Gottfried van Swieten1734 - 1803 |
スヴィーテン男爵はオーストリアの外交官で宮廷図書館長や書籍検閲委員長などを歴任した。
大の音楽愛好家で、特にバロック音楽を好んだ。当時のウィーンで活躍するほとんどの音楽家と交友があり、
モーツァルトの数少ない理解者の一人でもあった。そして、ヘンデルのオラトリオ
「アキスとガラテア」、
「メサイア」、
「アレクサンダーの饗宴」、
「聖セシリアの祝日への讃歌」
の編曲を依頼した。彼を介してモーツァルトはヨハン・セバスチアン・バッハやヘンデルを知る。
自らも作曲したり、貴族仲間を集めて音楽協会(のちの「ウィーン楽友協会」の前身)を設立したり、古い音楽を収集したり、
ウィーンの音楽界への貢献は非常に大きい。
そしてモーツァルトの葬儀も彼が費用を出して行ったという。
[ 1782年4月10日 ] (モーツァルトからザルツブルクにいる父へ)
毎日曜日の12時に、スヴィーテン男爵の家へ行きます。そこではヘンデルとバッハ以外は演奏されません。
1782年5月26日、第1回アウガルテン演奏会でスヴィーテン男爵作のシンフォニーが演奏されたという。
[ 1789年3月21日 ] (スヴィーテン男爵からモーツァルトへ)
ヘンデルの作品に対して、一方では流行かぶれにも気に入られように、そして他方ではその崇高さを趣味豊かに示すことのできる人は、
彼の価値を感じ取り、そこから何かを創造できる人です。
これは「メサイア」の中の一曲をレチタティーヴォに編曲してもらうよう依頼したときの手紙。
編曲版「メサイア」は1789年3月6日、エステルハージ伯爵邸で初演された。
ウィーン楽友協会 (ムジークフェライン) |
ハプスブルク家支配(ウィーンに640年間君臨した)によるオーストリア・ハンガリー帝国の首都ウィーンには、この「ムジークフェライン」と「コンツェルトハウス」という2つの大きな組織があり、どちらも優れたコンサート・ホールを持っている。
ムジークフェライン・ホールは1870年にできた。
その前年には国立歌劇場(シュターツオーパー)ができている。
モーツァルトの死後、ウィーンは19世紀末には他民族国家として国際色豊かな都市であった。
その頃、ブルックナーやブラームスがウィーンで活躍していた。
そしてブラームスはこのホールの芸術監督を6年間務めた。
ホールには1744の座席、300の立ち見席がある。
さらに、室内楽用の小ホール「ブラームス・ザール」があり、そこには595の座席があるという。
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