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弦楽四重奏曲 第4番 ハ長調 K.157
〔作曲〕 1772年末か73年初 ミラノ |
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第3回イタリア旅行(1772年10月24日から1773年3月13日まで)を終えてザルツブルクへ帰郷する直前、1773年2月初めに旅先のミラノで作曲したらしい。 この旅行中に作られたいわゆる「ミラノ四重奏曲」の第3番。 この連作ではまだ明確な楽器編成が意識されていなかったのか、この曲では自筆譜に楽器の指定がない。 第2楽章アンダンテの指示は父レオポルトによる。
1773年2月6日、ミラノのレオポルトから妻マリア・アンナへこのとき書いていたのがこの四重奏曲ハ長調だと思われている。 リューマチのせいで体が不自由な父のそばで少年モーツァルトは「退屈しのぎに四重奏曲を書いている」(1772年10月28日レオポルトの手紙)と言われている一連の作品集の一つ。 ただしレオポルトは病気を口実にイタリアの地を離れることを遅らせ、息子をトスカーナの宮廷へ就職させる機会を探っていたと思われるので、その目的のために息子にイタリア風の6曲の四重奏曲集を書かせていたのだろう。 ソロモンは「そんな意図を悟られまいとするために」あえて「ヴォルフガングは暇つぶしに弦楽四重奏曲を書いている」と手紙に記したのだろうと見ている。
来週のはじめに当地を発って、おまえたちには謝肉祭の最後の幾日かの前にも会えるものとほんとに願っていました。 だがいまいましいリューマチが、今では右肩までやってきて、なにひとつ自分ではできないので、なんにも事がはこびません。
(中略)
建物の内外のお友だちのみなさまに私たちからよろしく。 ヴォルフガングは四重奏曲を一曲書いています。 それに私はこの手紙を書いたのでよろこんでいます。[書簡全集 II] pp.374-375
6曲からなる連作はとても「退屈しのぎ」の産物とは思えず、それらの調性の並びや楽章数などからして作曲者がある意図をもって(あるいは作曲者を監督する立場にあった人物の強い指導によって)計画的に作られたのだろう。 連作の第3番にあたるこの四重奏曲も3つの楽章からなり、中間楽章は短調で書かれている。
第1楽章には、後年にもよくあるモーツァルトのこの調性と結びついている堅固さと典雅さとがすでにあり、ロンドのフィナーレには結末の《眼目》がすでにあり、ハ短調の緩徐楽章はイタリア的な憂鬱の薬味に満ちている。[アインシュタイン] p.245
〔演奏〕
CD [WPCC-4115] t=12'49 バリリ四重奏団: Walter Barylli (vn), Otto Strasser (vn), Rudolf Streng (va), Richard Krotschak (vc) 1955年2月、ウィーン |
CD [Warner-Pioneer 32XC-29] t=11'08 セコイア弦楽四重奏団: 松田洋子 (vn), 渡辺実和子 (vn), James Dunham (va), Robert Martin (vc) 1981年3月、ニューヨーク |
CD [Claves CD50-8916] t=10'40 ソナーレ四重奏団: Jacek Klimkiewicz (vn), Laurentius Bonitz (vn), 小林秀子 (va), Emil Klein (vc) 1989年7月、ダルムシュタット |
〔動画〕
〔参考文献〕
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