Mozart con grazia > 踊曲
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16の舞踏用メヌエット K.176

1. ハ長調    2. ト長調 3. 変ホ長調(※) 4. 変ロ長調(※)
5. ヘ長調 6. ニ長調 7. イ長調(※)  8. ハ長調
9. ト長調 10. 変ロ長調(※)  11. ヘ長調 12. ニ長調
13. ト長調 14. ハ長調 15. ヘ長調 16. ニ長調

〔編成〕 2 ob/fl, fg, 2 hr/tp, 2 vn, vc, bs
〔作曲〕 1773年12月 ザルツブルク
1773年12月


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すべて4分の3拍子。 上記(※)トリオなし。 この年のザルツブルクでのカーニヴァルの舞踏会のために作られたと思われている。 キリスト教の最大行事である復活祭前の数週間は娯楽は禁止され、劇場は閉鎖され、庶民は肉を断って慎ましい生活に入るとされていた。 しかし18世紀には建前はそうであっても、実際は守られていなかった。 1770年ミラノでは謹厳実直なレオポルトにとって「腹立たしい」現状を目にして妻に以下のように書いている。

1770年謝肉祭の火曜日(2月27日)
当地では明日も木曜日もまだ肉を食べますし、毎日オペラや舞踏会があり、土曜日が最後です。 これはアンブロシウス派教会の制度で、町全体がそうやって生活しています。 ただし修道院ではローマ教会の慣例が守られていて、灰の水曜日に大斎がはじまります。 ところが灰の水曜日と木曜日には、聖職者たちはみんな修道院から駆け出してきて、町の知りあいのところにやってゆき、肉のご馳走にあずかります。 気に入ったかね? ああ、いつかおまえにこういった結構な出来事をたくさん話してあげよう。 いずれも啓発的なものじゃなくて、まったく腹立たしいことだがね。
[書簡全集 II] p.73
教会がそうであれば、民衆はなおのことカーニヴァルには大いにハメを外して気晴らしの場を見出していた。 そのいい例がこの時期に盛んに行われていた舞踏会である。 そのとき仮面をかぶり仮装した姿で踊るのが通例で、特にヴェネツィアで始まった仮面舞踏会は人気があり、ヨーロッパ中の宮廷に広がっていた。 モーツァルト父子も第2回イタリア旅行のとき、実際に本場の仮面舞踏会を見ている。
1771年2月13日
やっと謝肉祭の月曜日の朝ヴェネツィアに着き、午後ヴィーダーさんを訪ねて面会しましたが、彼は奥さんといっしょに、そのあと私たちがオペラに行くのについてきてくれました。 謝肉祭の火曜日にはお昼を彼のところで食べ、オペラに行きましたが、これは2時にはじまり、晩の7時ごろ幕になりました。 それから夕食を彼のところで食べ、ドイツ時間で11時から12時のあいだに、サン・マルコ広場の仮面舞踏会に行きました。
同書 p.253
地方都市のザルツブルクも例外ではなく、カーニヴァル時期に似たような仮装舞踏会が開かれ、レオポルトもそれを楽しんでいたことは、のちにモーツァルトがウィーンで「パントマイムのための音楽」(K.446)を作曲するとき、父レオポルトに「仮装舞踏会で使うアルルカンの衣裳を貸してほしい」と願っていることからもわかる。 もちろんモーツァルト自身は大のダンス好き、お祭り好きであり、1787年12月に念願のウィーン宮廷作曲家のポストに就くことができたが、その仕事というのは毎年冬期間の舞踏会でのダンス音楽を作ることだったとは運命のいたずらか? 彼はそれから死までの4年間に20曲を越える踊曲を作ったことはよく知られている。

ザルツブルクでは新大司教コロレド伯が前年の1772年4月に着任していたが、その年末から翌1773年3月までモーツァルト父子はザルツブルクを離れ、3回目のイタリア旅行に出ていたので、次のカーニヴァル・シーズン用に大がかりな舞曲を提供して名誉挽回の必要を感じていたのかもしれない。 カーニヴァルはいつ始まりいつまでなのか、その期間はその年によって、また土地によって違いがあるようであるが、おおよそどこでも1月・2月はそのシーズンなので、この舞曲は1773年暮れから翌1774年2月下旬までの間に何度か演奏される機会があったと思われる。

この年の7月、モーツァルトは父に連れられてウィーンに旅行し、9月26日に帰郷した。 そして、よく知られているように、モーツァルト一家はハーゲナウアーの借家からハンニバル広場(現在「マカルト広場」)にある「タンツマイスター・ハウス」(右の写真)に引っ越した。 その旅行で得た成果はいろいろなかたちで現れており、いわゆる「レオポルト合本」としてまとめられた交響曲集、中でも有名な「交響曲第25番ト短調」(K.183 / 173dB)があり、また最初のピアノ協奏曲ニ長調(K.175)などがあげられる。
この舞踏会用メヌエットはともすればそれらの陰に隠れてしまいがちな曲である。 しかし、少年期の終りを飾る傑作の一つと言われ、1769年頃のメヌエットに比べてはるかに豊かな内容があり、「玉虫色に変化する万華鏡のようだ」(エルヴァース)と評価が高い。 なお、11曲にはモーツァルト自身によるピアノ編曲譜もあるという。 また自筆譜の研究から、最初は12曲であったものを16曲に拡大したという説(ブランドゥル)もあるという。

〔演奏〕
CD [キング KICC 6039-46] t=26'52
ボスコフスキー指揮ウィーン・モーツァルト
1964-66

〔動画〕

〔参考文献〕

 

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2012/10/28
Mozart con grazia