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8つのメヌエットとトリオ (ピアノのための) K.315g

  1. ハ長調 II. ト長調 III. ニ長調 IV. ハ長調
  2. ヘ長調 VI. ニ長調 VII. イ長調 VIII. ト長調
〔作曲〕 1773年末 ザルツブルク

ケッヘル第2版では K².315a、第6版では上記の番号で、1779年初めの作品と推定されていたが、プラートによる筆跡研究から新全集では上記のように1773年末の成立とした。 エリック・スミスは「明らかにオーケストラ稿から(ピアノ用に)編曲されたもの」と言っている。 8曲ともトリオをもっているが、プラートによれば第8曲のトリオだけは1779年または1780年のものだという。 したがって、そのトリオはまったく別の作品として切り離さなければならなくなる。 あるいは真正でなく、別人(クリスティアン・バッハ)の作品であるかもしれないという説もある。

その第8曲については、1780年12月5日のミュンヘンからザルツブルクの父への手紙で

あの愛すべき、若くて、美しくて、器用で、賢いルイーゼ・ロードゥローン嬢が、あんな太鼓腹と一緒になるなんて、ぼくはとても残念です。 彼女はきっと、ぼくがバッハから学んだメヌエットの中間部の冒頭を
なんとか彼とうまく弾くようにはなるでしょう。 なぜって、終結部では、彼はたいしたことはできないでしょう。 少なくとも非常に厄介ですから。
[書簡全集 IV] p.498
1780年12月




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と書いていることが知られている。 バッハとはクリスティアン・バッハのことであり、ト長調のメヌエットの中間部(トリオ、ハ長調)の冒頭の旋律を手紙の中に書いているのである。 またルイーゼとは、ザルツブルクの貴族エルンスト・フォン・ロドロン伯爵の二人の娘の一人で、アロイジアのことである。 モーツァルトは彼女のために、1776年に「ピアノ協奏曲第7番ヘ長調 K.242」を作曲している。 それから4年後の1780年11月、モーツァルトは『イドメネオ』(K.366)上演という願ってもない理由のもと、ザルツブルクを飛び出してミュンヘンに滞在していた。 父レオポルト(当時61歳)はいつものように身のまわりのありとあらゆることを手紙(貴重な資料!)という形で伝えているが、12月2日の息子への手紙に
まだニュースがあります! 61歳の花婿(といっても私じゃありません)と19歳の花嫁です。 いったい誰だって? 肥っちょの宮廷侍従のロードゥローン伯爵が、アルコ伯爵のところにいるルイーズ・ロドゥローン伯爵令嬢と結婚します。 そこで私たちは女流のクラヴィーアの弾き手にして音楽愛好家を一人と、そして大司教はこの土地でもう一人余計にコキュ(寝取られ男)を持つことになります。
同書 p.489
と書いていて、それに対してモーツァルトは上のように返事を送ったのであった。 これについて細々と説明するのは野暮であるが、敢えて解説すると、以下のような意味が込められているのだろう。 すなわち、61歳のニコラウス・セバスティアン・ロドロン伯爵(Nikolaus Sebastian Graf Lodron, 1719-92)が19歳の娘ルイーゼと結婚しても、そんな年寄りが若い娘を満足させられるわけがなく、老人は寝取られるだろうという皮肉を込めて、モーツァルトは上のようなトリオの冒頭楽譜の数小節を示し、この部分はなんとかうまく弾くことはできても、終結部まで老人はもたないと書いたのである。 レオポルトはその譜面を見て、ニヤリとしたのは間違いないであろう。 このような事情であれば、モーツァルトは第8曲のトリオをザルツブルクの父を介して新郎新婦に贈るのが自然であるが、そのような機会はなかった。 想像をたくましくして、その曲を贈られた二人が愛らしい旋律の裏に恐ろしい皮肉が込められているとは知らず仲良く演奏する様子を頭の中に思い描くとき、モーツァルトの音楽のただならぬ二面性をここでも感じざるを得ない。 知らなければ素通りするところに、気がついたら危険な罠が仕掛けられているのである。

そのトリオのほかにも、モーツァルトがバッハから学んだ部分があり、第4曲のトリオは、1763年にガルッピ(Baldassare Galuppi, 1706-85)の「心をひきつける磁石」がロンドンで再演される際にクリスティアン・バッハが作曲したシンフォニアの緩徐楽章からとられたものであることが知られている。 これはまた、モーツァルトは「ピアノ協奏曲第12番イ長調 K.414」の緩徐楽章でも使っている。

ピアノ曲として書かれた楽譜が残されていて、それはモーツァルトがパリからウィーンまでの間にザルツブルクで使用していたものであることから1779年成立説が生れていたが、現在は上記のように修正されている。 それとは別に存在する第8曲の原稿を見てアインシュタインは本来オーケストラのための音楽(ただしオーケストラ譜はないが)と推測し、さらにほかの7曲についても同様であると結論づけていたが、上のような状況から第8曲のトリオ(エリック・スミスは「トルコ風のトリオ」と言っている)はこのメヌエット集と無関係ということになる。 また、新全集では「クラヴィーアのための小品」のほかに「オーケストラのための舞曲」にも分類されて収録されている。 8曲すべてが8小節を基本単位とする古典的メヌエットで構成され、第8曲の原稿には終りを意味する言葉「finis corona opus」が書かれてあり、それはこのメヌエット集の終曲であると解釈されている。

余談であるが、19歳の娘と結婚しようとしていた61歳のロドロン老伯爵には夫人がいて、夫人マリア・アンナ(Maria Anna、旧姓ハラッハ Harrach, 1756年4月25日生)は1780年暮れにまだ24歳だったが、そのとき死の床にあった。 にもかかわらず若い娘との再婚話が公然とされていたのである。 レオポルトならずととも不快に思わざるを得ない。 12月15日、彼はミュンヘンの息子に書いている。 少し長くなるが引用してみよう。

昨日の金曜日の朝5時に、ロードゥローン伯爵夫人の弔鐘が鳴らされました。 でも彼女が亡くなったのは、6時半になってからでした。 彼女は3時から朝の6時半まで瀕死の床にありました。 カプチン派教会の安息日司祭が一週間このかた、日夜、彼女の傍につききりでした。 おまえはこれ以上悲惨なものは考えもおよばず、これ以上苦痛にさいなまれるものは思いもおよばないでしょう。 彼女はもう声を出して喋れませんでした。 喉と口の中が壊疽の膿疱で真っ黒でした。 亡くなる2日前、彼女にはなお背中に膿傷ができ、そのあと、血がすべて腐ってしまいました。 恐ろしい死にざまでした! 子供たちはみんな侍従のところにいます。 御注意。 みんなひそひそ囁き合っています。 結婚のことでまだなにかむずかしいことがあるみたいだって。 私は破談になるのが望ましいと思っています。 この結婚はあまりにも不釣合いです。
同書 p.514
もしかしたら夫人マリア・アンナは老伯爵の手で毒殺されたのだろうか。 レオポルトがこの手紙の最後に自分のことを「おまえの年老いた正直な父親」と書いていることには深い意味が込められているように思われる。 夫人は17日(日)の晩に埋葬され、18日(月)に聖セバスティアン教会で死者のための鎮魂ミサが、20日(水)に2回目のミサが、22日(金)に3回目のミサが行われた。
 
聖セバスティアン教会と墓地へ通じる小路
よく知られているように、のちにレオポルトもこの教会墓地で永遠の眠りにつくことになる。
年が明けて、1月10日には夫人の遺言状により衣類の分配が行われた。 相続権を巡って親族から呪われた「茶番」の結婚式が強引に行われようとして、貴族たちだけでなく、町中の人たちの誰もが嘲笑していたが、1月13日のレオポルトの手紙によれば、
侍従の結婚式はすっかりご破産になりました。 彼はもう結婚しないと言明しました。 要するに、終わったのです! 分別のある人たちはみんな喜んでいるし、笑っています。
という結末になった。 したがって恐ろしい皮肉が込められたモーツァルトの愛らしい「トルコ風のトリオ」はその目的が果たされないままとなった。

〔演奏〕
CD [EMI TOCE-11558] t=14'03
ギーゼキング Walter Gieseking (p)
1954年3月
CD [キング KICC 6039-46] t=15'05
ボスコフスキー指揮 Willi Boskovsky (cond), ウィーン・モーツァルト合奏団 Vienna Mozart Ensemble
1966年
E.スミス編曲 (編成:picc, 2 fl, 2 ob, fg, 2 hr, 2 vn, bs)

〔動画〕

〔参考文献〕

 

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2013/03/10
Mozart con grazia