Mozart con grazia > カンタータフリーメーソンのための曲 >
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フリーメーソンのためのカンタータ「我らの喜びを高らかに告げよ」 K.623

  1. Allegro 合唱 ハ長調
  2. Andante アリア ト長調
  3. Andante 二重唱 ヘ長調
  4. Allegro 合唱 ハ長調
〔編成〕 T, Bs, 男性合唱, fl, 2 ob, 2 hr, 2 vn, va, vc, bs
〔作曲〕 1791年11月15日 ウィーン
1791年11月

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自作目録に記載された最後の作品であり、生前に完成された最後の作品。 この「自作目録」はネット上に公開されているので簡単に見ることができ、ありがたいことである。 イギリスの大英図書館が公開している「British Library Online Gallery」中の「自作目録」29ページの一番下、144番目にこの曲が書かれている。

142番は9月28日付けで「魔笛のために、祭司たちの行進曲と序曲」であり、143番は日付なしで「クラリネット協奏曲イ長調」(K.622)である。 そして最後の144番目に「11月15日」の日付で曲目「Eine kleine Freimaurer-Cantate」と、そのあとに「合唱1曲、アリア1曲、レチタティーヴォ2曲、二重唱1曲から成る。 テノールとバス。 ヴァイオリン2、ヴィオラ、バス、フルート1、オーボエ2、ホルン2」と記載されている。 そしてこの右隣(30ページ)には数小節が書き出されている。
こうしてモーツァルト自身が1784年2月(ピアノ協奏曲第14番変ホ長調 K.449)から記録しはじめた「作品目録」は145作品で閉じられることになった。 モーツァルトは通し番号を10番まで付けていたが、そのあと別人が続けて144番まで記入。 ただし途中で33番が2つあるので、この最後の曲は145番となる。 この貴重な「作品目録」はモーツァルトの死後、コンスタンツェからブライトコップ・ヘルテル社に渡り、1800年にはアンドレの所有となった。 さらに1929年にシュテファン・ツヴァイクの手に渡り、現在はイギリス大英図書館が所蔵している。

11月18日金曜日、ロッジ「新授冠の希望 Zur neugekrunten Hoffnung」の新しい礼拝堂の落成式のために作曲したのもで、モーツァルトがメーソンのために書いた曲の中で最大。 この頃、モーツァルトは重い病におかされていたが、ちょうどその日は体調が良かったらしく、作曲家自身の指揮で初演された。 そして2日後の11月20日、モーツァルトは再び病床の人となり、さらに2週間後の12月5日、帰らぬ人となった。 この年の7月頃からレクイエムの作曲をしつつ、自分自身の死を意識していたはずであったが、この曲の合唱は何と力強いことか。
なお、その落成式では、閉式のとき「固く手を結び合い」(K.623a)が歌われたと伝えられている。

のちに、1829年、イギリスの作曲家で出版業者ノヴェロは妻を伴って大陸に渡り、モーツァルトの生涯についての資料を収集して回っているが、このカンタータがモーツァルトの指揮により歌われたときのことを次のように残している。

この曲の初演は大いに受けたので、彼は意気揚々と家に帰ってきた。 コンスタンツェによると、彼はこう言った。 「これ以上うまく書けたことはない。 これはぼくの最高の作品だ。 しかし総譜にしておこう。 そうだ、ぼくは病気だったから毒を盛られたなんてバカげた考えを持ったんだ。 レクイエムの譜を返してくれ、続きを書くんだ」。
[ソロモン] p.742

このカンタータの歌詞はシカネーダー作と言われていた。

この作品は、エマヌエル・シカネーダーの歌詞に基づいている。
(中略)
モーツァルトはこの作品を、なお11月18日、ロッジの新殿堂落成式で指揮し、兄弟達の歓呼を受けた。 テノール・パートを歌ったのは、やはりアダムベルガーであっただろう。 後に、ロッジは、モーツァルト未亡人コンスタンツェと二人の遺児のためにこの作品を出版した。 この作品が、何度か「荘厳祭式」で演奏されたこともわかっている。 『レクイエム』(K.626)と平行して書かれたこのカンタータは、しかしながら『レクイエム』と異なり、希望と友愛と光に向っての飛翔を歌っている。 異例に壮大な儀式のために作曲されたために、この作品は、フリーメイスンの伝統的合唱編成(テノールとバス)の他に、3人の独唱者と小管弦楽を要求しているが、この小管弦楽では、やはり管楽器の活躍が目立つ。
[コット] pp.141-142
しかし、ロビンズ・ランドンはシカネーダーの一座「フライハウス」にいた結社員ギーゼケ(当時30歳)のものと考え、現在はこの説が支持されているようである。 ギーゼケはモーツァルトと同じロッジに属していて、モーツァルトの死後、1792年9月8日に同ロッジが皇帝レオポルト2世を追悼してギーゼケの新歌詞によってこのカンタータを演奏したからであり、ランドンは次のように説明している。
元の歌詞はシカネーダーが書いた、と常々何の根拠もなく言われているが、分団が歌詞を出版した時には歌詞は結社員による、と明記してあった。 従ってギーゼケは、原詩の作者でもあると私は思う。 どちらを取るかは、いうまでもあるまい。
[ランドン] p.99
彼は『魔笛』の初演(1791年9月30日)のとき、奴隷役で出演したことでも知られているが、ギーゼケはのちに『魔笛』の台本の大部分を自分が書いたと主張した。 そのことから、ロビンズ・ランドンは彼を「悪名高い」と言っている。

モーツァルト没後まもなく、ロッジはモーツァルト未亡人と2人の遺児のためにこの作品を出版した。

1792年1月25日付の『ウィーン新聞』に皇王室御用出版業者ヨーゼフ・フラチャンスキーの広告が掲載された。 「モーツァルトによるカンタータ。 その未亡人と遺児のために・・・・ 死病に伏す2日前、彼が最も親しい友人たちのグループで演奏を指揮した白鳥の歌。 これはウィーンにおけるフリーメイスン・ロッジ開会のための、結社員の歌詞によるカンカータである・・・・」。 予約演奏会(2グルデン)は1月15日に始まり7月15日まで続いた。 総譜は1792年11月14日に出版されたし、予約会員でない人の料金は3グルデンであった。
[ランドン] pp.99-100

〔歌詞〕
CHORUS
Laut verkünde unsre Freude
froher Instrumentenschall,
jedes Bruders Herz empfinde
dieser Mauern Widerhall
Denn wir weihen diese Stätte
durch die goldne Bruderkette
und den echten Herzverein
heut'zu unserm Tempel ein.
Laut verkünde unsre Freude
. . .
  合唱
高らかにぼくらの喜びを告げよ、
音楽の楽しい響きを広めよ、
兄弟一人一人の心よ、
この壁のこだまを受け取れよ、
すなわち、兄弟愛の金の鎖を通して、
ここにこの家を献堂するのだから、
そして今日ぼくらの礼拝堂に、
真の心の結合があるのだから。
高らかにぼくらの喜びを告げよ、
(以下略)
石井 宏訳 CD[KING 250E 1217]

〔演奏〕
CD [KING 250E 1217] t=13'21
クレン Werner Krenn (T), クラウセ Tom Krause (Br), エディンバラ音楽祭合唱団 Edinburgh Festival Chorus, ケルテス指揮 Istvan Kertesz (cond), ロンドン交響楽団 London Symphony Orchestra
1968年、ロンドン、キングズウェイ・ホール
CD [UCCP-4061/70] t=11'45
ライプツィヒ放送男性合唱団, シュライアー指揮ドレスデン国立管弦楽団
1789年6月

〔動画〕

 

 

Karl Ludwig Giesecke

1761 - 1833

カール・ルートヴィヒ・ギーゼケは1761年4月6日アウクスブルクに生まれ、本名はヨハン・ゲオルク・メッツラー(Johann Georg Metzler)という。

はじめは法学と鉱物学を学んだものの、1783年には喜劇俳優となってシカネーダーの一座にはいった。 しかし1801年には舞台に別れを告げて、デンマーク王室鉱務監督官になり、1814年にはダブリン大学の鉱物学および化学の教授となって、同地で死んだ。 彼は、1818年から19年頃にヴィーンを再訪したとき、『魔笛』のテクスト全体の著作権を主張したということである。 しかし、リブレットの一部分が彼の手に成るとしても、せいぜいのところタミーノと説明者との談話くらいのものであろう。
[アインシュタイン] p.637
ただし、もしかしたらシカネーダーによる『魔笛』台本作りの陰の協力者だったかもしれない。 デンマーク王室鉱務監督官の時代にグリーンランドの調査で鉱物学と地理学上の重要な仕事をしているという。 アイルランドのダブリンに移住してからは Sir Charles Lewis Giesecke と名乗っていた。 1833年3月5日没。 結婚せず、子孫を残さなかった。
 

〔参考文献〕

 

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2013/12/01
Mozart con grazia