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ディヴェルティメント 第7番 ニ長調 K.205 (167A)
〔作曲〕 1773年7月 ザルツブルク? |
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自筆譜(ベルリン国立図書館)には日付がなく、別人の手で「ディヴェルティメント」と書かれてあるという。 楽器編成が異例であり、ヴァイオリンが2部でなく単独で用いられている。 そのためアインシュタインは「これはオブリガート・ホルンを加えた弦楽三重奏曲以外のなにものでもない」と評している。
はっきりとした曲の成立事情がわからないため、以下の2説がある。 その一つは、父とウィーン滞在中の8月18日メスマー博士の庭で開かれた演奏会のためというもの(ヴィゼワとサンフォア、オーレル)である。 アインシュタインも
当時モーツァルト父子が出入りしていた家の園遊会のために、おそらくメスマー家のために、1773年秋にヴィーンで書かれたのである。と述べている。 ケッヘル第3版では K³.173a に位置づけられていた。
・・・(中略)・・・
5、6人の演奏者が行進曲とともに登場、退場し、庭にのぞんだ蝋燭の光に明るい広間で、本来のディヴェルティメントを演奏するさまが想像される。 大きな深淵をあからさまにしてはならない、そして技術は目立たないように典雅な趣きのうちに包み込まれていなければならない。[アインシュタイン] p.274
もう一つの説はウィーン出発前、ザルツブルクのアントレッター家のためというもので、7月26日のアントレッター夫人の霊名の祝日のためというもの(ベーア、プラート)である。 ケッヒェル第6版(K.167A)および新全集はこの説を採用している。 プラートの筆跡鑑定では、しかし、このディヴェルティメントの行進曲と思われている K.290 は1772年と推定されているので、依然として成立は謎のままである。
〔演奏〕
CD [TKCC-15057] t=18'01 アーベントロート指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス 1956年 |
CD [KICC-2148] t=20'57 ウィーン八重奏団 1964年10月、ウィーン |
CD [PHILIPS PHCP-1222] t=17'45 アカデミー室内アンサンブル 1985年6月、ロンドン |
CD [CTA PD-1013] t=16'54 ザルツブルク・モーツァルト・アンサンブル 1986年6月、浦安文化ホール |
CD [KTCC-15268] t=18'12 ストラーカ指揮カメラータ・ムジカ 1986年、ベルリン、キリスト教会 |
CD [COCO-78056] t=18'49 ヴェーグ指揮ザルツブルク・カメラータ・アカデミカ 1988年9月、ミルシュタット |
CD [ERATO WPCS-11108] t=18'27 コープマン指揮アムステルダム・バロック管 1991年 ※オリジナル楽器使用 |
CD [BVCD-34043] t=17'57 ゼフィロ / ベルナルディーニ (ob) 2006年2月 |
〔動画〕
行進曲 ニ長調 K.290 (167AB)〔編成〕 2 hr, vn, va, bs〔作曲〕 1772年夏?/1773年夏? ザルツブルク? |
第3版では K³.173b に置かれていたが、第6版から K.167AB とされた。 どちらにしてもディヴェルティメント第7番(K.205)と関係づけられている。 プラートの筆跡鑑定により「1772年夏」とも推定されていて、成立について確実なことはわからない。 楽器編成と調性から、1773年夏の作と推定されているディヴェルティメント K.205 用の行進曲と見られているが、推定時期が1年も違っているので謎である。
〔演奏〕
CD [KICC-2148] t=2'19 ウィーン八重奏団 1964年10月、ウィーン |
CD [キング KICC 6039-46] t=4'24 ボスコフスキー指揮ウィーン・モーツァルト合奏団 1966年 |
CD [PHILIPS PHCP-1222] t=4'44 アカデミー室内アンサンブル 1985年6月、ロンドン |
CD [CTA PD-1013] t=2'17 ザルツブルク・モーツァルト・アンサンブル 1986年6月、浦安文化ホール |
CD [ERATO WPCS-11108] t=4'21 コープマン指揮アムステルダム・バロック管 1991年 ※オリジナル楽器使用 |
CD [BVCD-34043] t=4'34 ゼフィロ / ベルナルディーニ (ob) 2006年2月 |
〔動画〕
Franz Anton Mesmer1734 - 1815 |
1759年からウィーン在住の著名な医学者で音楽愛好家。 1768年、裕福な未亡人マリア・アンナと結婚し、立派な屋敷に住んだ。 見事なテノールの喉を持ち、チェロやハープシコードを演奏するのも得意だったという。 「動物磁気学」(メスメリズム mesmerism と呼ばれる)の提唱者。 彼の治療法は奇妙ともいえるやり方であり、治療にグラス・ハーモニカを演奏して聞かせることも含まれていた。 それが話題となり、「グラス・ハーモニカの演奏を聞くと気が変になる」と言われるようになった。 1777年には盲目のピアニスト、マリア・テレージア・フォン・パラディス(当時18歳)の治療に失敗し、また「人を狂気にさせる楽器」の使用禁止に従わなかったため、追放され、1778年にウィーンを離れた。 ヨーロッパを転々とし、次第に歴史の深い霧に包まれていった。
モーツァルトは12歳のときに彼の依頼によりジングシュピール『バスティアンとバスティエンヌ』(K.50 / 46b)を作曲。 1768年10月に博士の庭園(ガルテンハウス)で上演された。 1773年モーツァルトは3回目のウィーン訪問でも歓待を受け、8月18日にやはり庭園で催された大音楽会で主役を演じた。 そのとき「ディヴェルティメント第7番ニ長調」(K.205)が演奏されたともいわれる。
〔参考文献〕
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