詩 人 |
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Lorenzo da Ponte1749 - 1838 |
本名エマヌエレ・コネリャーノ(Emanuele Conegliano)といい、ヴェネツィアのゲットー(ユダヤ人地区)で靴屋の子として生まれた。 キリスト教の洗礼を受け、ロレンツォ・ダ・ポンテと改名した。 修道院で学び、司祭になったが、20代のとき女性問題で「14日間の市外退去」を命じられ、そのままウィーンへ出た。
宮廷に近づき、詩人として活躍するが、宮廷詩人の座に就くことはできず宮廷劇場付詩人の肩書きで終ることになる。 最初サリエリのためにオペラの台本を作ったが、当たらなかった。 そのせいでモーツァルトと組む機会が生まれた。
モーツァルトとダ・ポンテは友人だったのか? 不詳であるが、筆者はそうであったと考える。 当時の話し言葉のスタイルでは、市民階級でも Du の呼びかけが用いられるのは家族や旧知の友人の仲のみであった。 それゆえモーツァルトとダ・ポンテのあいだのプライベートな口のきき方は、互いへの高い評価と共感にもかかわらず、親密さの限界を越えずに礼儀が守られた。 二人の話に誤解や意見の不一致は見当たらない。そしてダ・ポンテは次のように回顧しているという。[ブレッチャッハー] pp.305-306
モーツァルトは最高の資質を持ち、過去の、あるいは当代のどの作曲家よりも偉大な才能を有していたが、ライヴァルの機略にひっかかってウィーンでそのすばらしい天才を発揮できずにいた。 彼は大地の懐に抱かれ、輝やきを隠す貴い宝石さながら、暗闇のなかにとどまっていた。 ヨーロッパならびに全世界が、この天才作曲家の精選された素晴らしいオペラ作品を拝めたのは、わたしの忍耐力と不動の粘り強さが貢献したのだと思うと、誇りがいつもわたしの胸を熱くする。啓蒙君主ヨーゼフ2世の死(1790年2月20日、50才)後、レオポルト2世は大規模な人事一新を断行し、ダ・ポンテは解雇された。 なお、そのときサリエリも宮廷楽長の職を失った。同書 p.306
のちにロンドンに移り、書籍商になった。 さらに新大陸アメリカに渡り、イタリア・オペラや文学の紹介をするうち、ニューヨークで没した。 「回想録」を残している。
〔関係する曲〕
〔参考文献〕
Pasquale Anfossi1727 - 1797 |
Pierre Augustin Caron de Beaumarchais1732 - 1799 |
パリに生まれ、才気とユーモアと風刺に富んだ喜劇『セビリヤの理髪師』や『フィガロの結婚』を書いた。
『フィガロ』はダポンテのイタリア語訳にモーツァルトが曲をつけて傑作オペラ(K.492)となった。