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アリア「このうるわしい御手と瞳のために」 K.612Aria for bass "Per questa bella mano" with contrabass ad lib.〔編成〕 B, fl, 2 ob, 2 fg, 2 hr, 2 vn, 2 va, vc, bs, cb ad lib. 〔作曲〕 1791年3月8日 ウィーン |
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自作目録には、シカネーダー(当時40歳)の一座のバス歌手ゲルル(当時27歳)とコントラバス奏者のピシュルベルガー(Friedrich Pischlberger)のために作曲したことが書かれているが、この曲の作詞者は誰なのか、また、どのような機会に演奏されたのかは不明である。 容易に推測できることは、旧知の友人シカネーダーの興行の中で、ゲルルまたはピシュルベルガーの予約演奏会のためであろうが、その事実は不明である。 シカネーダーは1789年からヴィーデン郊外のフライハウス劇場(アウフ・デア・ヴィーデン劇場 Freihaustheater auf der Wieden ともいう)の興行主となり、新しい時代のさきがけとして、ドイツ語による台本をもとに大衆的な音楽劇を盛んに上演していた。
ウィーンの社交界の様相はだいぶ変化しつつあった。 モーツァルトの予約演奏会が徐々にうまくいかなくなったのは、彼とウィーンの聴衆との交流が減って、名を挙げる機会が失くなったというよりは、むしろ現実的な見地から説明されるべきだろう。 当時、トルコ帝国との戦いはオーストリアを苦しめていた。 多くの貴族はウィーンの館を後にして田舎の領地に移った。 お金は不足していたし、モーツァルトの予約演奏会失敗の一因は、疑いもなく単なる貴族と上流市民階級の資金不足にあった。ロビンズ・ランドンが言うように、「モーツァルトは一般に考えられていたよりもずっと現実主義者だったので、暮らし向きの必要に応じて、すばやく主力の置きかたを変えていた。 モーツァルトの生活のなかで、徐々に上流市民階級とシカネーダーの劇場が、宮廷オペラと貴族のサロンに取って代わろうとしていた」のである。 ヴォルフも同様のことを言っている。[ランドン] pp.58-59
モーツァルトはいつも、人生の浮き沈みに敏感であった。 人間として経験することへの研ぎ澄まされた意識、開かれた眼、批判的な観察、人間存在へのたぐいなく深い理解があったからこそ、彼は『イドメネオ』から『魔笛』に至る7大オペラにおいて、登場人物それぞれの状況とその多様にして赤裸々な感情を、すみずみに至るまで、かくもすばらしく表現することができた。ウィーンにおける音楽活動を取り巻く社会情勢の変化に敏感に反応して、彼はシカネーダーと組んで喜歌劇の上演活動に深く関わるようになっていたが、よく知られているように、いよいよ1791年3月か4月早々、不朽の名作『魔笛』作曲に着手することになる。 その矢先にこの曲を書いているが、おそらくすぐ演奏すべき機会(理由)がヴィーデン劇場側にあったものと思われる。 ただし、このイタリア語によるアリアの作詞者は誰か、さらにまたシカネーダーが用意したものか、謎である。[ヴォルフ] p.7
アンダンテで始められ、前奏の部分からコントラバスが重音奏法、音階、分散和音などを添えて進み、アレグロに速度を早めて第3節が歌われ、歌いやむのである。 愛と誠が歌われるテキストの作者は知られていない。ここで述べられているように、この曲の最大の特徴はコントラバスによるオブリガートの伴奏をもつという非常に珍しい編成になっていることであり、しかもその演奏に名人芸が求められていることにある。[海老沢] p.222
モーツァルトは独奏者および独唱者のパートをいずれも名人技風に扱っている。 コントラバス奏者は、3度の重奏、急速なスケール、アルペッジョ、幅広い跳躍に満ちた演奏を、そしてバス歌手にもそれに匹敵する離れ業を要求しているのである。モーツァルトは演奏者の力量に応じて作曲するのが常であったことを考えると、コントラバス奏者のピシュルベルガーは相当な名手だったことをうかがい知ることができる。 それはまた、シカネーダーは相当な力量をもった劇団員で一座を構成していたことを裏付けることでもある。[全作品事典] p.123
シカネーダーが寄せ集めた一座には、モーツァルトの義姉で素晴しいコロラトゥーラ・ソプラノのヨゼーファ・ホーファー(『魔笛』の夜の女王)のような優れた歌手たちもいた。 オーケストラは35人の奏者からなり、第一ヴァイオリン5人、第二ヴァイオリン4人、ヴィオラ4人、チェロ3人、コントラバス3人、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン、トランペット各2人、トロンボーン3人、それに打楽器奏者で編成されていた。 これは「田舎の」(つまり郊外の)楽団ではあったが、通常よりは大きな編成だった。 市中の宮廷劇場でさえ、『ドン・ジョヴァンニ』上演のような非常に特別な場合でなければ、とてもトロンボーンまでは用いなかった。晩年になって、モーツァルトが落ちぶれてゆき、宮廷劇場で自作オペラを堂々と上演するという夢が破れ、やがて場末のちっぽけな芝居小屋で『魔笛』を上演することになったという悲劇の天才像は改めなければならない。 シカネーダーのフライハウスは、規模も水準も観客も、モーツァルトが満足できるものであり、だからこそ彼は足繁くそこに通ったのであった。 ロビンズ・ランドンはフライハウスについてコモルツェンスキーを引用し、次のように書いている。[ランドン] pp.183-184
6つの大きな中庭、32の階段、325の部屋が繋りあった巨大で複雑な建物で構成されており、そこには聖ロザリアを奉った独自の教会、ありとあらゆる手工芸の仕事場、マルサーノ家所有の搾油機、ウィーン河から引いてきた流れによって動力を取る製粉所、などがあった。フライハウス劇場そのものは1787年から1801年(最後の公演は6月12日)までのわずか14年間しか存在しなかったというが、それはちょうどモーツァルトの最晩年をすっぽり包んでくれた幸運な期間だった。 なお、ロビンズ・ランドンによれば、「フライハウスは、かつてウィーン河の中洲にあった大きな区画の地所であった。 その一部は、悲しいことに、歴史的建物の最後の一角がブルドーザーで壊された1950年代まで、残っていた」という。
・・中略・・
このとてつもなく広い場所には、アパートメントもむろんあったので、座長も一座のほとんどの人々もこのフライハウスに住んでいた。[ランドン] pp.204-205
そしてまた、モーツァルトとシカネーダーとの共同作業も、あとから見ると、運命的であった。 1789年6月にレーゲンスブルクからウィーンに乗り込んできたシカネーダーは類まれな興行師魂を最大限に発揮し、輝かしいひと時代を築くことになるが、「次第に体の衰弱していくモーツァルトとはもう2年しか共に舞台をつくる時間は残っていなかった」(原)のである。
レーゲンスブルクでの陰謀が急を告げる事情がなかったなら、シカネーダーがウィーンに戻ってくることもなかったか、ずっと遅れたはずである。 するとモーツァルトとの共同作業にも間に合わなかったことだろう。 ともあれ絶妙のタイミングでシカネーダーはレーゲンスブルクを追い出され、フリーデルはフライハウス劇場を彼のために遺すことになった。 レーゲンスブルクからウィーンへ、まるであらかじめ決めてあったかのようにシカネーダーは渡ってきた。モーツァルトとシカネーダーが共有した短い時間のなかで、二人の共同作業の頂点は『魔笛』であるが、その周辺にいくつかの作品が書かれている。 それらはシカネーダーの抜け目の無いウケ狙いにモーツァルトが快く応じて(もちろん相応の報酬を受け取って)作曲したのだろう。 シカネーダーが歌ってヒットしたアリア「女ほど素晴らしいものはない」を主題にした「8つのピアノ変奏曲」(K.613)はその一つであり、バス歌手ゲルルのためのこの曲(K.612)もそのような意図のもとに生まれたのだろう。 もしかしたら、ピシュルベルガーのコントラバスを加えたのはシカネーダーのアイデアだったのかもしれない。[原] p.151
余談であるが、ゲルルは9月30日のヴィーデン劇場での『魔笛』初演でザラストロを、シカネーダーはパパゲーノを演じたこともよく知られている。
〔歌詞〕
Per questa bella mano,
Per questi vaghi rai
Giuro, mio ben, che mai
Non amerò che te.
L'aure, le piante, i sassi,
Che i miei sospir ben sanno,
A te qual sia diranno
La mia costante fé.
Volgi lieti o fieri sguardi,
Dimmi pur che m'odi o m'ami,
Sempre acceso ai dolci dardi,
Sempre tuo vo'che mi chiami,
Né cangiar può terra o cielo
Quel desio che vive in me.
〔演奏〕
CD [Brilliant Classics 93408/4] t=7'08 Ezio Maria Tisi (B), Wilhelm Keitel (cond), European Chamber Orchestra 2002年6月、バイロイト劇場 |
〔動画〕
〔参考文献〕
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