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ディヴェルティメント 第4番 変ロ長調 K.186 (159b)
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1772年10月24日、少年モーツァルトは父(54才)に連れられて3回目のイタリア旅行に出かけていた。 ミラノでオペラ『ルチオ・シラ』(K.135)を作曲し、さまざまなトラブルがありながらも年末に初演をはたした。 父レオポルトは当地で秘密裏に息子の就職先を探していたようであるが、うまくいかなかった。
1773年1月23日、ミラノからザルツブルクの妻へ理由なくザルツブルクでの職務から長期間離れていることはできない。 とりあえず時間かせぎにレオポルトは「激しいリューマチに襲われて身動きできない」と言い訳している。 一方で妻には心配かけまいとして本音をもらしてもいる。
ヴォルフガングのオペラを私はフィレンツェの大公宛てにお送りしました。 大公のところでの望みはなかったとしても、彼が私たちを推薦してくださるのを私は望んでいます。[書簡全集 II] p.371
1773年1月30日、ミラノから妻へじりじりしながらレオポルトはフィレンツェのトスカーナ大公からの返事を待っていたようであり、ここまで来た以上は諦めてさっさとザルツブルクに帰らずに、ギリギリまで粘ろうと腹を据えていたのかもしれない。
フィレンツェの大公からはその後、大公からのご返事はまだありません。 私の健康に関して書いたことは全部ほんとうではありません。 私は数日ベッドにいました。 でも今は元気で、今日はオペラに行きます。 でもおまえはどこでも、私が病気だって言わなければいけない。 そうすれば、このことはだれにも分かりません。同書 pp.373-374
1773年2月6日、ミラノから妻へそんな折たまたまレオポルトには都合よく、大雪が降って交通が不便になったうえに、今度は暖気が近づいてきたので雪崩が心配される事態になった。 リューマチという個人的な都合だけでなく、たとえ元気な者であっても動くことができない外的な理由が揃ったことで勇気づいたせいか、これなら帰郷が遅れるのもやむを得ないと相手は理解してくれるだろうと、ようやく彼は直接宮内大臣閣下宛に手紙を書くことができたが、それは2月20日のことだった。 しかしレオポルトの願いも虚しく、トスカーナ大公から宮廷音楽家として採用するという約束は得られず、「イタリアを去るのがつらい」と言いながら、3月4日頃にミラノをたち、13日に帰郷した。 それはちょうど一周年記念となるザルツブルク大司教の選任日(3月14日)のぎりぎり前日であった。
おまえたちが機会を見つけて、宮内大臣閣下、それからザウラウ伯爵閣下、あるいはフォン・アルコ伯爵夫人にお話をし、私から謹んでよろしくと申し上げがてら、私の体調がはかばかしくないことを知らせてくれればうれしいのだが。 私たちの到着について問い合わせがあっただけに、なおさらのことです。
1773年2月13日、ミラノから妻へ
宮内大臣閣下にお手紙を差し上げ、私たちのザルツブルク帰着が遅れていることについて大司教猊下にお詫び申し上げるべく謹んでお願い申し上げたいのですが、おまえに正直に言って、頭をあたためずには気がきいた、それとも筋の通った文章は書けず、ましてやいくつかの符号はきれいに書けないのです。 だからおまえは折をみて、伯爵閣下に私たちの名で、できるだけ早く私たちは出発するからと謹んでお許しを乞い、閣下に約束してください。同書 pp.375-377
実はイタリア旅行に出る直前、1772年8月9日、モーツァルトはザルツブルク宮廷楽団の主席ヴァイオリン奏者に任命されていた。 年俸は150グルテンで、ロバート・マーシャルによると、1990年のドル換算で約3000ドルに相当するという。 それにもかかわらずミラノに長居していたことで、職務をサボって父子でイタリアで遊んでいると陰口をたたかれていたと思われる。 さらに(こともあろうに)フィレンツェの宮廷楽団に職をみつけようとしてるらしいと噂されていたかもしれず、モーツァルト父子に対する悪い印象をザルツブルク宮廷内に、当然コロレド大司教にも、与える結果になったであろう。 さらに自分の妻には余計な心労を与えたことは不幸としか言いようがない。
このような時期にモーツァルトは2つのディヴェルティメントを書いた。 「第3番 変ホ長調 K.166 (159d)」と「第4番 変ロ長調 K.186 (159b)」である。 この作曲の目的は不明。 楽器の編成や楽章の構成、さらに同じような主題を使っているなどの点で双子の曲と見られている。 楽器編成については、クラリネットとイングリッシュ・ホルンという珍しい楽器が使用されていることで、ザルツブルク以外(たぶんミラノ)で特別な注文を受けて作ったと考えられている。 すなわち、
モーツァルトは、ミラノにおいて、あるいはミラノのために、そういう管楽器用作品を書きはじめている。 1773年春には五対の管楽器、すなわちオーボエ、クラリネット、イングリッシュ・ホルン、ホルン、ファゴットのための曲を二つ書いている。 1781年以前にクラリネットを用いている場合は、《外国向けに》書いていると見てまちがいない。 というのは、ザルツブルクにはまだこの高尚な楽器がなかったからである。ただし最近、クラリネットとイングリッシュ・ホルンがザルツブルクの宮廷楽団になかったからという根拠が揺らぎつつある。 その楽器は軍楽隊には備わっていて、宮廷楽団の演奏でも使用可能だったというからである。[アインシュタイン] p.281
2つのディヴェルティメントに共通するもう一つの特徴は以下のように扱われている主題である。 すなわち、18世紀後半に強い影響力を持っていたナポリ派のオペラ作曲家ジョヴァンニ・パイジェッロ(1740-1816)のオペラ・シンフォニア(1772年作)の第2楽章アンダンティーノが借用されていることと、また第5楽章ではモーツァルトの未完のバレー音楽『後宮の嫉妬』(K.135a / Anh.109)第31番から流用していることである。
〔演奏〕
CD [MVCW-19017] t=10'48 ウィーン・フィル木管グループ Vienna Philharmonic Wind Group 1954年6月、ウィーン |
CD [ORFEO 32CD-10120] t=10'28 ベルリン・フィル管弦楽団管楽アンサンブル Bläser der Berliner Philharmoniker 1983年6月、ベルリン |
〔参考文献〕
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