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6つのピアノ変奏曲 ト長調 K.180 (K6.173c)

サリエリの「ヴェネツィアの市」から「わがいとしのアドーネ」による

〔作曲〕 1773年秋 ウィーン
1773年7月



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1762年

1773年7月14日、17歳のモーツァルトは父に連れられて3回目のウイーン旅行に出た。 帰郷するのは9月26日頃と思われているが、この短いウィーン旅行で父レオポルトは何も得ることはできなかった。 一説には、この旅行の動機はウィーン宮廷楽長ガスマン(Florian Leopold Gassmann, 1729-74, 当時44歳)が病気に倒れたことで、その後任に自分の息子を売り込もうとレオポルトが企てたものと言われている。 少なくともザルツブルクではそのような噂が広がっていたという。

第1回目のウィーン旅行(1762年、モーツァルト6歳)のとき、シェーンブルン宮殿で女帝マリア・テレージアや皇帝フランツ1世の御前演奏し、女帝から大礼服を賜った(右はそのときの姿を描いたもの)ことから自信過剰気味のレオポルトは今回のウィーン訪問で大胆にも女帝マリア・テレージアに謁見し、ほかの貴族たちとはまったく接触しなかった。 ザルツブルクの噂がウィーンに届かなかったはずはない。 当然のことながら、田舎楽師に過ぎないレオポルトのそうした直接的で僭越な行動を女帝は快く思わなかったであろうし、いくらレオポルトがガスマンの病気との関連を否定しようとも、女帝にはその魂胆が透けて見え、ますます胡散臭い人物として悪い印象だけが残ったと考えられる。 女帝は既に(1771年末頃)息子のフェルディナント大公に次のような手紙を書いていた。

あなたは、若いザルツブルク人を自分のために雇うのを求めていますね。 私にはどうしてだか分かりませんし、あなたが作曲家とか無用の人間を必要としているとは信じられません。 けれど、もしそれがあなたを喜ばせることになるのなら、私は邪魔をしたくはないのです。 あなたは無用な人間を雇うわないように、そして決してあなたのもとで働くようなこうした人たちに肩書など与えてはなりません。 乞食のように世のなかを渡り歩いているような人たちは、奉公人たちに悪影響をおよぼすことになります。 彼はその上大家族です。
[書簡全集 II] p.323
もちろんレオポルトには知らないことであった。 今回のウィーン訪問で、モーツァルト父子が女帝マリア・テレージアに拝謁の栄に浴した8月5日の直前の8月2日、ザルツブルク大司教コロレド伯は女帝を表敬訪問していた。 話題にモーツァルトが上がったであろうことは想像に難くない。 もしかしたらコロレドは言葉を選びつつも父子がザルツブルクに腰を落ち着けようとしないことを話し、女帝は我が意を得たりと頷いたかもしれない。 レオポルトも鈍感ではないから、ただならぬ雰囲気を感じ取ったことだろう。 彼はザルツブルクの妻に書いている。
1773年8月12日
皇太后は私たちにとても好意をお持ちでした。 でもそれですべてでした。 帰ってからおまえに直接話すことにしましょう。 なんでもみんな書くわけにはいかないから。
[書簡全集 II] p.389
こうしてモーツァルトはウィーンの貴族を敵にまわすことになってしまい、のちのちモーツァルトが独立した音楽家として活路を見い出そうとするとき、陰に陽に障害となったものと思われる。 ガスマンは翌1774年に45歳の若さで他界し、ボンノ(Giuseppe Bonno, 1710-88)が後任の楽長に就任した。 そのときサリエリが宮廷作曲家になり、そしてさらに1788年にボンノの後任としてサリエリは宮廷楽長となるのである。 サリエリこそはガスマンによりその才能を認められて音楽の本場ヴェネツィアからウィーンに連れて来られた約束の人物であった。 だからこそ、レオポルトは一発逆転を狙って頂上作戦を企てたのかもしれないが、女帝マリア・テレージアにしてみれば、まったく身の程知らずの暴挙に等しい行為と感じたであろう。

この曲はそうした就職活動を目論んで滞在中のウィーンで作曲したと考えられている。 サリエリのオペラ「ヴェネツィアの市 La fiera di Venezia」のアリア「わが愛しきアドニス Mio caro Adone」の第1ヴァイオリン主題による変奏曲である。 そのオペラは1772年1月ウィーンで、11月マンハイムで上演されているが、その頃モーツァルトは見ていない。 この変奏曲の作曲のきっかけは不明であるが、このウィーン滞在中(1773年)に耳にする機会があったのかもしれず、上記のような状況のもとでモーツァルトの腕前を披露する目的があったと想像することもできる。 どのような事情があったのか不明であるが、サリエリが書いたパッセージを主題として変奏曲に仕立て上げたことから、ヴォルフは「モーツァルトはその音楽を気に入ったにちがいない」と言っている。 ただし、この時期のモーツァルト一家の手紙にはサリエリに関する言及はない。 のちに1778年12月10日のレオポルトの手紙には「サリエーリのアリオーソによる変奏曲」と書いてあり、父子の間でこの曲がサリエリの主題による変奏曲であることは了解し合っていた。

6つの変奏はすべてト長調。 初版はパリのエーナ社から「フィッシャーの主題による12のピアノ変奏曲」(K.179)、「美しいフランソワーズの主題による12のピアノ変奏曲」(K.353)とともに1778年に出ている。 そのとき「クラヴサンまたはフォルテピアノのため」と記されていた。 3曲の値段は4リーヴル16スウ(1フローリン36クロイツァー)だったという。

〔演奏〕
CD [EMI TOCE-11557] t=4'43
ギーゼキング Walter Gieseking (p)
1953年頃
CD [PHILIPS PHCP-3673] t=8'20
ヘブラー Ingrid Haebler (p)
1975年11-12月、アムステルダム・コンセルトヘボウ
CD [SYMPHONIA SY-91703] t=8'48
アルヴィーニ Laura Alvini (fp)
1990年8月
CD [TOCE-7514-16] t=9'14
バレンボイム Daniel Barenboim (p)
1991年3月
CD [NAXOS 8.550611] t=9'28
ニコロージ Francesco Nicolosi (p)
1991年12月、ブラチスラヴァ

〔動画〕

〔参考文献〕

 

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2018/12/09
Mozart con grazia