17 age |
61 5 |
62 6 |
63 7 |
64 8 |
65 9 |
66 10 |
67 11 |
68 12 |
69 13 |
70 14 |
71 15 |
72 16 |
73 17 ▲ |
74 18 |
75 19 |
76 20 |
77 21 |
78 22 |
79 23 ▲ |
80 24 |
81 25 |
82 26 |
83 27 |
84 28 |
85 29 |
86 30 |
87 31 |
88 32 |
89 33 |
90 34 |
91 35 |
92 |
エジプト王ターモス K.345 (336a)合唱と幕間音楽 Thamos, König in Ägypten〔編成〕 SATB, 2 fl, 2 ob, 2 fg, 4 hr, 3 tb, timp, 2 vn, 2 va, vc, bs 〔作曲〕 1779年(初稿は1773年)ザルツブルク |
|
1773年3月13日、モーツァルト父子はイタリア旅行を終えてザルツブルクに帰郷。 ミラノで父レオポルトは自分の病気を口実にしてまで時間稼ぎして(K.186のページ)息子の就職先を探したが失敗。 レオポルトはすぐさま次の手を打つ。 7月14日に父子はウィーンに旅立った。 ザルツブルクとウィーンの間の移動には2日かかり、16日に到着し9月24日まで滞在。 著名な医学者で音楽愛好家メスマーの世話になっていたようである。 イタリアで得られなかったものをウィーンに求めようとしていたが、レオポルトが神童の息子を売り物にして金と地位を求めて歩き回る姿は胡散臭く見られていた。 そのことを物語る有名な手紙がある。 マリア・テレジア女帝がミラノのフェルディナント大公に宛てたものである。
1771年12月12日、ウィーンこうしたことを知らずにレオポルトはウィーン滞在中になんとか女帝から栄誉を得たいと願っていた。 その機会は8月5日におとずれたが、妻への手紙で「皇太后は私たちにとても好意をお持ちでしたが、でもそれですべてでした」(8月12日)と書いているように、彼はここに来てようやくイタリアとウィーンには活路を見出せないことを悟ったに違いない。 しばらくザルツブルクで鳴りを潜めたのち、やがて西方での輝かしい過去を思い出して、パリへ息子を送り出すことに賭けるのである。
あなたはザルツブルク出身の若い人を使いたいと私に頼んで来られました。 私はあなたが作曲家のような役立たずを何故必要となさるのか分かりませんし、信じられません。 勿論それでもあなたがそれで満足なのでしたら否やは申しません。 しかし私が言っているのはあなたが役立たずのことで苦情を言わなければということであって、そういう人達があなたに仕えているかのような肩書きのことまでは含めていません。 そういう人達がまるで乞食のように世界中をほっつき回るとしたらそれは職務を侮辱するものです。 それに乞食には大家族がつきものです。[ドイッチュ&アイブル] pp.107-108
ウィーン訪問中の9月18日、レオポルトは妻への手紙の最後に「ヴォルフガングはある曲をまったく夢中で作曲しています」と書いているが、それはこの『エジプトの王ターモス』のための「2つの合唱と5つの幕間音楽」の最初の稿と推定され、それがケッヘル第6版でK.173dとして位置づけられている。 これは、フリーメーソンでもあったフォン・ゲーブラー男爵(Tobias Philipp Freiherr von Gebler, 1726-86)の作詞による英雄劇であり、彼はザットラー(Johann Tobias Sattler)に作曲依頼したが、作品に不満で、モーツァルトに注文しなおしたのだった。
ボヘミヤ宮内省の枢密顧問官兼副長官だったこの詩人は、彼の戯曲の第一幕と第五幕にある二つの大きな合唱場面の作曲を、はじめ学士ヨーハン・トビーアス・ザットラーという人に委任し、その仕事をさらにグルックに吟味させたのであった。 それでもなお、この音楽は彼を満足させなかったとみえて、彼はモーツァルトに新しい音楽を注文したのである。[アインシュタイン] p.619
この作品は、後の『魔笛』(K.620)と同様に、フランスのフリーメイスン小説、テラソン神父の『セトス』に想を得た擬神話的な壮大なフレスコ画的ドラマである。 実際のところ、ゲーブラーは作曲を結社員の誰かに依頼しようと思ったらしい。 ゲーブラーは、この「モーツァルトとかいう人物」(1773年に彼がベルリンの友人に書き送った言葉)に依頼する前には、グルックを作曲者として考えていたようだ、とテオドール・ド・ヴィゼワは記している。この依頼を受けて、17歳のモーツァルトは1773年8月から9月にかけてウィーンで(またはザルツブルクに帰郷後に)2曲の合唱(下記の第1曲aと第6曲a)と5曲の間奏曲を作曲し、完成させた。 彼の作品中で他に例のない劇音楽が生まれたのである。
ついでながら、モーツァルトとゲーブラーを結びつけたのは、どうやら友人のメスマーのようである。[コット] p.134
ここでは、せりふのテキストが、主導権を握っている。 音楽は、ドラマのごくわずかな箇所で、許容されるにすぎない。 しかもその音楽は、上演の場所や状況に応じて、入れ換えることができるのである。なお、モーツァルトとゲーブラーを結びつけたのがメスマーかどうかははっきりしないが、メスマーはモーツァルトにジングシュピール『バスティアンとバスティエンヌ』(K.50)の依頼をしたことでも知られている。
(中略)
『ターモス』中唯一「オペラ的」なのは、最後の声楽曲(「ちりの子らよ」)である。 ここでは、祭司長が文字通りの独唱者として、言葉を発する。 劇を大団円に導くために、この劇音楽は、ソロ楽曲ひとつ分、拡大されている。コンラート・キュスター(磯山雅訳) CD[Polydor POCA-1068]
第1幕
・第1曲a 祭司たちと太陽の乙女の合唱
「早くもあなたから逃れる、太陽よ」 "Schon weichet dir, Sonne"
・第2曲 幕間音楽 (Maestoso - Allegro ハ短調、3回鳴る荘重な和音は「魔笛」を思わせる)
第2幕
・第3曲 幕間音楽 (Andante 変ホ長調)
第3幕
・第4曲 幕間音楽 (Allegro ト短調)
第4幕
・第5曲 幕間音楽 (Allegro vivace assai)
第5幕
・第6曲a 祭司たちと太陽の乙女の合唱
「ものみなを支配したもう神性よ!」 "Gottheit, über alle mächtig!"
・第7曲a フィナーレ
|
このように作曲された劇は翌1774年4月4日、ウィーンのケルントナートーア劇場で初演された。 これにはゲーブラー男爵も満足したようで、「第一の合唱は実に美しい」と言っている。
その後ザルツブルクでも上演されたことが知られている。 ひとつは、1776年1月3日という記録がある。 さらにその後1779年(または1780年)にベーム劇団による上演のとき、大幅な手直しを加えた。 それがK.336aであり、上記の「a」付きの3曲が大きく書き改められた。 それらは「a」の付かない曲番で区別されている。 第7曲として終結合唱「塵の子らよ、震えおののけ Ihr Kinder des Staubes,erzittert und bebet」を追加した。 最初の版(K.173d)の楽譜は残っていないので、二度にわたる演奏の機会にどのような改訂がなされたのか不明。 諸説ある。 1779年の稿(K.336a)は現存し、新全集はそれを採用している。 その上で、旧稿の3曲(第1曲a、第6曲a、第7曲a)を付録としている。 なお、改訂の際、第7曲の合唱はシャハトナーの歌詞であろうといわれている。
両合唱曲を修正し、第二の合唱曲には根本的に手を加え、さらに第三の合唱曲を追加したが、この曲のテクストはゲープラーの戯曲中には見いだされない。 おそらく彼は五つの器楽間奏曲をも、この機会に改訂したことであろう。その結果、「最初の合唱曲は力強い朝の賛歌、太陽への挨拶であり、ロンド風に回帰する荘重なトゥッティと男声と女声の半数合唱を持っている。 これに比肩しうるのは、モーツァルト自身の最大の合唱曲の二、三、すなわちハ短調ミサ曲(K.427)のなかの諸楽曲やニ短調キュリエ(K.341)だけである。」(アインシュタイン)という傑作に変身した。[アインシュタイン] p.619
かくしてこの最初の合唱曲は力強い朝の賛歌、太陽への挨拶であり、ロンド風に回帰する荘重なトゥッティと男声と女声の半数合唱を持っているのである。 これはきわめて繊細な細工と的確な効果とを同時にそなえた曲である。 同じことが第5幕のいっそう大規模な、いっそう豊かに組織された合唱曲にも当てはまる。 これは感謝の歌であって、その愛国の歓呼には非常に賛歌めいたところがあって、われわれは知らず知らずのうちに第九シンフォニーの終結合唱を思い出す。 そして最後の、のちになって作曲された合唱曲(これもまた祈願と感謝の歌)が、僧侶めいて信仰を促がすバス独唱によって導入されるときには、すでにザラストロの声を聴く思いがするのである。また『ターモス』と『ドン・ジョヴァンニ』の接点を感じ取ることもできる。
器楽のセクションも合唱も、共に食い入る力を持っているが、中でもひどく人を畏怖させ、のちの『ドン・ジョヴァンニ』に直接つながるものを持っているところは、高僧の「汝ら塵の子よ」(ニ短調)の場面である。 こうした恐怖の描写は、それまでのハイドンやモーツァルトの音楽の中に現れたことはなかった。 その効果は、幕が開いて背筋の寒くなるような恐怖の世界が目の前に現れたようなものである。 それはこのあとのモーツァルトの音楽の世界を予告するものである。演奏の際、旧稿と改訂稿のどちらをとるかで第7曲の扱いはさまざまである。 ガーディナー(CD[Polydor POCA-1068])では旧稿と改訂稿を分けて(したがって第7曲aと第7曲を別々に)演奏、ハーガー(CD[UCCP-4061/70])では改訂稿(第7曲aなし)、アーノンクール(CD[TELDEC WPCS-6363])では第7曲aにつづけて第7曲の順に演奏している。[ランドン] pp.83-84
劇の内容そしてそれにモーツァルトが書いた音楽は後の『魔笛』を先行すると言われ、アインシュタインの言葉通りに「断片的な形でしか保存されていないのはまことに残念」である。 作曲者自身が、1783年2月15日付けの手紙で、父レオポルトに書いている。
ぼくが『ターモス』のために書いた曲を活用できないのは、とっても残念です! でも、この作品は、当地では気に入られなかったので、不評作の仲間入りをしました。 再演されることはないでしょう。 ただたんに音楽だけのためならば、再演奏されることもあるでしょう。 でも、それは多分むつかしいでしょう。 実に残念です![書簡全集 V] p.341
余談になるが、モーツァルト最晩年の1791年8月プラハで、皇帝レオポルト2世のボヘミヤ王即位戴冠式があり、そのとき宮廷楽長サリエリが20人の宮廷楽士を連れて随伴したが、よく知られているように、サリエリはモーツァルトのミサ曲3曲を携えて行き、式典でそれらを演奏指揮した。 そして、ミサ曲とは別に、サリエリはこの『エジプト王ターモス』からラテン語のモテットに編曲した合唱曲「Splendente te, Deus」(K.Anh.121)を演奏したといわれる。 このとき、モーツァルトも妻コンスタンツェと弟子ジュスマイヤーを伴ってプラハへ向かったが、これが彼の最後の旅行となり、そして12月5日に永眠する。
〔あらすじ〕
エジプト王メネスはラメッセスの陰謀で王位を追われ、死んだと思われていたが、 ゼートスという名で、ヘリオポリスの太陽の神殿で高僧を務めていた。その娘タルジスは父を知らないまま、ザイスという名で育てられていた。 彼女はラメッセスの息子タモスと愛し合っていたが、重臣フェロンがザイスの愛と王位を奪おうと企み、太陽の神殿に仕える娘たちの長ミルツァがそれに協力する。 そこへゼートスが現れ、王メネスと判明する。ミルツァは自殺し、フェロンは雷に打たれて死ぬ。タモスはタルジスと結ばれ、王位が譲られる。
〔歌詞〕
第1曲a | |||||||||
Schon weichet dir, Sonne, des Lichtes Feindin, die Nacht! Schon wird von Ägypten dir neues Opfer gebracht: Erhöre die Wünsche! Dein ewig dauernder Lauf Führ' heitere Tage zu Thamos' Völkern herauf! . . . |
早くもあなたから逃れる、太陽よ 光の敵なる夜は。 早くもあなたにエジプトから 新しい捧げ物がもたらされる。 願いを聞きたまえ! あなたの永遠なる歩みが ターモスの民衆に、 よき日々をもたらしますように。 (以下略) |
||||||||
第6曲a | |||||||||
Gottheit, über alle mächtig! Immer neu und immer prächtig! Dich verehrt Ägyptens Reich. Steigend, ohne je zu fallen, Sei's das erste Reich aus allen, Nur ihm selbst an Größe gleich . . . |
ものみなを支配したもう神性よ! たえず新たに、たえず輝かしくあれ! あなたを、エジプトの国はあがめ奉る。 昇りゆき、ゆめ下ることなく エジプトが栄え、世に唯一の国であるように 版図において、他に比べるものがないように! (以下略) |
||||||||
第7曲 | |||||||||
Ihr Kinder des Staubes, erzittert und bebet, Bevor ihr euch wider die Götter erhebet! Rächender Donner verteidiget sie Wider des Frevlers vergebene Müh'! . . . |
ちりの子らよ 震えおののけ、 神にさからっておのれを高くしようとせずに! 報復の雷が彼らを譲って下さる、 冒涜者の徒労に対して。 (以下略) |
||||||||
磯山雅訳 CD[Polydor POCA-1068] |
CD [POCL-6027] 4つの間奏曲 t=18'20 マーク指揮ロンドン交響楽団 1959年、ロンドン |
CD [TELDEC WPCS-6363] t=42'20 コレギウム・ヴォカーレ, オランダ室内合唱団, アーノンクール指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団 1980年11月、アムステルダム ※改訂稿による演奏 |
CD [UCCP-4061/70] t=40'26 ホル (B), ハーガー指揮ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団 1781年1月、ザルツブルク ※改訂稿による演奏 |
CD [Polydor POCA-1068] 旧稿 t=30'12 & 改訂稿3曲 t=24'00 モンテヴェルディ合唱団, ガーディナー指揮イングリッシュ・バロック・ソロイスツ 1991年10月、ロンドン ※旧稿と改訂稿の両方の演奏あり。 |
CD [TOCP 67726] t=4'49 チルドレン・コア・オブ・ラジオ・ソフィア, 45人のエジプトのミュージシャン, Milen Natchev指揮ブルガリア交響楽団 1997年 |
〔動画〕
断片K.Anh.101「2つの合唱曲」はプラートにより、この劇音楽の一部であるとされた。
〔参考文献〕
Home | K.1- | K.100- | K.200- | K.300- | K.400- | K.500- | K.600- | App.K | Catalog |