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レチタティーヴォ「テッサリアの人々よ」と

アリア「不滅の神々よ、私は求めず」 K.316 (300b)

〔編成〕 S, ob, fg, 2 hr, 2 vn, va, vc, bs
〔作曲〕 1778年7月 パリ、1779年1月8日 ミュンヘン
1778年7月


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Aloisia
Aloysia Weber 

カルツァビージ(Raniero de Calzabigi, 1714-95)がグルックのオペラ・セリア『アルチェステ Alceste』のために書いたイタリア語の詩に、若いアロイジア・ウェーバーという歌い手のために、モーツァルトが曲をつけたものである。 劇中、テッサリアの王アドメーテが死に瀕しているとき、アポロによる「自ら身代わりになる者が現れれば王は助かる」との信託が下ったが、名乗り出たのは王の妻アルチェステただ一人だった。 そのとき彼女が民衆を前にして歌うレチタティーヴォとアリアである。
このオペラは10年前の1767年12月26日にウィーンのブルク劇場で初演された。 モーツァルト一家は、皇女マリア・ヨゼファ(マリア・テレジア女帝の9番めの皇女)とナポリ・シチリア王フェルディナント1世の婚儀のために催される祭典をめざしてウィーンへ旅立ち、9月15日ウィーンに到着したが、天然痘の感染を避けるために10月から翌1768年1月はじめまでウィーンを離れていた。 この間にモーツァルト姉弟も感染し危険な状態に陥ったが、奇跡的に回復したことはよく知られている話である。 グルックの『アルチェステ』は何度か上演され、モーツァルト一家も当然ながら観劇したようである。 当時ウィーンではオペラ・セリアよりもオペラ・ブッファの方が好まれていて、その状況をレオポルトは次のように伝えている。

(1768年1月30日)
しかし小さなオペラ・ブッファではなく、2時間半も、3時間もの長さのものです。 セーリアのオペラには、当地では歌手がいなくて、グルックの悲歌劇『アルチェステ』でさえ、もっぱらオペラ・ブッファの歌い手たちだけによって上演されました。
[書簡全集 I] p.325
余談であるが、モーツァルトはのちにカルツァビージ原作のオペラ・ブッファ『偽の女庭師』(K.196)を書いている。

そのモーツァルト一家のウィーン旅行から10年後の1777年9月、青年モーツァルトは今度は母と二人だけの旅に出た。 目的地はパリであったが、モーツァルトはマンハイムで4ヶ月もの長い道草を食い、その地でアロイジア・ウェーバー(約18歳)に恋したことは有名な話である。

非常に歌が上手で、きれいな澄んだ声をした娘さんがいます。 欠けているのは演技だけで、それさえあれば、どんな劇場でもプリマ・ドンナがつとまります。

宮廷でウェーバー嬢はアリアを3曲歌いました。 その歌い方は、ただひと言「見事」とだけ言っておきましょう。 翌月曜日にも、火曜日も水曜日も、ウェーバー嬢は全部で13回歌い、2回ピアノを弾きました。 ピアノも決して下手じゃないです。 僕が一番感心するのは、楽譜をとてもよく読むということです。 僕の難しいソナタを、ゆっくりですが音符を一つも落とさずに弾いたのです。 僕は自分のソナタを、フォーグラーが弾くより、この子が弾くのを聞く方が嬉しいです。

(同じ手紙に書かれた母の手紙)
この手紙でお分かりのことと思いますが、ヴォルフガングは新しい知合いができると、もうすぐその人達のために、ありったけ打ち込んでしまおうとするのです。 あの娘が比類のない歌い手だということは本当です。 でも、息子は自分の利害をほったらかしてはいけません。 ところが息子は、ウェーバーさんの家族と知り合ったとたんに、考え方が変ってしまいました。 息子が今、食事をしていますから、私はこれを内緒で大急ぎで書いています。

[手紙(上)] pp.110-118 から抜粋
そしてモーツァルトは彼女を連れてイタリアへ行き、自分がオペラを作れば成功するだろうと夢見るのだった。 しかしレオポルトは、そのまるでお伽話のような夢から目を覚まし今すぐパリへ立つように命じた。 レオポルトが息子のために書いたその長い手紙は父親としての慈愛に満ち、説得力にあふれ、従わざるを得ないものだった。 モーツァルト母子は1778年3月、マンハイムを離れ、パリに着いたが、アロイジアに寄せた思いは断ちがたく、7月30日、滞在中のパリからマンハイムにいるアロイジアに手紙を送り
もう半分は出来ているアーリア『テッサリアの人々よ』もお送りします。 もしそれで、ぼく同様にあなたもご満足なら、ぼくは仕合せだと思います。 この場面が分かっていただけたと、あなた自身から手応えを聞くまでは---これはあなたのためにだけ書いたもので、他のだれよりもあなたに賞めてもらいたいので---それまでは、ぼくのこの種の作品の中で、この場面が、今まで作った最上のものだと言うほかありませんし、またそう白状せざるをえません。
[手紙(上)] pp.169-170
と書いている。 すなわち、1778年7月頃にはこのアリアの作曲に取りかかっていて、その月の末にはほとんど出来ていたことがわかる。 ちょうどその年の7月3日には、母マリア・アンナが死去し、葬儀はパリのサン・トゥスタシュ教会で行われた。 最愛の母を失い、パリでの音楽活動も軌道に乗らずモーツァルトは父レオポルトの命令に従って故郷への帰途に着くことになるが、この曲はその途中の1779年1月8日にミュンヘンで完成されたことになっている。 ただし実際の「完成」はもっと早く、既に出来上がったものをアロイジアに楽譜を渡すために書いたのが「1779年1月8日」のことだったと思われる。
話が前後するが、モーツァルトがパリに向かう前に滞在したマンハイムには変動があり、選帝侯カール・テオドールはカンナビヒ率いる宮廷楽団と共にミュンヘンへ移住していた。 そのときウェーバー一家も引っ越していたので、モーツァルトはマンハイムではなくミュンヘンに立ち寄ったのであった。
その地に到着したのは1778年12月25日だったが、なんとその2日前の12月23日、旅先からモーツァルトはアウクスブルクにいる従妹のマリア・アンナ・テークラに「ミュンヘンに来てほしい」と懇願しているのである。 自分のアロイジアに対する求愛は拒絶され、みじめな片思いに終るであろうことを予感し、幼なじみのベーズレの慰めを必要としていたのであった。 彼女は求めに応じたが、二人はどこで会うことができたのか、詳しいことはわからない。 それを詮索しても、モーツァルトからすると「余計なお世話だ」となるだけである。

ところで、上の手紙で「場面」と訳されている言葉「シェーナ」は「劇唱」のことである。 そして「最上のもの」とモーツァルト自身が言っていることに対し、アインシュタインは

おそらくこのアリアは外的な高揚の意味では《最上の劇唱》であろう。 高揚はレチタティーヴォ(アンダンティーノ・ソステヌート・エ・ラングィード)からアリア(アンダンティーノ・ソステヌート・エ・カンタービレ)へ、さらに《ストレッタ》(アレグロ・アッサイ)にいたる増勢である。 おそらくまたオーケストラの処理においても《最上のもの》であろう。 しかしモーツァルトは作曲を進めれば進めるほど、愛する名歌手とその驚くべきスタッカートの成功をますます気にかけるようになり、一方、劇的なシテュエーションや、妻であり母である女王のことはますます気にかけなくなる。
[アインシュタイン] pp.496-497
と分析し、名人芸の点では最上のアリアであっても熱情の表現の点では最上とは言えないとしている。 そして、恋人(アロイジア)との訣別から数週間後の1779年1月8日ミュンヘンにおいてこの曲を完成したときにも作曲者がまだ「最上のもの」と思っていただろうか、と疑問を呈している。

もともとのグルックの作品では、「できるかぎり歌手の恣意的な技巧の誇示を排除し、劇の内容の忠実な反映に努めて」作曲されているのに対し、モーツァルトのこの作品では、第1幕第2場で、重病の王アドメーテを救うために王妃アルチェステがいけにえとなる決意を歌う部分だけをとり、アロイジアの歌唱力を最大限に発揮するために作曲されている。 そしてモーツァルトの作品中、最も高い音が出てくる難曲としても知られている。 ここにモーツァルトとグルックのオペラに対する根本的な違いがあるといわれている。 のちにドイツ人がグルックを「オペラの改革者」と持ち上げているが、その本人が『アルチェステ』初演の際に書いた有名な序文がその原点となっている。 グルックの信奉者と言えるアインシュタインにとって、恋するアロイジアのために彼女の個人技を最大限に引き出そうとするモーツァルトの軟弱さが歯がゆくて仕方なかったのだろう。 それが上のように「作曲を進めれば進めるほど、劇の内容と離れてゆく」と批判的になったものと思われる。 しかしグルック以後、その改革(?)路線は引き継がれず、アインシュタインの評価は最後の負け惜しみだったようである。

グルックという人物、作曲家、さらにいわゆる「オペラの改革」の実体、それらについてここではこれ以上立ち入らないが、石井宏著「反音楽史」から非常に大きな示唆に富む話が得られることは記しておきたい。

モーツァルトがこの曲のテキストをどうやって手に入れたのかはわからないが、当時パリでは「グルック・ピッチンニ論争」が続いていたので、その関係からテキストを研究する機会があったのだろうか。 それとも10年前にウィーンで直接聴いたときの印象がモーツァルトの脳裏に残っていたのか。 この曲の冒頭のすすり泣くような低音弦は、この時期の作曲者の心境を物語っているようにも感じられる。 それは片思いに終った失恋の心の痛みか、母マリア・アンナを失った悲しさか、それともこの曲自体が、夢破れて帰郷せざるを得ない作曲者自身の心情をアロイジアに精一杯代弁してもらいたいと考えてのものか。

〔歌詞〕
Popoli di Tessaglia!
Ah mal piu giusto fu il vostro pianto.
テッサーリアの民よ!
ああ、今ほどに皆が泣いて当然のことは、嘗てなかった
A voi non men che a questi
Innocenti fanciulli Admeto è padre.
Io perdo l'amato sposo,
e voi l'amato rè
. . . . .
皆にとってもこの幼子ら同様
アドメータス王は父親。
私は愛する夫を失い
皆は愛する王を失おうとしています
(途中略)
Io non chiedo, eterni Dei
tutto il ciel per me sereno
ma il mio duol consoli almeno
qualche raggio di pietà.
Non comprende i mali miei
nè il terror, che m'empie il petto
chi di moglie il vivo affetto
chi di madre il cor non ha.
私は求めません、不滅の神々よ、
天のあまねく私のために晴れることは。
けれども、せめて、この苦しみを、
何がしかの憐みの光が慰めてくれますよう。
私の不幸はお分りになりますまい、
私の胸にいっぱいの恐怖もまた
妻としての深い愛情を知らぬお人や
母の心を持たぬお人には。

小野瀬幸子訳 CD[COCO-9283]

〔演奏〕
CD [COCO-9283] t=11'21
ヨナーショヴァー Jana Jonasova (S), ルカーシュ指揮 Zdenek Lukas (cond), プラハ室内合奏団 Prague Chamber Soloists
1970年
CD [EMI TOCE-6598] t=11'57
モーザー Edda Moser (S), ブロムシュテット指揮 Herbert Blomstedt (cond), ドレスデン国立歌劇場管弦楽団 Staatskapelle Dresden
1978年11月
CD [POCL-2665] t=10'23
ヘーバルト (S), フィッシャー指揮ウィーン
CD [GLOSSA GCD 921104] t=10'48
シーデン Cyndia Sieden (S), ブリュッヘン指揮 Frans Bruggen (cond), 18世紀オーケストラ Orchestra of the Eighteenth Century
1998年9月
CD [Brilliant Classics 93408/5] t=10'20
Annemarie Kremer (S), European Chamber Orchestra, Wilhelm Keitel
2002年6月

〔動画〕

〔参考文献〕

 

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2012/11/04
Mozart con grazia