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K.618 モテット「アヴェ・ヴェルム・コルプス」

  • Adagio ニ長調 46小節
〔編成〕 SATB, 2 vn, va, bs, og
〔作曲〕 1791年6月17日 バーデン
1791年6月


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モーツァルトの晩年は、理由はよくわからないが、経済的困窮のなかにあった。 そのうえ別の災難がふりかかっていた。 すなわち愛妻コンスタンツェの病気であるが、それも困窮の大きな原因だったろう。 そのためモーツァルトは頻繁にメーソンの朋友プフベルクから借金を重ねていた。

コンスタンツェが重い病気にかかったのである。 1789年の7月のことだった。 その時彼女は妊娠5ケ月の身重だった。 彼女の病気が何であったかは、モーツァルトのプフベルク宛ての手紙にも説明されておらず、しかとは分からない。 彼女は両足と、片方の足先に痛みがあり、おそらくそれが重い静脈炎にまで悪化したのであろう。 そして病気はなお再発をくり返し、1791年の夏にもまた深刻なものとなったと思われる。 この時彼女はまたもや妊娠していたのである。
(中略)
医者はウィーンの南にある温泉地のバーデンで療養することをすすめた。 しかしこれには金がかかり、プフベルクがこれを融通したのである。
[ショークヴィスト] pp.40-41
こうしてコンスタンツェは7才の息子カールを連れて6月4日(土曜日)にバーデンに行き、アントン・シュトルの世話で一ヶ月間そこに滞在することになる。 それに先立ち、モーツァルトはシュトルに手紙(5月末)を書いている。
ぼくの女房のために小さな住居をどうぞ予約していただきたいのです。 彼女には2部屋あれば十分です。 あるいは、1部屋と小部屋で結構です。 でも、少なくとも必要な条件は、それが1階にあるということです。 ぼくの好みの住まいは、ゴルトハーンが肉屋で住んでいたあの1階家です。 まずは、あそこを尋ねてみてください。 おそらくまだ空いているでしょう。 女房は、土曜日か、遅くとも月曜日には着きます。 もしその家が手に入らなければ、温泉の近くのものを当たるよりほかないでしょう。 しかし、それでもやはり、1階の家であることが必要です。 アルト博士が住んでいた市役所書記の1階の家もいいですね。 でも、肉屋の貸し部屋がどこよりも好ましいです。
[書簡全集 VI] p.627
バーデンの合唱指揮者アントン・シュトル(Anton Stoll, 1748-1805)とモーツァルトには浅からぬ交友関係があったようである。
シュトルは、たとえばこの時代より数十年も前にボヘミアなどに多く存在して、その地方をチャールズ・バーニーのいう「ヨーロッパの音楽学校」のような地位に高めた、教師兼音楽家という豊かな伝統を身を以って継承していた人物で、何年も前からヨーゼフ・ハイドンやモーツァルトの友人であった(ヒステリー症だったハイドンの妻はシュトルのところに身を寄せ、そこで死んだ)。 モーツァルトはシュトルに自分の教会音楽の楽譜を貸したり、ミヒャエル・ハイドンの教会音楽の楽譜を手に入れたりしてやっただけでなく、村の小さな教会でシュトルが聖歌隊を指揮していると、それに加わったりもしていた。
[ド・ニ] p.139
コンスタンツェはシュトルの手配により「アルト博士が住んでいた市役所書記の1階の家」に落ち着くことになった。 モーツァルトはウィーンに留まり、『魔笛』(K.620)の完成に打ち込んでいたが、もちろん愛妻を放ったらかしにしていたわけではない。 ほとんど毎日のようにバーデンに手紙を書き送り、妻と息子を気遣いつつ、ウィーンの出来事をいつものように底抜けの冗談に包んで伝えている。 なかなかウィーンを離れることができない事情を言い訳しているようにも読み取れるものがあるが、父レオポルトに書いた重い手紙と比べると実に軽く、短い。 はっきりしないが、6月中旬、モーツァルトは仕事の都合をつけてバーデンの妻のもとへ行き、これまたはっきりしないが、何日か滞在した。 そのときこの曲がシュトルのために、世話になったお礼として書かれたと言われている。 自作目録には「6月18日、バーデンにて。声楽部、ソプラノ、アルト、テノール、バス。ヴァイオリン2、ヴィオラ、オルガンとバス。」と記入しているが、自筆譜には「バーデン、1791年6月17日」と書かれているという。 たぶんモーツァルトが一方的にお礼として献呈したのではなく、シュトルからの求めに応じて作曲したものと思われる。
バーデンでは一般に「キリストの御聖体の祝日」は、「三位一体の主日」の後の木曜日(この年の6月23日がそれにあたっていた)。 モーツァルトがアヴェ・ヴェルム・コルプスの初演のときに、自らバーデンの教会のオルガンを弾いたということもありえないことではない。 おそらくこの初演は四重唱か小さな合唱と、弦楽器の独奏者たちによって行われたのであろう。
同書
歌詞の作者はわからないが、[事典]によれば、「14世紀の法王インノケンティウス6世の作ともいわれ、古くからミサにおける聖変化のためのテキストとして伝承されてきた」という。 またド・ニは次のように説明している。
歌詞は典礼のなかで用いられていたものではない。 最も古いものでは、ライヘナウにおける14世紀の写本に見られる。 ルーアンの教会ではミサの通常文のなかに含まれていた。 南ドイツやオーストリアでは、このモテトが荘厳ミサの聖体奉挙の後や聖体降福式、そしてとくに教区の教会などで行なわれる聖体行列の後の荘厳聖体降福式で歌われていた。 1791年のバーデンでも同様だったろう。
もともと「キリストの聖体」の行事は皇帝ヨーゼフ2世による大規模な宗教上の改革で制限されてきたものが、レオポルト2世によって復活したものだという。
「キリストの聖体」の行事には、4つの場所で立ち止まる聖体行列が含まれており、その「4」という数は、まず祝福を与えられるこの地球の四方、次にその祝福に添えられる4人の福音史家による朗誦に対する関連を象徴的に示している。 この聖体行列には地域社会ぐるみで参加し、併せて豊作も祈願した。 これは「母なる大地」と「母なる教会」を合体させる祝祭であった。
[ランドン] p.83
このような機会のために作曲するという極めて平凡な動機であったが、作られた曲は(これはモーツァルトの場合よく見られることだが)単なる教会行事の域をはるかに越え、人類の至宝とも言うべき傑作となった。 そのうえ、この小曲には晩年の美しく静かで深い想いが感じられ、後世の評価は非常に高い。
あまりにも有名すぎるので、その天使的な美しさのほかに、巨匠の円熟した境地が現れていることは気づかれない。 それはすなわち、かすかな多声音楽を最後の高揚として導き入れる、転調と運声法の完璧さである。
[アインシュタイン] p.476
すなわち、モーツァルトは歌詞にそのまま曲をつけたのではなかった。
実はラテン語のこの歌詞には、「おお、優しく慈愛あふれるマリアの息子よ」という第9番目の詩句があるのだが、幸いにもモーツァルトはそれを無視した。 モーツァルトのモテトの構造は理想的にバランスが取れており、最初の語の「アヴェ」を二回繰り返すことによって、楽節がきわめて釣り合いの良いものになった。
(中略)
歌詞の意味を強調するために、彼は詩句や韻律の配置には頓着していない。
(中略)
第7番目の詩句で新たな音楽的な素材が表われ、ホモフォニックな書法がポリフォニックな展開を見せるのである。 しかもモーツァルトは「mortis in examine」(死の試練のときに)を「in mortis examine」と書き換えて、歌詞を元のものよりも良くしている。 これはもちろん、旋律と和声とを調和させるためである。
[ド・ニ] p.140-141
そのうえでド・ニは「伝統が培ってきたすべての可能性を、時代の先端にあって生きいきとした曲のなかに同化させながら、しかも大衆や共同体の祈りのための曲に必要とされるものをも尊重すること」ができた人はモーツァルト以外に存在しないと言っている。
モーツァルトはこの作品をもって、彼の考える教会音楽の新しい様式を確立した。 「アヴェ・ヴェルム・コルプス」の様式はその大衆性と、簡素で、敬虔な、また容易に理解されるものという彼の慎重な試みの点で、皇帝ヨーゼフ2世の啓蒙的改革と完全に一致するものである。
[ランドン] pp.83-84

余談であるが、シュトルは、モーツァルトから贈呈された曲として

の自筆譜を所有していた。

〔詩〕
Ave verum corps
natum de Maria Virgine :
Vere passum, immolatum
in cruce pro homine :
Cuius latus perforatum
unda fluxit et sanguine :
Esto nobis praegustatum
in mortis exanime.
 めでたし、まことの御体、
処女マリアより生まれた方。
あなたは本当に苦しみを受け、犠牲となられた。
十字架のうえにて、人のために。
あなたの脇腹は刺し貫かれ、
水と血が流れいでた。
私たちの先駆けとなってください。
死の試練の時に。


(那須 輝彦訳 CD[WPCS-4566])

〔演奏〕
CD [Teldec WPCS-22041] t=2'33
アグネス・ギーベル Agnes Giebel (S), 他
1966頃
CD [PHILIPS 422 753-2] t=3'53
デイヴィス指揮ロンドン交響楽団・合唱団
1971年4月、ロンドン
CD [UCCP-4078] t=3'53
※上と同じ
CD [harmonia mundi BVCD-5002] t=3'46
オランダ室内 Cho, クイケン指揮, ラ・プティット・バンド
1985年4月
CD [COCO-78064] t=3'26
リアス室内 Cho, クリード指揮, ベルリン放送SO
1985年
CD [SRCR-8544] t=3'12
テルツ少年 Cho, シュミットガーデン指揮, ヨーロッパ・バロック・ソロイスツ
1990年7月
CD [WPCS-4566] t=3'22
シェーンベルク Cho, アーノンクール指揮, ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス
1992年2月
CD [AUDIOPHILE CLASSICS APC-101.048] t=2'26
Riga Sacrum Chorus and Riga Musicians
1993年, Riga Recording Studios
CD [ERATO WPCS-4970] t=3'05
オックスフォード・ニュー・カレッジ Cho.
1996年

〔編曲〕
CD [BVCF-5003] t=3'01
ニュー・ロンドン・コラール
1984年
CD [SONY SRCR-9101] t=3'26
カツァリス Cyprien Katsaris (p)
1992年2月5日, ベルリン Siemensvilla
※リスト編曲(1862年、ローマにて)
CD [PCCY 30090]
ディール (p), ウォン (bs), デイヴィス (ds)
2006年、編曲

〔動画〕一例

〔参考文献〕

 

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2012/06/24
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