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交響曲 第26番 変ホ長調 K.184 (161a)

  1. Molto Presto 変ホ長調 4/4 ソナタ形式
  2. Andante ハ短調 2/4 ソナタ形式
  3. Allegro 変ホ長調 3/8 ソナタ形式
〔編成〕 2 fl, 2 ob, 2 fg, 2 hr, 2 tp, 2 vn, va, bs
〔作曲〕 1773年3月30日 ザルツブルク
1773年3月
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いわゆるレオポルト合本第1番。 ミラノの後援者のために作曲されたと推測されてもいるが、はっきりしない。 ケッヘル第3版の番号はK.166aだったが、第6版からK.161aに位置づけられている。

自筆譜は、第1楽章の最初の2ページはレーオポルトによって、同楽章の残りの部分はプロの写譜家の手で、残る楽章はヴォルフガングの筆跡で書かれている。
[全作品事典] p.238
そして近年になって、大きく削り取られた日付の部分が上記の「1773年3月30日」と推定されたという。 それがK.161aという位置づけになる。

各楽章は完全に終止することなく続けて演奏され、いわゆるイタリア風序曲「シンフォニア」の形に近く、劇場的な雰囲気を持つ。 また、ソナタ形式の楽章でも反復記号の付いている部分はまったくない。 第1楽章の開始は協奏交響曲変ホ長調(K.364)によく似ている。

のちに、1779年、ドイツ語によるオペラ上演で各地で評判になっていたベーム(Johann Heinrich Böhm, 1740?-92)の一座がザルツブルクに訪れ、プリューミケ(Karl Martin Plümicke, 1749-1833)によるフランス語劇「マラバールの寡婦 La Veuve du Malabar」(作ルミエール Antoine-Marin Lemierres, 1733-1793)のドイツ語訳「ラナッサ Lanassa」を上演する際、その幕開け音楽として用いられた。 つまり、シンフォニー(交響曲)が序曲として使われたわけだが、当時はそれが普通であり作曲者にとっても不思議なことではなかった。

シンフォニーというものはモーツァルトの在世中は最もつまらないジャンルの一つであった。 当時の音楽のランクからいうとオペラが最高であり、よろず声楽は芸術的に器楽より上であった。 そして鑑賞の対象は主として名人芸であった。 音楽会とは今のように作曲者の思想を聴きに行くところではなく、演奏家の名人芸を聴きに行くところであった。 だから、音楽会の中心プロは何といっても声楽のソロで、次が器楽のソロであった。 従って演奏される器楽の形式といえば、個人の芸を披露するジャンル、つまり協奏曲や変奏曲などが最高であった。 そして室内楽などというのは内輪のサークルの娯楽用品であって演奏会用のものではなかった。
[石井] p.161
それだから、シンフォニーの役割は「最初の楽章でガヤガヤしている聴衆を落ち着かせ、演奏会の始まりを告げること」であり、肝心の名人芸の披露が終わったところで、「フィナーレ(終楽章)はぞろぞろ席を立つ中で演奏されるためのもの」だったことをモーツァルトも承知していた。
この年に作られた7曲のシンフォニーのうち3曲(K.199181182)は『イタリア風の』ジャンルに属し、おそらく期待されたオペラの注文を考えて作曲されたものと思われる。 変ホ長調シンフォニー(K.184)もこれらの作品に数え入れることができる。 これは明らかに序曲であるが、大編成オーケストラのためのものであって、第1楽章は非常に大規模なコンチェルト的構想を持ち、アンダンテ(ハ短調)は非常にデリケートに対話的に仕上げられているので、終楽章がすこし軽すぎるということがなかったら、初期の傑作に数え入れられるはずのものである。
[アインシュタイン] pp.307-308
ザスローもこのシンフォニーが劇音楽の序曲として書かれたという説を支持していて、その根拠に「全楽章が休みなく演奏されること」と、いくつかの劇音楽の序曲について「オーボエ2本とフルート2本という特徴的な楽器編成」が共通している点をあげている。

5幕の悲劇『ラナッサ』はベーム座のレパートリーとしてその後も上演されたであろう。 1783年7月から10月の間、よく知られているように、モーツァルトは新妻コンスタンツェを伴って故郷ザルツブルクを訪れているが、その間の9月12日にも上演された。

この戯曲は、夫の死をあきらめきれないヒンズー教徒の未亡人が、結局、火葬用に積んだ薪の山に身を投じるまでの苦しみを扱った作品である。 ベームの上演では、K.184が序曲として用いられただけでなく、『エジプトの王ターモス』のために作曲されたそれなりに重要な付随音楽、K.345が、歌詞を変えたうえでドラマを飾っていた。
[全作品事典] p.239

〔演奏〕
CD [ポリドール FOOL 20368] t=8'40
ホグウッド指揮エンシェント室内管弦楽団
1979-81年、ロンドン
CD [グラモフォン F35G-20080] t=8'09
レヴァイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
1985年6月、ウィーン
CD [Membran 203300] t=10'40
Alessandro Arigoni (cond), Orchestra Filarmonica Italiana, Torino
演奏年不明
CD [BVCD 37401/02] t=8'15
アーノンクール指揮ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス
2000年12月、ウィーン

〔動画〕

〔参考文献〕

 

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2015/10/18
Mozart con grazia