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小カンタータ「無限の宇宙の創造者を崇敬する君らよ」 K.619

Eine kleine deutsche Kantate "Die ihr des unermeßlichen Weltalles Schöpfer ehrt"
  • Andante maestoso - Allegro - Andante - Allegro ハ長調 4/4
〔編成〕 T, p
〔作曲〕 1791年7月 ウィーン
1791年7月




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1784年12月14日、モーツアルトはフリーメーソンのウイーンにおけるロッジの一つである「善行に向かって進む Zur Wohltatigkeit」に入会し、死ぬまでの7年間、熱心な会員となった。 そして1785年にはフリーメーソンのための曲を量産している。 その年は「新加入者としての意気に燃えるモーツァルトにとってはまことに輝かしい年だったが、オーストリアのフリーメイスン結社にとっては黄金時代の最後の年でもあった」(シャイエ)という。 その後、多くのロッジは閉鎖されたり統合されたりして、メーソンの公認数は千人以上から360人にまで減った。 特にヨーゼフ2世が没した1790年以降は冬の時代ともいわれる。 モーツァルトは1786年以降メーソンのための曲を書いていないが、死の直前になって再びまとめ書きしている。 今ここで書いておかなければあとがないと自覚してのことか? その第一がこの小カンタータ「無限の宇宙の創造者を崇敬する君らよ」である。 この曲は1786年にレーゲンスブルクのメーソンの一員となったツィーゲンハーゲン(Franz Heinrich Ziegenhagen, 1753-1806)の依頼で作曲された。

兄弟ツィーゲンハーゲンの依頼で書かれたこの作品は、ツィーゲンハーゲンのある著作 ─ ルソーとフリーメイスンの教義の双方に触発され、それにおそらく自由主義的プロテスタンティズムの気運さえ加味した、新たな道徳律を論じた著作 ─ の附録として出版されるように作曲されたものである。 ジャン&ブリジット・マサン夫妻が明確に示したように、モーツァルトは単にこの本の出版に加わるよう請われただけでなく、この真の改革運動そのものに加わるよう請われたのであろう。
[コット] p.139
この依頼者ツィーゲンハーゲンは1753年12月8日ストラスブールで生まれ、1780年ハンブルクで貿易商社を設立し成功した商人であったが、ルソーの「エミール」に示された思想に触発され、貿易商で得た全財産を投じてアルザス地方に若者の共同生活施設を建てたという。 その「自然の友集団」と呼ばれていた結社の集会でこれが歌われた。 コットは
歌詞は、「宇宙の大建築家」 ─ それは時に応じて、エホヴァとか神とかブラーマとか呼ばれる ─ への呼びかけで始まる。 独唱者は基本原理を述べ、秩序と諧調と調和を荘厳に誉め讃える。 突然、情景が一変し、調子は活気づく。 無知の絆は破れ、偏見の帷は落ちる。
と説明し、「フリーメイスン達なら、この歌詞の中に、幾つかのロッジで行われていた、少年達の養子採用典礼から借用した言葉を見出すであろう」と述べている。 ツィーゲンハーゲンの著作は「創造の御業に対する正しい関係を論ず」というタイトルで1792年ハンブルクで出版されたという。 残念ながら彼のユートピアは失敗し、貧困のうちに1806年8月21日アルザスで没した。


生徒たちに悪魔の絵を指し示すツィーゲンハーゲン
https://de.wikipedia.org/wiki/Franz_Heinrich_Ziegenhagen

6月14日に「アヴェ・ヴェルム・コルプス」(K.618)、そして日付けは不明だが自作目録によれば7月にこの曲と同時に『魔笛』(K.620)が生まれている。 余談であるが、7月26日には四男フランツ・クサヴァーが誕生している。 彼は成人し、音楽家となり、後に「モーツァルト2世」を名乗ったことはよく知られている。
なお、フリーメーソンの教義が秘められているといわれる『魔笛』は7月にはまだ完成していたわけでなく、9月末まで作曲が続けられていた。 この時期、愛妻コンスタンツェはウィーン近郊のバーデンで療養中であり、妻が不在のウィーンでモーツァルトは、シカネーダー(当時40歳)やプフベルク(50歳)の世話になりながら『魔笛』の作曲を続けていた。

1791年7月3日、ウィーンからバーデンの妻へ
きのう(シカネーダーのところで)、聖アントニウス温泉にやはり来ている陸軍中佐と一緒に食事をした。 きょうはプフベルクのところで昼食をとる。 いとしいひとよ、愛するスタンツィ・マリーニ、急いで終えなくては。 ついいましがた一時が鳴ったのが聞こえた。 分かるだろうが、プフベルクのところは早い昼食が好きなのだ。 アデュー。
[書簡全集 VI] p.654
シカネーダーは孤独な彼のために邸中の小屋を使わせてもいた。 その「魔笛の家」と名付けられた小屋はのちにザルツブルクへ移されて現在に至っている。

『魔笛の小屋』
モーツァルテウムの庭園内にはウィーンから『魔笛の小屋』が移築されている。 右の写真に緑の苔が生えた屋根が見えるのがそれである。

さらに7月には「レクイエム」(K.626)の作曲も始めている。 それはよく知られているように完成されずに死を迎えることになるが、その一方で、最後の4ヶ月の間にモーツァルトはフリーメーソンのための作品を2曲書いていたことになる。 カンタータ「無限の宇宙の創造者を崇敬する君らよ」(K.619)と「我らの喜びを高らかに告げよ」(K.623)である。 この頃のモーツァルト家が抱えていた経済的困窮にもかかわらず、フリーメーソンのための2つのカンタータは収入の見込み外にあったようである。

モーツァルトがフリーメーソンに結びついたのは、どこにでもあるような、経済的、あるいは遊びのためといった動機とは全く違った理由からだった。 フリーメーソンの掲げる理想の中には、宗教に対するドグマを超えた態度、自己研鑽、精神的向上など、彼の胸に強力に訴えかけるものがあった。 フリーメーソンの人道主義的、啓蒙主義的な抱負、あるいは平等、自由、寛容、友愛などの理想、それに愛と理性による救済のビジョンなどは、モーツァルトを思想的に強力に引きつけるものを持っていた。 フリーメーソンは、モーツァルトが日常生活や活動に疲れて憩いを求めて行く場所でもなければ、プロの音楽家として援助者を求めて出入りする所でもなく、まして金を貸してくれそうな相手を探すといったような次元の世界ではなかった。
[ソロモン] p.517
ツィーゲンハーゲンによる歌詞は以下の通りであるが、「秩序、調和、友愛を愛し、叡智をもって力強く前進せよ」という内容が「投げ込まれすぎたきらいがあり、その点で必ずしもすぐれた作詞とはいえない」([事典]p.83)と言われる。 それに対してモーツァルトの曲は「朗唱と歌唱とを流動的に交替させることで、崇高ともいえる形式に止揚している」のである。

〔歌詞〕
Die ihr des unermesslichen
Weltalls Schöpfer ehrt,
Jehova nennt ihn, oder Gott,
nennt Fu ihn, oder Brama,
hört, hört Worte aus der Posaune
des Allherrschers!
Laut tönt durch Erden, Monden, Sonnen
ihr ew'ger Schall,
hört, Menschen, hört, Menschen,
   ihr auch ihr!
無限なる宇宙の創造者を
崇敬する君よ、
君がそれをエホヴァと呼ぼうと神と呼ぼうと
フウと呼ぼうと、ブラフマと呼ぼうと、
聴けよ聴け、万物の主なるものの
ラッパの語る言葉を。
その永遠の音は
地上に、月に、太陽に高く鳴り響く。
聴け、人よ聴け、
   その音を君もまた!
(以下略)
石井 宏訳 CD[KING 250E 1217]

〔演奏〕
CD [ARCHIV POCA-2066] t=6'56
クレプス Helmut Krebs (T), ノイマイア Fritz Neumeyer (hammerflugel)
1956年4月、フライブルク
CD [UCCP-4061/70] t=7'00
ブロホヴィツ Hans Peter Blochwitz (T), ヤンセン Rudolf Jamsen (p)
1978-89年、ドレスデン
CD [KING 250E 1217] t=7'34
クレン Werner Krenn (T), フィッシャー Georg Fischer (p)
1986年、ロンドン

〔動画〕

〔参考文献〕

 

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2017/10/08
Mozart con grazia