロの絶え間ない交替は、わずか数年前に書かれたモーツァルト自身の『ヴァイオリン協奏曲ニ長調』(K.218)を思い起こさせる。と評している。 このような例外的な構成に注目して、ウィルビーが未完の協奏曲 K.315f の補筆に第2、3楽章を編曲して用いた。[全作品事典] p.363
〔演奏〕
CD [COCQ 83885-88] t=20'11 シゲティ (vn), ホルショフスキー (p) 演奏年不明 |
CD[東芝EMI TOCE-6725-30] t=23'28 クラウス (p), ボスコフスキー (vn) |
CD [POCG-90178] t=18'04 シュナイダーハン (vn), ゼーマン (p) 1955年 |
CD [LDC 278 909 CM211] t=21'50 バドゥラ=スコダ (p), オイストラフ (vn) 1971年 |
CD [ポリドール LONDON POCL-2084/7] t=23'40 ルプー (p), ゴールドベルク (vn) 1974年 |
CD [Deutche Grammophon 415 102-2] t=22'13 バレンボイム (p), パールマン (vn) 1984年 |
CD [キング KKCC-232/3] t=21'21 ヴェッセリノーヴァ (fp), バンキーニ (vn) 1993年 |
CD [AMBRONAY ARCANA A 906] t=29'19 アルヴィーニ (fp), ガッティ (vn) 1997年 |
〔動画〕
〔参考文献〕
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