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ピアノ協奏曲 第5番 ニ長調 K.175
〔編成〕 p, 2 ob, 2 hr, 2 tp, timp, 2 vn, va, bs |
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モーツァルト自身の手になる最初のクラヴィア協奏曲。 先の
は他の作曲家(「3つのピアノ協奏曲」はクリスティアン・バッハ)のピアノ・ソナタなどにオーケストラ・パートを加えたものだった。 これらの習作的作品のあと突如本格的なピアノ協奏曲が書かれたのである。 この頃、生まれつつあったこのジャンルに、ピアニストとしての天分を見事に発揮した作品であり、「試作というには、あまりに見事な腕前だ」(メシアン)というだけでなく、既に傑作の域に達している。 この驚くべき飛躍を上記の習作的コンチェルトだけで説明することはできない。 ザスローはこれらのミニ・コンチェルトは、それなりに効果が高い。 モーツァルトの最初のオリジナルなピアノ協奏曲K.175は、だれの目にも明らかな奇跡であり、しばしば、ゼウスの頭から完全武装して飛び出した知恵の神アテナとして描かれる。 しかし、K.175を生み出す上で上記の7曲がどのような役割を果たしたのかについては、いまだに適切な説明がなされていない。と言っている。 アインシュタインは[全作品事典] p.161
独奏楽器とオーケストラの釣合、ならびに規模の点で、すでにヨーハン・クリスティアーン・バッハをはるかに越えている。と絶賛し、さらにまた、ザスローは「この作品を習作と考えるのは、いかなる意味でも間違っている」と断言している。 モーツァルトが突然このような高みに達したピアノ協奏曲を書き上げた背景には、直前の弦楽四重奏曲(ウィーン四重奏曲)集の完成や、交響曲三部作(ハ長調 K.200、ト短調 K.183、イ長調 K.201)などの霊感あふれる作品が書かれていることが指摘されている。 オカールは
(途中略)
終楽章では、モーツァルトはもはやガラント風では満足しない。 1773年のヴィーン弦楽四重奏曲の二曲におけるように、学問的な対位法的なフィナーレとなる。 モーツァルトはこの楽章によって、最初のスタートからヨーハン・クリスティアーンをもフィーリップ・エマーヌエルをも、ともにはるかに引き離したばかりでなく、彼らを超克したのである。[アインシュタイン] p.396
当時懐胎期にあったこのジャンルを手がけた彼は、先人たちによって提起された問題、すなわち交響曲の精神と、多くの場合には社交的なものであった協奏音楽の精神をいかに調和させるかという問題を、天才的に解決してみせた。と述べ、サン・フォアの評価[オカール] p.43
他に較べようのない本当に見事な作品だ。 この作品だけで、もしまもなく当時の『ギャラントリー』の圧倒的な流行のために、イタリアとヴィーンの発見以来生きていた素晴らしい夢から目を覚まされなかったなら、青年モーツァルトの天才がその後どんな高みにまで行き着いたかを示すに十分だ。を引用して、この作品の価値を認めている。
さて、モーツァルト自身はこの曲にかなり愛着を持っていたようで、その後のミュンヘン旅行、マンハイム・パリ旅行、さらにウイーン時代においても大切なレパートリーとしていたことが残された手紙のあちこちで見ることができる。 たとえば、1778年2月14日、マンハイムからザルツブルクの父へ次のように書いている。
きのうはカンナビヒのところで音楽会がありました。 最初のカンナビヒのシンフォニーを別として、全曲ぼくの作品でした。このような演奏の機会にモーツァルトはオーケストラの部分を改変しており、タイスンによれば「管楽器の新たなパート譜の一部は1777〜78年にマンハイムまたはパリで書かれた」ものであるという。 さらに、1782年1月23日の手紙では、ウィーンのブルク劇場での演奏会で取り上げることを知らせているが、そのときウィーンの聴衆の好みに合わせてフィナーレを書き直していた。 それが独立した曲「ロンド K.382」となっている。 3月23日にこの新しいロンドをザルツブルクの父に送り、門外不出にするよう求めている。
(途中略)
それからぼくは、ぼくの古いニ長調の協奏曲を弾きました。 それはここでとても気に入られているからです。[書簡全集 III] p.526
同時に終楽章も送っておきます。 これはニ長調の協奏曲用に作ったもので、ヴィーンで大評判になったものです。 でも、どうか宝石のように大事に保管してくださいね。 誰にも弾かせないで。 マルシャンや彼の妹にも弾かせないでください。 これはぼくの専用に作曲したもので、愛するお姉さん以外、誰も演奏してはいけません。ウィーンの聴衆にぴったり合っていたこの協奏曲はモーツァルトの演奏会の重要なレパートリーであり、そのときの聴衆の反応に合せたカデンツァを即興したようである。 1783年1月22日にはザルツブルクの父に宛てた手紙のなかで次のように書いている。[書簡全集 V] p.218
お姉さんに機会があり次第、カデンツァとアインガングを送ります。 ロンドーのアインガングは、まだ書き直していません。 だって、ぼくはこの協奏曲を弾くときはいつでも、そのとき感じたことを弾くからです。その機会はすぐやってきて、2月15日に(各楽章の)3つのカデンツァが送られた。 そしてそのカデンツァはザルツブルクの聖ペテロ大修道院に残されてあるが、アインガングはまだ知られていないという。同書 p.330
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劇場は大入り満員でした。 ぼくはまたしてもヴィーンの聴衆にとても暖かく迎えられたので、すっかりうれしくなりました。 ぼくが舞台から去ったあとも、聴衆の拍手が鳴りやまないので、ぼくはもう一度ロンドーを弾かなくてはなりませんでした。 すると、まさに嵐のような拍手です。 これは3月23日の日曜日に予定しているぼくの演奏会のよい宣伝になります。予告通りに3月23日にウィーン宮廷劇場でコンサートが開かれ、このときの曲目は詳細に知られているが、その中にこの協奏曲がとり上げられていて、「当地で好まれている」とモーツァルトは書き残している。同書 p.346
この作品は、まったく性格の異なる2つのフィナーレを持つことになった。 あとで書かれたものに対しては、たぶん作曲者の意に反して、後世の評価は否定的である。 ザスローはつぎのように述べている。
後世の人々の意見は、「豊かな対位法的内容をもつ、厳格なソナタ形式の楽章」(ドイツの音楽学者ヘルマン・アーベルト)が「美しいオリジナル楽章の貧弱な代用品として気の抜けた一連の変奏曲」(イギリスの著述家カスバート・ガードルストーン)であるロンドに置きかえられた、ということのようだ。 しかし、モーツァルトやその同時代の人々はそのような意見ではなかった。ザスローが言うのはもっともであることは、モーツァルト自身が書き残した手紙から十分に読み取ることができる。 また、初版(1784年パリBoyer)では、作曲者自身が好んで演奏していたように、終楽章に「ロンド K.382」が置かれているのである。 現在は、作曲者が愛し続けたこの演奏があまり見られないのは残念である。[全作品事典] p.162
自筆譜はベルリンの Grassnick所有。
〔演奏〕
CD [TELDEC WPCS-10097] t=20'34 エンゲル (p), ハーガー指揮ザルツブルク・モーツァルテウム 1977年 ※カデンツァはエンゲル |
CD[ポリドール F32L-20321] t=22'17 アシュケナージ Vladimir Ashkenazy (p) 指揮(cond), フィルハーモニア管弦楽団 Philharmonia Orchestra 1986年 ※カデンツァはバドゥラ・スコダ |
〔動画〕
〔参考文献〕
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