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レクイエム ニ短調 (未完) K.626

〔編成〕 S, A, T, B, SATB, 2 basset hr, 2 fg, 3 tb, 2 tp, timp, 2 vn, va, vc, cb, og
〔作曲〕 1791年7月〜死 ウィーン

ド・ニによれば「ミサの式次第」において、「死者のためのミサ曲」は例外的にグローリア(栄光の賛歌)とクレド(信仰宣言)を除く通常文と、固有文のいくつかが作曲されるものだといい、ここで、通常文というのはミサのなかの祈祷文で変化しない部分を、また、固有文はミサによって変化する部分をいう。 モーツァルトが書いた「死者のためのミサ曲」は以下の内容から成り、よく知られているように、その冒頭の歌詞により『レクイエム』と呼ばれている。

作曲の依頼主は、ウィーン郊外(南西に約72キロ)のシュトゥパハ村に居を構えていたヴァルゼック伯爵(Franz de Paula Anton Wallsegg von Stupach, 1763~1827)であり、妻アンナ・マリア(Anna Maria Theresia Edle von Flamberg, 1770~1791)が1791年2月14日に死去したことによるものだった。 彼女の遺体は防腐処置が施されて2日後にシュトゥパハ村近くのヴァルゼック家の地下聖堂に安置されたが、さらに40日後にシュトゥパハ城の隣に作られた立派な墓に移された。 妻を深く愛していた伯爵は
2つの芸術作品を依頼することで妻の霊を崇めることにした。 一つは手のこんだ墓碑であった。もう一つはカトリックの儀式である死者のためのミサと関連した礼拝音楽(レクイエム)の作曲であった。 すくなくとも理屈のうえでは、音楽伴奏をともなう儀式を、伯爵夫人の死を悼む記念行事として毎年2月14日の命日に行うためのものだった。
[リーソン] p.25
墓碑は前年の1790年7月14日に没した元帥フォン・ロウドン男爵のための墓を模したものという。 モーツァルトはその霊廟で自動演奏される曲(K.616)を書いているので、ヴァルゼック伯爵にとってモーツァルトにミサ曲の依頼することは自然な成り行きだったのかもしれず、さらにできれば自動オルガン用の作曲も依頼つもりだったのだろう。 あるいはまたプフベルクがヴァルゼックとモーツァルトを結ぶ線上で重要な役割をはたした可能性もある。 彼はモーツァルトへの金銭的援助を惜しまなかったことで知られているが、ヴァルゼックが所有する建物に住んでいたからである。
なお、ヴァルゼックの名前の綴りは、Walsegg, Wallseg, Wallsseck などさまざまあるといい、妻の名前についても一部異なるものがある。

伯爵が作曲依頼したのはいつなのか、またいつからモーツァルトが作曲に取りかかったのかは不明である。 のちにコンスタンツェの記憶をもとに伝記を書いたニーメチェクは「1791年夏のある日、ひとりの見知らぬ使者が訪れた」と伝えている。 ヴァルゼック伯爵は奇妙なやり方でモーツァルトに作曲依頼したのである。

モーツァルトは匿名の依頼人に所定の金額でレクイエムを書くのを引き受けましょうと返事したが、どれほど時間を要するかについては、はっきりと言えなかった。 しかし、作品が出来上がったら、どこでお渡しすればよいのか知りたいと望んだ。 ほどなく例の使者がまた現れると、契約した金額を手渡した上、モーツァルトの作曲料が余りに安かったので、作品を受け取る際にもう一度同額を支払うという約束をして帰った。 その上、作品は好きなように書いてよいが、誰が依頼したかを詮索してもまったく無駄だから、それは決してしないようにとも伝えた。
[ランドン] p.102
なぜヴァルゼックがこのような謎めいた依頼をしたのか、それは「彼は、好んで他人の作品で身を飾り、自分の居城と城内礼拝堂で他人の作曲を演奏して、それを自分の作だと称していた音楽ディレッタント」(アインシュタイン)だったからである。 詳しいことは、1964年にオットー・エーリヒ・ドイチュがヴィーナー・ノイシュタットの市立古文書館で発見した記録で明らかになった。 それによると、伯爵は音楽と演劇の熱烈な愛好家で、毎週火曜日と木曜日に四重奏曲の音楽会を、日曜日には芝居を演じていたという。 伯爵は弦楽四重奏ではチェロを、フルート四重奏ではフルートを演奏し、
新しい四重奏曲に不自由しないように、新曲がしょっちゅう作曲されるのを見込んで、伯爵様は公刊されている新曲をすべて入手したばかりか、人物の特定はいまだに出来ていないが、多数の作曲家と連絡を取っていた。 そして彼らは、伯爵様が単独の所有権を持つように作品を譲渡し、それに対して彼は存分に報酬を支払っていた。 そんな作曲家を一人挙げると、ホフマイスターは多数のフルート四重奏曲を提供したが、そのフルート・パートはまったく簡単に演奏できるが、他の3つのパートは極端に難しく、弾き手は一生懸命練習する羽目になったので、伯爵様はそれを見て面白がったものである。
[ランドン] p.107
という。 ヴァルゼックは提供された楽譜をみずから写譜し、そこから演奏者たちにパート譜を作らせていたのである。 のちにジュスマイヤーが補筆し完成させたレクイエムを手に入れた伯爵は同様にして自分の手で写譜して総譜を作り「ヴァルゼック伯爵作曲」と記した。 いつものようにそこから演奏者各自がパート譜を写して演奏の準備に入ったが、ただし、上の記録を残した人物は、この曲がモーツァルトのものであり、ジュスマイヤーの手で完成されたことを知っていた。 その手書き総譜は依頼人に送られた(それが約束だった)が、このとき同時に2つの筆写譜が作られ、一つは出版のためにライプツィヒの音楽出版社に、もう一つは残され、1793年1月2日ウィーンのヤーン邸での演奏のもとになったという。 また、モーツァルト自身の手になる楽譜はコンスタンツェのもとに残されていたという。 伯爵はレクイエムの独占所有権を持つはず(契約)だったので、一部が出版社に売り渡されたことを知り、モーツァルト未亡人に対して厳しい措置をとろうとしたが、「彼の思いやりのおかげで、問題は誠意をもって収拾された」という。 ド・ニは「彼は殿様として度量の大きいところを見せ、深くは追求しなかった」と表現している。 結局のところ、シュトゥパハでは必要な人員が一堂に揃えることができなかったので、初演は別の所で行うことになり、1793年12月12日ヴィーナー・ノイシュタットの教会で自らの指揮により総練習が行われ、そして14日に同教会でこの「死者のためのミサ」が挙げられるに至ったのである。
これもよく知られていることだが、補筆完成したジュスマイヤー(25才)の前に、その役目をコンスタンツェ(29才)から依託されていた人物がいる。 それはのちにサリエリの後任としてウィーン宮廷楽長にまでなるアイブラー(26才)であるが、彼は任務を遂行できず、そのかわりとしてジュスマイヤーが仕事を引き受けることになった。 彼がいつコンスタンツェから依頼されたのか、また、いつ完成させたのかは不明である。 ただし、演奏者たちがパート譜を写す手間を考えると、1793年1月2日の初演のかなり前に完成し終えたのだろう。 1792年3月初め頃には全曲の補筆完成が終了したともいわれている。

さて、話を戻すと、経済的に苦しい状況にあったモーツァルトは引き受け、すぐ作曲に取りかかろうとしたかもしれないが、妻コンスタンツェが病気療養のためバーデンへ行ったり、7月26日には四男フランツ・クサヴァーが生まれたり、また8月には皇帝レオポルト2世のボヘミヤ王即位戴冠式のためにコンスタンツェとジュスマイヤーを伴ってプラハへ旅行したり、そのとき初演するためのオペラ『ティトの仁慈』の作曲、さらに『魔笛』の作曲も重なり、この年は夏から秋にかけてあまりに多忙すぎだったので、作曲に着手したのは10月に入ってからと思われる。 10月8日の夜、モーツァルトはバーデンで保養中のコンスタンツェに伝えている。
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たったいま、蝶鮫の高価なひと切れを平らげたところだ。 ドン・プリームス(わが忠実な召使い)が持ってきてくれたのだ。 きょうはぼくは、ちょいと食欲が旺盛なので、もしできたら、もう少し何か持ってきてくれるようにと彼をまた行かせた。 その合間に、こうしてきみに手紙を書き続けている。
きょうは朝早くから打ち込んで書いたので、1時半までかかってしまった。 そこで、ホーファーのところへ大急ぎですっ飛んで行った(ひとりぼっちで食事をしたくないばっかりに)、そうしたら、そこでママにも出会った。 食事のあとすぐに、ぼくはまた家に戻り、オペラの時間まで書いた。
[書簡全集 VI] p.694
このとき打ち込んでいた仕事はレクイエムの作曲だと思われている。 こうしてモーツァルトが仕事に食事に交友関係にと、休みなく動き回るのはいつものことであり、しかも限られたわずかな時間の中から膨大な量の音楽作品(傑作ぞろい)と手紙(これまたある意味傑作)が書かれたことは奇跡としか言いようがない。 そして、精力的に活動していたモーツァルトが見知らぬ使者を介して「レクイエム」の作曲依頼を受けたとき、「自分の死が迫っていることを自覚して自分のために書こうとした」という話には無理があり、彼の死後、その最期をより悲劇的に見せるために粉飾した後世の作り話である。
疲労、これはちがう。 モーツァルトが同時に取りかかっていた『魔笛』(K.620)とレクイエム(K.626)にも疲労の跡がほとんど認められない。
[アインシュタイン] p.556
 
このレクイエムは今でもときどき伝記などで書かれているような、死の床にあって衰えたモーツァルトの作品と思わせるようなものは何ももっていない。
[ド・ニ] p.149
10月13日6時、モーツァルトは馬車でサリエリカヴァリエーリ夫人を迎えに行き、『魔笛』が上演されるヴィーデンのフライハウス劇場の桟敷席に案内している。 サリエリは終始「ブラヴォー」と叫び、「これこそオペラだ」と賞賛していたという。 モーツァルトは自分のオペラの人気が次第に高まってゆくのを実感し、大満足だったのだが、しかし、原因はよくわからないまま、徐々に(むしろ急激に)健康状態が悪化し、11月20日頃には病床に就くまでに衰弱し、そしてよく知られているように、モーツァルトは12月5日、永遠の眠りにつくことになる。 早すぎるモーツァルトの死によって、この曲は未完のまま補筆の手を待つことになった。
『レクイエム ニ短調』は、モーツァルトの手で冒頭の「イントロイトゥス」のほとんどすべてが書かれ、また「キリエ」の部分も弟子による若干の補筆を伴う形で残され、さらに、つづく「セクエンツィア」と「オッフェルトリウム」が主要声部とバスを書き出す形(「セクエンツィア」の「ラクリモサ」は冒頭8小節で中断)で残されたのであった。 近年の研究成果は、モーツァルトが「涙の日」のあとに続く《アーメン・フーガ》のスケッチを18小節まで試みている事実を明らかにし、また、自筆譜が残されている「イントロイトゥス」から「オッフェルトリウム」のあとの「サンクトゥス」、「ベネディクトゥス」、さらには「アニュス・デイ」などについてもスケッチを残していることはおよそ間違いではないという、確率性の高い推定を導き出している。
[書簡全集 VI] p.726
モーツァルトの死後、コンスタンツェにはレクイエムを未完で終らせることができなかった。 完成後に支払われる報酬が手に入らないばかりか、ヴァルゼックから先に支払われていた手付け金の返還を求められるだろう。 結果的には、弟子のジュスマイヤーにより補筆完成され、それが依頼主のヴァルゼック伯爵の手に渡り、1793年12月14日に初演されたが、しかし、スヴィーテン男爵によりそれより早く、1793年1月2日ウィーンのヤーン邸で、モーツァルトの作品として演奏されている。 さらに近年、ワルター・ブラウンアイスによって、モーツァルトの死後すぐ(5日後)ミハエル教会で追悼ミサが行われ、弟子フライシュテットラーやジュスマイヤーの補筆により「入祭唱」と「キリエ」が演奏されたことが分かった。

ジュスマイヤーの補筆に対してその稚拙さや非モーツァルト的書法から不満が噴出し、1971年ドイツのヴィオラ奏者バイヤーにより修正版が出た。 それより以前に1965年ウィーンの研究家ノヴァクにより総譜が編集され、第1巻は未完のままのもの、第2巻はアイブラーとジュスマイヤーによる補筆完成版となっていた。 そしてこの刊行後きびしい「レクイエム論争」が続けられていた。 ジュスマイヤーは仕事が終ったとき、コンスタンツェから渡されていた貴重な資料(スケッチ)を破棄したと思われているが、近年ジュスマイヤーに渡されなかった資料が発見され、モーツァルトのレクイエムを復元しようとする試みがなされている。 この曲に筆を入れた人物を年代順にリストするとだいたい以下のようである。

  1. フランツ・ヤコブ・フライシュテットラー (1761-1841)
    モーツァルトの弟子。 「イントロイトゥス」はほぼ完成していたので、つづく「キリエ」のオーケストレーションを、たぶんジュスマイヤーと共同で、補筆した。 それがモーツァルトの死後すぐ、1791年12月10日に、追悼ミサで用いられた。
  2. ヨーゼフ・レオポルト・アイブラー (1765-1846)
    アルブレヒツベルガーの弟子。 1791年12月中旬、コンスタンツェから曲の完成を依頼され、「来たる四旬節の半ばまでに」終えると約束。 その年の四旬節は1792年2月22日から4月8日の復活祭までなので、その「半ば」とは「3月中旬」ということになる。 しかし、モーツァルトの自筆譜に直接書き込んで「セクエンツィア」のオーケストレーションを行ったが、未完の「ラクリモーサ」には手をつけられずに投げ出した。 約束した期日までに完成することはできそうもないと判断したのか、それともこの仕事はまったく自分の手に負えないものだと自覚したのだろうか。
    彼は『コシ・ファン・トゥッテ』の下稽古のとき、その手伝いをしたことがあるという。 モーツァルトは彼の力量を高く評価していたので、1790年5月30日に次のような推薦書を書いてもいた。
    本証明書持参人ヨーゼフ・アイブラー氏について、私は以下のことを証明いたします。
    氏はかの高名なるアルブレヒツベルガー先生にふさわしい弟子であること。 器楽の表現ならびに教会音楽の表現においても等しく熟練し、歌唱芸術においてもまったく経験豊富な精通した作曲家であり、かつ完璧なオルガン奏者にしてクラヴィーア奏者であること。 要するに、彼に比肩しうる人物がまことに稀有であることのみが遺憾であるところの若い音楽家であること。
    [書簡全集 VI] pp.565-566
    またアイブラーはモーツァルトの葬儀に参列した数少ない人物の一人でもあった。 コンスタンツェがまずアイブラーに補筆完成を依頼したのは無理のない選択であったが、音楽界において将来有望な才能の持ち主と認められつつあったアイブラーはコンスタンツェに利用されるだけだと悟り、補筆完成の仕事を断念したのかもしれない。
  3. フランツ・クサヴァー・ジュスマイヤー (1766-1803)
    モーツァルトの弟子。 アイブラーがモーツァルトからその力量を認められていたのに対して、ジュスマイヤーはコンスタンツェの浮気相手と疑われていた若者である。 モーツァルトの現存する最後の手紙は「1791年10月14日」付けのバーデンに保養中のコンスタンツェに宛てたものだが、その最後の最後に書かれているのは「某とは、きみの好きなようにしたまえ。 アデュー。 mit N. N. mache was du willst. adieu」という言葉であり、この「某」とはジュスマイヤーである。 そしてまさにレクイエムについて、コンスタンツェはジュスマイヤーと組んで好きなようにしたのである。
    さて、コンスタンツェがアイブラーに仕事を断られ、ジュスマイヤーに依頼し直したことから彼の補筆作業が始まる。 まず彼はアイブラーが直接書き込んでしまったモーツァルトの自筆譜を新たに別の楽譜に写し直し、そこから補筆していった。 そもそも彼は師モーツァルトから直接この曲の指示を受けていたという。 それを頼りに「キリエ」、「セクエンツィア」、「オッフェルトリウム」のオーケストレーションを完成させ、「ラクリモーサ」の9小節以降と、残りの「サンクトゥス」以降を新たに作曲し完成させた。 ただし最後の「コンムニオ」には「イントロイトゥス」と「キリエ」を転用している。
    これが定番となり、ヴァルゼック伯爵に納品されただけでなく、1800年にブライトコプ・ヘルテル社から総譜初版が出版されて広く流布し、現在に至る。
    なお、彼がモーツァルトの弟子であったというのはコンスタンツェの主張によるものであり、死の床にあったモーツァルトが彼に作曲の指示をしていたというのもコンスタンツェの回想(もしかしたら作り話)に過ぎず、それらを裏付ける確証は何もない。
  4. フランツ・バイヤー
    ミュンヘン大学教授でヴィオラ奏者。 稚拙な補筆や音楽理論上の誤りについて批判の絶えなかったジュスマイヤー版を修正し、洗練された作曲技法による版を1980年に出版した。
    さらに、その後、新たなバイヤー版(2005年)が出ている。
  5. リチャード・モンダー
    イギリスの研究家。 彼は、なぜコンスタンツェが最初からジュスマイヤーに完成依頼せず、その任をアイブラーに託したのかについて次のように結論づけた。 すなわち、「モーツァルトが世を去る直前に、ジュースマイヤーに曲を完成する仕方について指示を与えたというコンスタンツェや妹ゾフィー・ヴェーバーの証言」を否定し、「モーツァルトは死の直前までおのれの死を予感していなかったこと」、また「ジュースマイヤーが10月以降しばしばバーデンに滞在しており、モーツァルトからレッスンを受ける機会もわずかしかなかったこと」などから、「この弟子が師の『レクイエム』を完成すべく正当なかたちで依頼されたものではない」というのである。 そして「コンスタンツェ姉妹の証言は、偶然死の前日に師を見舞いに来ての偶発事」に過ぎないと推測し、「コンスタンツェは、まず夫の高く評価していた弟子のヨーゼフ・アイブラーにゆだねた事実も、この推測を補強する」と考えたのである。
    したがって彼が手を加えたものをなにも特別に敬意をもって扱う理由はないのである。
    (中略)
    不幸にしてジュースマイヤーは技術にも能力にも限界のある音楽家であったし、モーツァルトが彼と『レクイエム』について話し合い、どう続けるか、またオーケストレーションをどうするかについてこまかい指示を与えたという通俗的な伝説が事実だなどとはありそうもないことである。
    (中略)
    『ハ短調ミサ』(K.427)と同様に、この作品は未完成の作品に留まるべきである。
    [海老沢] pp.250-251
    こうして、モンダーはジュスマイヤーの補筆部分を切り捨て、ジュスマイヤーの手に渡らなかったモーツァルトのスケッチをもとに「ラクリモーサ」をまったく新しく書き直し、1961年に発見されたフーガのスケッチを補完した「アーメン・フーガ」を挿入、またモーツァルトに由来する真正な資料のない「サンクトゥス」と「ベネディクトゥス」を削除するなどして、1988年に出版した。
  6. ロビンズ・ランドン
    しかしそれは行き過ぎとして、「セクエンツィア」はアイブラーの補完を採用し、「ラクリモーサ」以下はジュスマイヤーのものを、というように同時代の補筆を尊重した版を1990年に出した。
  7. ロバート・レヴィン
    アメリカの音楽学者、ピアニスト。 モーツァルト没後200年記念のため国際バッハ・アカデミーから依頼を受けてジュスマイヤー版の改訂を行った。 「ラクリモーサ」から「ベネディクトゥス」まで大幅に手直しした。 1991年「シュトゥットガルト・ヨーロッパ音楽祭」で演奏。
どれにしても(たとえ稚拙といわれるジュスマイヤーのものにしても)死者モーツァルトのレクイエムとして強く心を打つものがある。 未完成ながらすべての部分が彼自身の手になる「ハ短調ミサ曲」のように未完のまま残った方が良かった(オカール)という意見も多くある。

〔演奏〕
LD [PHILIPS PHLP-9048] t=49'26
ボニー Barbara Bonney (S), フォン・オッター Anne Sofie von Otter (Ms), ジョンソン Anthony Rolfe Johnson (T), マイルズ Alastair Miles (Bs), モンテヴェルディCho, ガーディナー指揮イギリス・バロック管弦楽団
1991年12月5日 ※没後200年を記念してバロセロナのカタルーニヤ音楽堂で行なわれたライブ映像
LD [LONDON POLL-9040] t=93 (儀式含む)
オジェー Arleen Auger (S), バルトリ Cecilia Bartoli (Ms), コール Vinson Cole (T), パーペ Rene Pape (Bs), ウィーン国立歌劇場Cho, ショルティ指揮ウィーン・フィル
1991年12月5日 ※没後200年を記念して行なわれたウィーン聖シュテファン大聖堂におけるライブ映像。 ミサ・儀式も含む。
※ランドン版
CD [KING K30Y 310] t=57'43
シュターダー Maria Stader (S), フォレスター Maureen Forrester (A), ロイド David LLoyd (T), エーデルマン Otto Edelmann (Bs), ワルター指揮シカゴSO & Cho
1958年3月13日、ライブ
CD [KING 223E 1127] t=53'09
アメリンク Elly Ameling (S), ホーン Marilyn Horne (A), ベネルリ Ugo Benelli (T), フランク Tugomir Franc (Bs), ケルテス指揮ウィーンPO, ウィーン歌劇場Cho
1965年、ウィーン、ソフィエンザール
CD [CLASSIC CC-1066] t=64'26
マティス Edith Mathis (S), ハマリ Julia Hamari (A), オフマン Wiestaw Ochman (T), リッダーブッシュ Karl Ridderbusch (Bs), ベーム指揮ウィーンPO, ウィーン歌劇場Cho
1971年
CD [TELDEC 30P2-2225] t=48'24
ヤカール Rachel Yakar (S), ヴェンケル Ortrun Wenkel (A), エクヴィルツ Kurt Equiluz (T), ホル Robert Holl (Bs), アーノンクール指揮ウィーン・コンツェルトゥス・ムジクス、ウィーン歌劇場Cho
1981年10月〜11月
※バイヤー版
CD [POCL-2510] t=43'13
カークビー Emma Kirkby (S), ワトキンソン Carolyn Watkinson (A), ジョンソン Anthony Rolfe Johnson (T), トーマス David Thomas (Bs), ホグウッド指揮AAM & Cho
1983年9月、ロンドン、キングズウェイ・ホール
※モンダー版
CD [COCO-78063] t=48'39
ヴィーンス (S), シュレッケンバッハ (A), バルディン (T), ファウルスティッヒ (Bs), グロノスタイ指揮ベルリン放送SO, 指揮リアス室内Cho
1984年
CD [SONY SRCR-8893] t=45'30
アリオット・ルガズ Colette Alliot-Lugaz (S), ヴィス Dominique Visse (count T), ヒル Martyn Hill (T), ラインハート Gregory Reinhart (Bs), マルゴワール指揮、レジオナル・ノール・パ・ドゥ・カレーCho
1986年3月、フランス、クレ・ドゥト・スタジオ
CD [PHILIPS PHCP-3597] t=46'19
ボニー Barbara Bonney (S), オッター Anne-Sofie von Otter (A), ブロホヴィッツ Hans Peter Blochwitz (T), ホワイト Willard White (Bs), モンテヴェルディCho, アディソン Susan Addison (tb), イギリス・バロックO, ガーディナー指揮
1986年9月22〜24日、ロンドン、セントジョンズ・チャーチ
CD [KICC-33] t=52'13
シュミットヒューセン Ingrid Schmithusen (S), パトリアス Catherine Patriasz (A), マッキー Neil Mackie (T), ヘーレ Mathias Hoelle (Bs), オランダ室内Cho, シギスヴァルト・クイケン指揮ラ・プティット・バンド
1986年10月、ベルギー放送協会大ホール
※バイヤー版
CD [WPCC-3279] t=46'48
シュリック Barbara Schlick (S), ワトキンソン Carolyn Watkinson (A), プレガーディエン Christoph Pregardien (T), デル・カンプ Harry van der Kamp (Bs), オランダ・バッハ協会Cho, コープマン指揮アムステルダム・バロック
1989年10月、ユトレヒトでのライブ
CD [PILZ 44-9274-2] t=53'33
ウィーン少年Cho, グロスマン指揮ウィーン・コンサートハウス・オーケストラ
1993年
CD [Opus111 OP 30307] t=50'01
Iride Martinez (S), Monica Groop (A), Steve Davislim (T), Kwangchul Youn (B), Chorus Musicus Köln, Das Neue Orchester, シュペリンク Christoph Spering 指揮
2001年5月、ケルン、Sendesaal Deutschlandfunk ※ 全曲のほかに9曲の自筆断片( Dies irae [t=1'47], Tuba mirum [t=2'57], Rex tremendae [t=1'38], Recordare [t=6'09], Confutatis [t=2'28], Lacrimosa [t=0'50], Domine Jesu [t=3'17], Hostias [t=3'45], Amen [t=0'26] )を含む。

【編曲】

CD [SONY SRCR-9101] ラクリモーサ t=6'16
カツァリス (p)
1992年
※タールベルク編曲
CD [PHCP-11026] ラクリモーサ t=3'07
アーキアーガ (guitar)
1995年
CD [TOCP 67726] t=10'58
チルドレン・コア・オブ・ラジオ・ソフィア, 45人のエジプトのミュージシャン, Milen Natchev指揮ブルガリア交響楽団
1997年

〔動画〕

ジュスマイヤー補筆なし、未完成版
[http://www.youtube.com/watch?v=u_RfFH27Ddo] t=14'46
I. Introitus: Requiem aeternam - II. Kyrie eleison - III. Sequentia: Dies irae Tuba mirum
[http://www.youtube.com/watch?v=a8oFkKKmCIo] t=11'19
III. Sequentia (continues): (0:00) Rex tremendae majestatis - (1:40) Recordare, Jesu pie - (7:50) Confutatis maledictis - (10:20) Lacrimosa dies illa (unfinished)
[http://www.youtube.com/watch?v=5a9CuNa2L-A] t=7'29
IV. Offertorium: (0:00) Domine Jesu Christe - (3:20) Versus: Hostias et preces - V. (7:06) Amen fugue (sketch)
Christoph Spering

■ラクリモーサ

■アーメン・フーガ

〔参考文献〕

 

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2014/07/27
Mozart con grazia